すべては1975年からはじまった。Vol.3 | をもひでたなおろし

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2024年に還暦を迎えた男のブログ

1975年の春先から、先にも書いたように僕は少年ソフトボールのチームに入った。

クラスの手打ち野球のメンバーで言えば、まだまだ「ドラフト下位」よりやや上の

位置だったので、当然レギュラーに成れるほどの実力はない。5年生主体のチームで

6年生が2人しかいない、まだユニフォームもないチームだったが、僕が補欠なのは

納得済みだった。シートノックでは守るところがないので、ひたすらバットの素振りと

同じくシートノックにあぶれた子とキャッチボール。これが練習の全てだった。

 

本格的に(?!)ソフトボールを始めた僕に、オヤジが

「新しいグローブを買ってやろう」と言い出したので、6月のある日曜日に

僕はオヤジと近所にあるスポーツ用品店へ出かけていった。スポーツ用品店へ入るのは

初めてだった僕は、沢山あるグローブの中から写真のグローブを選んだ。

 

 

写真は当時のグローブそのものではなく実際は同型の黒色のグローブだった。

前のおもちゃのようなグローブよりは本格的だ。あの頃はグローブを買うと、おまけに

固形オイルを一緒に付けてくれた。この固形オイルでグローブの革を柔らかくして使うのだという。

僕は布切れに固形オイルを塗りたくり、隅から隅まで磨きまくった。今ならオイルを

塗りすぎるとグローブが重くなる事を経験で知っているからそんなことはしないが

あの頃はひたすら磨くことで何だか自分が上手になっていくような気がした。

スポーツ用品店は美津濃(現ミズノ)の販売店だったので自然と美津濃のグローブを

選んだが、これ以降自分で使うグローブは殆ど美津濃製であった。

それからしばらく寝る時はグローブを枕元に置き、時には抱いて眠っていた。

可笑しいと思うかもしれないが、あのイチロー選手でさえ、子どもの頃買って貰った

グローブやバットを抱いて眠った。という。僕と同世代の野球少年は多かれ少なかれ

こんな経験があるのではないだろうか。

 

それほど…特に1975年という年は日本中で野球の、特にプロ野球の熱狂的な人気は

田舎の小学5年生にも感じるほど凄まじいものがあった。

原因は、前年秋に引退した長嶋茂雄選手がジャイアンツの監督に就任したからである。

 

 

劇的な引退試合からこちら、まさに世の中は「長嶋狂騒曲」といった感じで

新監督長嶋の動向は、その一挙手一投足が話題となった。2月の宮崎キャンプでは

日本テレビの中継が行われたが、この年の宮崎は雨が多く、雨の中を室内練習場で

軽い練習しか出来ないジャイアンツを仕方なく放送した。調整の遅れに一部の解説者は不安を

抱いていたが、多くのファンは宮崎キャンプの遅れはアメリカのベロビーチでの2次キャンプで

取り戻せるだろう。と楽観視していた。

 

ジャイアンツのベロビーチキャンプは順調に進んで、帰国後の後楽園球場での凱旋試合は

川上前監督の引退試合となっていたが、その試合で王選手が走塁中に脹脛の肉離れを起こし

開幕からのフル出場が絶望的になり、そのための戦力ダウンが響いて開幕から

ジャイアンツはずっと最下位に沈んだままだった。4月末には長嶋「選手」の抜けた穴を

埋めるべく、MLBのアトランタ・ブレーブスからデーブ・ジョンソン選手を獲得した。

 

 

ジョンソンは三塁を守り3番を打ったが、6月にはセ・リーグ記録の8打席連続三振を

喫するほど全く。と言ってよい程打てなかった。やがてジョンソンは死球を受け

1か月も戦線を離脱した。王選手ひとりが相手チームにマークされ、その打棒は中々

爆発しなかった。とにかくジャイアンツは全ての歯車が狂ってしまったようだった。

この1975年の6月末、長嶋ジャイアンツのあまりの負けっぷりに街にはこんな歌が流れた。

 

♪ 嵐が丘に一人立つ われらが友よ 長嶋よ

  きみのうしろに百万の巨人の星が燃えている

  がんばれ長嶋ジャイアンツ

 

  沈む夕日を背にうけて われらが友よ 長嶋よ

  いま反撃の時を待つ 夜明けはそんなに遠くない

  がんばれ長嶋ジャイアンツ

 

  天に代わって吠ゆるもの われらが友よ 長嶋よ

  戦さはたとえ一夜でも 勝利は残る永遠に

  がんばれ長嶋ジャイアンツ

 

  うしろすがたのくやしさの われらが友よ 長嶋よ

  天に狼 地に復讐 泣くな長嶋明日がある

  がんばれ長嶋ジャイアンツ

 

  きけや怒涛の勝鬨を われらが友よ 長嶋よ

  きみの勝利は百万の われらの明日の糧となる

  がんばれ長嶋ジャイアンツ

 

  それゆけ今だ立ち上がれ われらが友よ 長嶋よ

  男の意地が花を呼び 嵐となって吹き荒れろ

  がんばれ長嶋ジャイアンツ ♪

 

 (がんばれ長嶋ジャイアンツ / 詞 寺山修司)

 

 

 

作曲は小林亜星で、歌は湯原昌幸。この応援歌は残念なことに結構売れたのだ。

とにかくジャイアンツはシーズン1度も浮上の兆しがなく、ついに球団史上初の

最下位に終わる。

2023年のシーズン終了まで、ジャイアンツが最下位になったのはこのシーズンだけだ。

 

僕の話に戻ると、入った少年ソフトチームはやっとユニフォームを作ることになった。

作った。というか、チームの世話をしているおいちゃん…こういう野球好きの商店街の

おっさんが、昔はどこにも必ず居たものだ。…が、どこかの少年チームのお下がりを

貰ってきたような代物だった。今思うと、ユニフォームのデザインはヤクルト・アトムズの

ものと同意匠のものだった。多分ヤクルト系の少年チームから貰って来たのだろう。

ユニフォームの「アトムズ」というマークを剥がして、小学校名のワッペンをそれぞれが

家に持ち帰り縫い付けてもらって、それを着ていた。

 

 

そのユニフォームもチームの人数分には足りず、僕はそのユニフォームさえ貰えなかった。

商店街でお金を幾らかでも寄付していた店の子に優先的にユニフォームは渡っていったようだった。

僕は普通の家の子だったので、後回しになったのだろう。

今なら問題だろうがあの頃はよくある話だったし、おまけに僕は自分の野球の実力が

「それほど上手くないからそんなもんだ」と思っていたので悔しくもなかった。

 

面白いのはその後の話で、のちに人数分追加した新品のユニフォームを僕は貰うことになった。

背番号は11番。お下がりは10着だったから、僕は新品のユニフォームを貰えることに

なったのだ。これが本当の「残り物には福がある」という奴だろう。

 

ユニフォームの話はそこまで悔しくなかったが、読売新聞共催の大会に我がチームが

出場した時、記念にとジャイアンツの選手たちのサイン色紙が1チーム9枚貰えた時に

レギュラーだけが貰えた時の方が悔しかった。今なら僕の自宅には過去の名選手の

サインボールを沢山飾っているが、あのころのサイン色紙は本当に羨ましかった。

自分は下手でレギュラーになれなかったから仕方がない。と、諦めようとしたが

もし僕が指導者だったら、サイン色紙は皆横一列スタートでジャンケンして

勝った順に渡すだろう。と子どもながらに考えたりもしたものだった。

 

=1975年はさらにつづく=