一点集中主義?! | をもひでたなおろし

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2024年に還暦を迎えた男のブログ

「一点集中主義」こう書けばカッコいいが、僕はひたすらに不器用だったのだ。

まずは「野球とはなんぞや」と学校の図書館に行き、関連のありそうな本を

探して読んでみることにした。とにかく「理論武装」である。

 

1974年当時の内閣総理大臣、田中角栄さんが1965年にゴルフを始める時に

秘書の早坂茂三さんに「ゴルフの本、三貫目買ってこい」と言った。という。

以下は早坂さんの回顧本から…

 

“さっそく、新宿の紀伊國屋書店に行って、売り場の女の子に、

「お嬢さん、ゴルフの本、三貫目ください」と言った。女の子がギョッとした顔をして

私の顔をジーッと見て、「ちょっとお待ちください」すぐいなくなった、変人が来た。

と思ったんでしょう。“(中略)

 

“それからオヤジ(角栄さん)は三か月の間、明けても暮れてもゴルフの本を読んでいた。

目白の母屋に置く。事務所にも置く。自分の部屋の机の上にも置いた。(中略)

陳情書はテキパキ片付けるけど、あとはもっぱらゴルフの読書三昧です。

その間、オヤジはインドアの練習場へ行こうとも言わない。ひたすら、理論武装に

ふけっていました。それである日「全部、読んだ」と言って、東京・赤坂のTBS裏に

ある練習場へ出かけて行った。(中略)三か月間、連日のように四百発、五百発の

ボールを打った。(中略)

 

“田中のオヤジが初めてコースに出たのは私(早坂さん)が紀伊國屋書店から三貫四百匁の

本を買ってオヤジに渡して以来、半年目です。(中略)53と52で一ラウンドを終えた。

一緒に行った連中は、今日こそ角の字に吠え面を書かせてやろうと思っていたら、田中は

何と105で回ってしまった。声をのんでいたら、オヤジの言い草が

「オレは100を切るつもりで来たんだ」(中略)一年でハンディ18になりました。

田中角栄という人は、つねに一点集中主義、全力投球なんです。これと決めたら徹底的に

やる。まず、本を読んだ、ゴルフとは何か―そこから始めた。理論武装から入っていった。

(中略)「幹事長(角栄さん)インドアばっかりやったってダメだよ。コースはまた

違うんだから……」しかしオヤジはガンとして聞かなかった。“

 

(集英社文庫/オヤジとわたし/早坂茂三著より)

 

小学4年のガキが考えた事は、あながちmistakeだったとは言えない。大人になってから

上記の話を聞いた時に、まず本を読み漁った事が頭を過った。角栄さんのように直ぐに

野球は上手にならなかったけれど。(ちなみに3貫目というのは11.25Kgくらいです)

 

 

この本の表紙を見たら、僕と同世代の野球少年は「ああ、この本ね」と

頷いてくれるだろう。当時のヒーロー「長嶋茂雄・王貞治監修」という金看板を

背負った本である。何しろ「一週間」で仕上げてくれる(と、思わせてくれる)

題名が良いではないか。僕はまずこの本から読んでいくことにした。

今あらためて思い返してみると、内容は一週間で全てマスター出来る訳のない事

ばかりだった。とりあえずまずは「ボールは体の正面で取る」とか「素振りをしよう」という

ような「基本中の基本」が書いてあるだけだったはずだと思うのだが、とにかく僕には

新鮮に感じる事ばかりだった。

 

「プロ野球」の成り立ちも本から覚えた。日本のプロ野球にはセ・リーグとパ・リーグが

あること、讀賣ジャイアンツが9連覇を達成した事、各球団には本拠地があり、福岡には

「太平洋クラブ・ライオンズ」というチームが存在していること……

 

 

テレビのナイター中継も観た。殆ど、というか全部が讀賣ジャイアンツ絡みのゲームしか

放送されなかった。ゲームの中で当時話題になっていたのは、解説者の言う

「長嶋選手はよく頑張ってやっている」と、不振に喘ぐ長嶋選手についてだった。

長嶋選手は内野ゴロを打って走っていても一生懸命さがテレビのこちら側にも

伝わってくるプレースタイルだった。ヒットやホームランを打つ長嶋選手をあまり観た事は

なかったが、凄い選手だったんだろうな。という事だけは何も知らなかった僕にも感じられた。

打っていたのは王選手の方で、半袖のアンダーシャツから覗く両腕の筋肉に迫力を感じた。

 

 

チャンネル権は相変わらず母にあったのだが、うちのオヤジが家にいる時はナイターに

チャンネルを合わせていた。オヤジはどこのチームを応援している。とかではなくて

タクシーの運転手として、お客さんの話題に合わせるためにナイターを観ているのだと

思っていた。自身が野球好きなら僕に話題を振ったり、「キャッチボール」をしようとか

誘ってきても良いはずだが、そんなこともなかった。オヤジの少年時代は友達と野球を

楽しむような余裕もなかったそうだから、ルールさえ良く解っていない。と僕は思っていた。

 

1974年の夏休みだったように思う。例の街にひとつしかないデパートで、僕は叔母から

バットとグローブを買ってもらった。今思い出してみると、それは競技用のグローブではなく

僕よりもっと小さな子が「野球ごっこ」に使うような代物であったが、当時はそんなことも

わからず一応道具を揃えた。という喜びの方が強かった。この先、野球に深入りし

「道具オタク」になっていく僕の記念すべき最初のグローブは数年後、バラバラに

切り刻まれて他のグラブの当て革になってしまった。

 

 

上の写真は1974年の太平洋クラブ・ライオンズの復刻版オーセンティックユニフォーム。

太平洋クラブ・ライオンズはユニフォームの「カラー戦略」を一早く進めていた球団のひとつで

このユニフォームは1974年のサードユニフォーム。当時のパ・リーグはダブルヘッダー

(一日2試合)が多く、第一試合と第二試合の間にユニフォームを着替えて登場していた。

背番号25は太田卓司選手。キャップは当時の太平洋クラブのもので4年の間これだけの種類の

キャップを使用していた。(筆者所有・1種類のみ未収集)