怪獣博士の逆襲 | をもひでたなおろし

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2024年に還暦を迎えた男のブログ

1974年、僕は小学4年生になった。

 

相変わらずTVの特撮モノにうつつを抜かしていた僕なのだが、徐々に周囲の環境が

変わってきたのを肌で感じていた。「仮面ライダーV3」が終了し「仮面ライダーX」

「仮面ライダーアマゾン」「仮面ライダーストロンガー」と変わっていく毎に僕の興味は

薄れていった。但し「ストロンガー」の最終4話(歴代ライダーが登場する。)だけは

観たが、円谷プロの「ウルトラマンタロウ」に至っては「何故宇宙人なのにタロウ?」と

早々挫折し、後番組の「ウルトラマンレオ」はモロボシ・ダンのキャラ変更についていけず

こちらも早々と撤退した。どうでもいいがおおとり・ゲン役の真夏竜さんの顔が「レオ」に

似ていたのは偶然だったのだろうか?それとも似せてレオの造形を施したのだろうか?

 

この頃の僕のお気に入りの特撮モノと言えば東映製作のハードなストーリーが売りの

「イナズマンF」やピープロ制作の「電人ザボーガー」映画からドラマ化された

東宝の「日本沈没」などを観ていたが、クラスの男子達の関心は

「マジンガーZ(グレートマジンガー)」「ゲッターロボ(ゲッターロボG)」など

既にロボットアニメに移っていたようだった。

 

 

実は小学生のこの時期、僕の「大人になってなりたいもの」ナンバーワンは「漫画家」だった。

昔も今も「漫画家」という職業は人気のようだが、金が稼げそう。というような

即物的な考えではなく、単純に漫画が好きでよく石ノ森章太郎先生や永井豪先生の漫画を

模写していた。自分で言うのも何だが小学校4年生の割には上手だった。と思う。

よく友達から「ゲッターロボ」描いて!とか「マジンガーZ」描いて!などとせがまれると

僕は当時流行りだしたサクラのクーピーペンシルで色を付けて友達のノートに

漫画家気取りでサラサラと描いてあげていた。4年生時クラスの3学期末のお楽しみ会では

マジンガーとゲッターが共闘する(映画より少し早い!)紙芝居を描いて発表したことが

あるのだがその際は話の途中で紙が足りなくなってしまい、最後は皆爆発しておしまい!

という視聴率の上がらないアニメの打ち切りのようなストーリーになってしまったのは

マヌケだった。

 

 

しかし、さすがにもう4年生である。クラスの男子の話題や遊びは特撮番組やアニメより

「野球」と「サッカー」に二分されていった。放課後クラブに入る子も出てきた。

僕のような「怪獣博士」や「エセ漫画家」はクラスではいまひとつウケが良くない。

僕はいわゆる「運動音痴」で、身体能力を必要とされる「サッカー」はもちろん

少々運痴でも人数合わせで参加出来そうな「野球」にも、どちらも参加出来そうになかった。

そもそも4年生で、バットもグローブもサッカーボールも持っていなかったのは

クラスの男子で僕くらいだった。体育の時間はポートボールでさえ憂鬱で、走るのも

跳ぶことも苦手だった。と、いうか苦手と「思い込んで」いた。

初孫で長男である僕が危ない事をしようとするなら周囲が先回りして止められ

力いっぱい走ったり飛び降りたり。ということをやらずに大きくなったことが

原因なのか、消極的でインドア志向の子どもに育ってしまったようだった。

 

そんな悶々とした日々を過ごしていた4年生のある日、体育の授業で「ハンドベースボール」

の授業があった。「ハンドベースボール」とはゴムボールを手で打つ「手打ち野球」とも

呼ばれていたもので、その頃男子は昼休みには必ずクラスを2チームに分けて試合形式で

遊んでいた。

試合前に両チームのキャプテン(のような子)がジャンケンで勝った順番に選手を

ドラフト形式で指名していくのだが、僕はいつも「ミソッカス」で最後に仕方なく

指名してもらえる。という感じであった。それを体育の時間にもやろうというのだ。

「ミソッカス」の僕は授業なので仕方なく嫌々参加していたのだが、体育の時間も

残り10分程度となり、ゲームは同点で僕らのチームの裏の攻撃で終了、2アウトで

ランナー1塁という場面で僕に打順が廻ってきた。「怪獣博士」が初めて怪獣以外で

ハレの舞台に立ったのだ。「エイ!」とばかり目を瞑って半ばヤケクソで手を大きく振った。

 

ボールは見事拳に当たり右中間に飛び,サヨナラヒットになってしまった。

ひと振りで「ヒーロー」である。僕は味方の子達に取り囲まれて、今までに

味わった事のない高揚感に酔いしれていた。

「やれば出来るじゃん」誰かが言ったような気がした。

 

それからの僕は「ミソッカス」から「中くらい」に昼休みのドラフト順位が上がっていた。

全く野球には興味がなかったのに新聞のスポーツ欄を読むようにもなった。

大体、僕は何事も読物から入る癖があるようで、野球、特に「プロ野球」については

読書から知識を得ていった。「平和台球場」は北九州市小倉北区の「平尾台」にあり

「サヨナラホームラン」という新聞の見出しを見ると「今年のプロ野球も終わりか」と

勝手に思い込んでいた何も知らない少年は、こうして「野球」にのめり込んでいった。

 

ちなみに「ハンドベースボール」は1977年で小学校体育の授業から一旦姿を消し

1998年より「ベースボール型」授業として復活するまで「空白の21年」があったことを

付け加えておきたい。