オヤジの涙と栄光の背番号3 | をもひでたなおろし

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2024年に還暦を迎えた男のブログ

プロ野球に興味を持って、テレビのナイター中継を観るようになると

やはり気になったのはジャイアンツの勝敗だった。

僕らの世代は皆大なり小なり讀賣・日本テレビ他のマスコミの影響で

プロ野球=ジャイアンツに興味を持たざるを得なくなるような仕組みが出来上がって

いたのだとは思うが、この1974年のシーズンは少し違っていたようだった。

 

原因は長嶋茂雄選手の去就である。

 

 

当時プロ野球に詳しくなかった僕にも理解出来たように、長嶋選手が日本のプロ野球に

おいて、どれだけの影響力を持っていたのか今更ここで説明するまでもないだろう。

 

1974年、10連覇目指して戦うジャイアンツが9月に入り4連敗を喫し中日ドラゴンズに

首位の座を明け渡した頃から、ファンの間では「長嶋選手の引退」が少しずつ話題に

上がるようになってきた記憶がある。この年の9月末だったと思うのだが

東宝から映画「燃える男 長嶋茂雄 栄光の背番号3」の制作発表がそれに拍車をかけた。

(映画はこの年の12月に東宝チャンピオンまつりのプログラムとして公開された。)

 

後から知ったのだが、長嶋選手自身は7月中旬のオールスターゲーム前後に川上哲治監督に

今シーズン限りの引退を申し入れていたようで、スポーツマスコミには「長嶋引退」に関する

箝口令が敷かれていたという。一見元気にプレーを続ける長嶋選手に対し

どこか悲壮感が漂っていると僕が感じたのはあながち見当違いではなかったのだ。

 

ジャイアンツは9月半ばに首位を明け渡した後、10月に入りまさに最後の力を振り絞っての

6連勝でドラゴンズに必死に追いすがったか、ドラゴンズも5連勝で最後まで差を縮めることが

出来ず、ついに10月12日にドラゴンズは地元名古屋でセ・リーグの優勝を決める。

 

僕が思うに、ジャイアンツが9連覇を達成した王者たる所以は、雨の神宮で

ヤクルトスワローズと対戦し0-5でリードを許していた途中で、ドラゴンズ優勝が決定したにも

関わらず見事逆転勝ちを収めたところにある。普通なら勝っても負けてももはや関係のない

ゲームであるはずなのに、ゲームを投げずに最後まで戦ったのはまさに王者のプライドが

そうさせたのだろう。あの頃のジャイアンツにはそういうプライドがまだ残っていた。

 

神宮での試合終了後、長嶋選手は川上監督と記者会見に臨み、今季限りの引退を正式に

発表した。ひとつの時代の終焉を、多くの人が感じとった出来事であった。

 

長嶋選手の引退試合は10月13日日曜のダブルヘッダーと決まったが

当日東京後楽園球場は雨で、翌14日に延期された。

 

その日、僕は5時間目で授業が終わり、15時から放送が始まる引退試合を観ることが出来た。

家に帰ると、珍しく日の高い内にオヤジが家で試合を観ていたので

少し驚いた。仕事を早上がりしたのだという。「仕事の虫」でプロ野球などに興味がないと

思っていたオヤジが何故平日に仕事を休んだのか。僕はそちらの方が気になっていた。

ダブルヘッダーはジャイアンツがドラゴンズに2試合とも快勝し、ドラゴンズとのゲーム差は

「0」になったが、勝率の差でドラゴンズの優勝に変わりはなかった。

 

暮れなずむ後楽園球場の電光掲示板に「ミスターG 栄光の背番号3」と浮かび上がり

長嶋選手がマウンドに向かって歩き出した。実況中継の日本テレビの赤木アナウンサーは

やや興奮気味に、しかし寂しさを纏った声で実況を始めた。

 

 

赤木孝男日本テレビアナウンサー:輝かしき背番号3、長嶋茂雄。

17年間、燃える男の舞台となった、この後楽園球場のマウンドに向かっております。

輝けるスター長嶋。華麗なる大スター長嶋。

プロ野球の象徴として、栄光を一身に集めてきた長嶋選手。その長嶋選手が

人生のひとつの地図を力一杯生き抜いて今、新たな実りの季節へと向かって

出発しようとしております。長嶋選手、お別れの挨拶でございます。

 

長嶋茂雄選手(以下、長嶋):昭和33年、栄光の巨人軍に入団以来、今日まで17年間

巨人並びに長嶋茂雄のために、絶大なるご支援を頂きまして、誠にありがとうございました。

(拍手)

 

長嶋:皆様から頂戴致しましたご支援、熱烈なる応援を頂きまして、今日まで、私なりの

野球生活を続けて参りました。今ここに、自らの体力の限界を知るに至り、引退を決意

致しました。

(拍手と「辞めないでくれ!」のヤジ)

 

長嶋:振り返りますれば、17年間にわたる現役生活、いろいろなことがございました。

その試合をひとつひとつ思い起こしますときに、好調時は皆様の激しい、大きな拍手を

この背番号3を、さらに闘志を掻き立ててくれ……(拍手と歓声)

また、不調なとき、皆様のあたたかいご声援の数々のひとつに支えられまして……(歓声)

今日まで支えられてきました。

(拍手と歓声)

 

長嶋;不運にも、我が巨人軍はV10を目指し、監督以下、選手一丸となり死力を

尽くして最後の最後までベストを尽くし闘いましたが、力ここに及ばず10連覇の夢は

敗れ去りました。

(ここで「よくやった!」のヤジと大歓声)

 

長嶋;私は、今日、引退を致しますが、我が巨人軍は永久に不滅です!

(大歓声)

 

長嶋;今後、微力ではありますが、巨人軍の新しい歴史の発展のために、栄光ある巨人が

明日の勝利のために、今日まで皆様方から頂いたご支援、ご声援を糧としまして

さらに前進して行く覚悟でございます。長い間皆さん、本当にありがとうございました。

 

これで僕は歴史の立会人になった。

時代が変わっていく瞬間をテレビを通じ沢山の人たちと共有したのだ。

 

その時、僕はオヤジの目に涙が光っていたのを見た。

オヤジの胸中には今、どんな思いが去来しているのだろう?

僕はそのことを聞けずに、オヤジと黙ってブラウン管を観ていた。

 

多くの人達と同じように、オヤジにも昭和の高度成長の申し子とまで呼ばれた

「背番号3」に託していた思いがあったのだろう。

その思いを僕の筆の拙さでは表現することが出来ないので

詩人であるサトウハチローさんの詩を少し長くなるが引用したい。

 

      長嶋茂雄を讃える詩/サトウハチロー

 

  疲れきった時

  どうしても筆が進まなくなった時

  いらいらした時

  すべてのものがいやになった時

  ボクはいつでも

  長嶋茂雄のことを思い浮かべる

  長嶋茂雄はやっているのだ

  長嶋茂雄はいつでもやっているのだ

 

  どんな時でも

  自分できりぬけ

  自分でコンディションをととのえ

  晴れやかな顔をして

  微笑さえたたえて

  グランドを走りまわっているのだ

  ボクは長嶋茂雄のその姿に拍手をおくる

  と同時に

  「えらい奴だなァ」と心から想う

 

  ひとにはやさしく

  おのれにはきびしく

  長嶋茂雄はこれなのだ

  我が家でのんきそうに

  愛児達とたわむれている時でも

 

  長嶋茂雄は

  いつでもからだのことを考えている

  天気のいい日には青空に語りかけ

  雨の日には

  天からおりてくる細い糸に手をふり

  自分をととのえているのだ

  出来るかぎり立派に

  長嶋茂雄はそれだけを思っている

  その他のことは何も思わない

 

  ボクは長嶋茂雄を心の底から愛している

  自分をきたえあげて行く

  長嶋茂雄のその日その日に

  ボクは深く深く 頭をさげる

 

 

…きっと、オヤジも、長嶋選手と共に青春を歩んだ人々も

この詩と同じような気持ちで日常を戦ったに違いない。

僕なんかには想像の出来ないほど、長嶋選手に対する強い思い入れがあったのだろう。

多くの人々からすれば、まさしく長嶋茂雄は日本の青春時代とも言える

高度成長時代を懸命に戦ってきた同志のようなものだったのかもしれない。

 

ちなみにずっと後になってオヤジが長嶋ファンだった。というハッキリした出来事があった。

個人タクシーの組合でソフトボールチームを作ることになり、オヤジが持って帰ってきた

ユニフォームの背番号は「3」であった。三塁を守るのだ。とオヤジは照れ臭そうに笑った。

 

 

上の写真は長嶋選手が現役時代使用していたローリングス社製のグラブのレプリカ。

型式はXGP-3で引退試合には別のメーカーを使用していたようだが

上の1974年の宮崎キャンプの写真ではこのモデルを使っていることがわかる。

そもそも長嶋さんは道具に拘りが薄かったようで、例えばバットはルイスビルスラッガーの

アーニーバンクスAB4型を長く使っていたが、この時期は王選手が使っていたことで有名な

ジュンイシイ製の圧縮バットを使っていたこともあったようだ。

 

帽子は長嶋選手の愛した八木下製のチームキャップ。

当時子供達が被っていたような帽子とは当然だが造りが全く違う。

どう被っても形良くYGマークが前方に見えるようになっている、ある意味不思議なキャップ 。

現在のNPBの各球団が使用しているものとは違い、帽子のつばが丸形で18本のステッチで

縫い上げられている。どう被ってもキチンと頭にフィットする帽子である。色は長嶋さんが

1993年に2度目の監督に就任した際に指定したと言うミッドナイトブルーと呼ばれた色だ。

材質はドスキンと呼ばれる生地で、柔らかくて光沢感のある高級な毛織物である。

現在はニューエラなど外国製を使用するNPB球団が殆どだが、この八木下製は一時期

ほぼ全ての球団が採用していたそうである。当時の価格で1個18000円くらいだったようだ。

 

 

このユニフォームは2006年に復刻された9連覇当時のジャイアンツのユニフォームで

1974年当時はデサントのダブルニット製だったが、復刻版のこちらはアディダス製。

当時の雰囲気を上手く醸し出していると思う。マークは二重千鳥で加工されており

今流行りの昇華マークではなく伝統の重みが感じることができる。

写真はオーセンティックで原辰徳監督(当時)モデル。(それぞれ筆者所有)