さて、「怪獣博士」にも勝てないモノがあった。うちの母である。
母の怪獣嫌いは先に書いたが、怪獣博士の一番の悩みは「チャンネル権」がない事だった。
金曜19:00の「帰ってきたウルトラマン」はセーフだ。母のお気に入りの番組が
被っていない。問題は土曜19:30からの「仮面ライダー」だった。
1971年から1972年にかけて、小学生低学年男子の最大の話題の中心は「仮面ライダー」
であった。放送開始当時は少し怖めの演出で、人気も今ひとつであったが、藤岡弘の
負傷での主役交代……本郷猛から一文字隼人(佐々木剛)から画面自体が明るくなった。
後で調べると、当時東映から毎日放送に出された「主役交代における番組強化案」の
企画書には「7時台のキイハンターです」との記述がある。
当時東映製作TBS放送の土曜21時からの「キイハンター」は千葉真一のアクションが
カッコよく、子供にも好評で高視聴率を長く続けたスパイアクションを前面に打ち出した
ドラマだった。初期の「仮面ライダー」のおどろおどろしいムードから一転して
明るくなったのは確かだった。もっとも僕はあのムードは嫌いではなかったが。
「7時台のキイハンター」というのは判る。「キイハンター」の音楽は「ライダー」と
同じ菊池俊輔だったし竹本弘一・折田至・山田稔といった「キイハンター」の監督陣は
「仮面ライダー」の演出も手掛けていたのだから。特に第14話「魔人サボテグロンの襲来」
から第17話「リングの死闘 倒せ!ピラザウルス」第24話「猛毒怪人キノコモルグの出撃!」
第25話「キノコモルグを倒せ!」の6本は今観ると明らかに初期のムードとは
違うことが解る。「仮面ライダー」はこうして「変身!」を遂げて1971年の年末までに
ブームは最高潮を迎える。小学校低学年男子の視聴率はほぼ100%近いものが
あったのではないだろうか。
しかし、我が家の「仮面ライダー」には「強敵」が存在した。NHKで放送されていた
「連想ゲーム」というクイズ番組だ。「連想ゲーム」は母のお気に入りの番組でこの
土曜日19時30分の視聴習慣を変えることはとうとう出来なかった。
母が言い出すと絶対であったので、僕は無抵抗でそれに従うしかなかった。
なので「仮面ライダー」の本放送時には殆ど見ることが出来なかった。
時々土曜日に伯母の家へ泊りに行った時には「仮面ライダー」を見ることが出来たが
全話カバーすることは到底出来なかった。「仮面ライダー」をキチンと全部見たのはVTRが
家庭に普及しだした頃にレンタルビデオで観たのが最初だったように思う。
「仮面ライダー」の情報収集は1971年11月に創刊された講談社の「テレビマガジン」
からだった。「テレビマガジン」は以前の「ぼくらマガジン」のキャッチフレーズだった
「少年マガジンコミックス」を標榜し、「仮面ライダー」の話題を中心に添えた
月刊誌だった。少ない小遣いをやりくりして僕は「テレビマガジン」だけは何とか
買い続けた。「仮面ライダー」の情報はここから収集していたので、クラスの友達と
話がかみ合わない。という事はあまりなかった。
今考えてみると母も相当なモノだったと思う。泣いたり喚いたりしても無駄だと僕は
諦めていたので良いものの、子供が見たい。という番組より優先して自分が見たいものを
観る。というのは中々出来ない事だと思う。今は「録画」がどの家庭でも当たり前なので
若い方にはピンと来ないだろうが、人気番組を1週間見逃した無念さと言えば言葉で
言い表せないモノだった。
母の名誉(?!)のために付け加えておくが、歳をとってからの母は僕につられてか
若い頃のように毛嫌いせずに、いわゆる「特撮モノ」も観るようになっている。
1990年代初めNHKでBS放送がスタートした頃、深夜に円谷プロの番組を放送して
いたのを何となく観て「中々面白い」と毎晩観ていた。お気に入りは「ウルトラセブン」と
「怪奇大作戦(の牧史郎)」とのこと。母も娘時代には東映の時代劇の熱烈なファンで
中村錦之助や大川橋蔵に熱を上げていたらしい。当時の時代劇なんて僕から言わせれば
今のヒーローものと同じ、ストーリーは決まっているのだから……
血は争えないものなのだ。