不穏な空気
1991年3月、ラウンドハウスは不穏な空気で幕を開けた。
保守党支配のワンズワース区が、区内に拠点を構えるアジア系劇団、タラ・アーツ(Tara Arts)への55000ポンド(現在の2500万円)の助成金を打ち切ることを決定した。一方、アーツ・カウンシルは黒人劇団、タラワ(Talawa)に助成金30万ポンド(現在の1億3650万円)超を提供した(※1, 2)。
これによりタラ・アーツは15年所有していた拠点劇場を失い、逆に劇場のなかったタラワはホルボーン(カムデン区の南部)に拠点を構えることとなった。これがアジア系と黒人との格差を浮き彫りにした(※1, 2)(注1)。
とはいえ、本件はこの時点でラウンドハウスに関係ない。それはすでに黒人芸術センター計画が崩壊していたからだ。
しかし問題はタラワに提供された助成金の素性であり、それはそもそも前年度に計上された黒人芸術センターへの支給分、つまりラウンドハウスへの支給予定分だった。
ちなみに黒人芸術センターがその名に「黒人」を冠しながらも、少数人種全般を対象にしていたことは第64回で先述の通り。タラ・アーツからすれば、そのために計上された助成金なら今こそ自分たちに必要なものである(注2)。
この格差にはいかにもマスコミを喜ばせるスキャンダラスな要素があった。それは先のセンター計画の根幹にあった「反差別」に微妙に抵触する皮肉さがあったこと、そして先の計画で失われた莫大な公費とそのあやふやな幕引きに対し、いまだ市民の怒りが根強かったことである。
そうしたスキャンダラスの象徴こそ、かつてのあの黒き象、ラウンドハウスであり、その後も再生計画の足を引っ張ることになる。
(※1)Independent, 1991年3月5日, p8
(※2)Independent, 1991年3月13日, p5
(注1)本件で、タラワの芸術監督イヴォンヌ・ブリュースターは、自らの拠点劇場にタラ・アーツを招くとも述べており、格差はあってもマイノリティ同士の連携がみえる。
(注2)タラ・アーツはその前年に2300万ポンドもの大赤字を抱えていることが報道(Evening Standard 1990年8月23日, p14)されていたため、ワンズワース区とアーツ・カウンシルの決定はそれを受けたものかもしれない。
保護か開発か
ところで昨年1990年7月にカムデン区に提示された、あの魅力的なマーシュ案はどうなったか。
実のところ、あれほど魅力的だったにも関わらず、すでに早い段階でネガティブな空気に包まれ、なんとマーシュ案が報じられたわずか3日後に、カムデン区の難色が判明する(※3)。
この案はその11ヶ月後となる翌1991年6月にになっても進展がなく、報道各紙は却下を確実視した(※4, 5)。その具体的な理由はラウンドハウスの内部にある、あの中間柱の処遇だった(中間柱については第52回参照)。
マーシュ案ではこの柱の全24本中、4本を取り外すとしたが、それに対し文化財管理団体イングリッシュ・ヘリテージ(現在のヒストリック・イングランド)が噛みついたのだ。
この柱は現在もなお建設当時のまま残された非常に貴重なもの。というのも一方でラウンドハウスの外壁は、100数十年の間に何度もの改装が行われ、その際にことごとく破壊されているからだ。現在もその跡は痛々しい。
しかし劇場化するには中間柱は邪魔であり、そのままでは観客の視線を遮るため、180度の視界確保に10本程度は撤去したい。そう考えればマーシュ案で撤去を4本にとどめたのは、文化財保護を考慮した妥協案である。にもかかわらずの拒否回答である。
現在のラウンドハウス内部(撮影:Robbie Golec)
(現在もステージと観客との間を中間柱が遮っている)
この状況にメディアは反発、文化財の管理団体や保護行政の問題を報じ、組織改革の必要性を訴えた。これはラウンドハウスだけでなくイギリス全体が抱える慢性的な資金問題だった(※5)。
それもそのはず、イギリスの指定文化財の数は日本の10倍以上、対して維持費用の確保は困難で、そのレベルは日英の人口とGDP比が各半分と考えれば、実に日本の40倍に相当する。圧倒的に資金が足りない。加えて改装・改築には厳しい法的制限があるというダブルパンチである(第19回参照)。
報道には遺産保護の財源として公営宝くじ設立を提起するものもあった(※6)が、これは2年前の1989年に、当時のラウンドハウス・トラストの理事バーケット卿が、劇場保護の財源として宝くじ創設を訴えた発言に続くものだ(第68回参照)。この流れからだろう、公営宝くじはこの3年後(1994年)に実現することとなる。
それはともかく、カムデン区はマーシュ案を保留しつつ新たな案を公募した。
(※3)AIA-Bulletin, 1991年2月 (v18_n2), p3
(本記事内で地元紙『Hampstead & Highgate Express』1990年7月13日に報道とある)
(※4)Evening Standard, 1991年6月17日, p5
(※5)Evening Standard, 1991年6月27日, p23-24
(※6)Independent, 1991年7月21日, p86-87
冷淡な当局
実のところ、マーシュ案への当局の態度は非常に冷淡だった。イングリッシュ・ヘリテージは案への賛成・反対以前にまともに応じることなく「マーシュの手を借りるくらいなら20年間廃墟にした方がいい」とまで公言、またラウンドハウスが非常に頑丈な構造だからと、急いで開発の必要もないとも言い放った(※7)。
確かに建築遺産保護の観点からすれば急務ではないだろうが、一方で市民からすれば急務も急務、ラウンドハウスが廃墟化し維持費に血税が流出し続けた8年間は常に苛立ちの連続で、今なお月に5000ポンドもの税金が失われ続けている。
これに対しカムデン区も同様に「急務ではない」と繰り返し、区の最高責任者は1年経てもマーシュと会おうとすらしなかった。対するマーシュは妥協も交渉もすると述べている(※7, 8)ことからして、どうやら当局は徹底的にマーシュ個人を嫌っていたのだろう。
そこには思い当たる節がある。マーシュはラウンドハウスの資産価値を事前に調査しており、その結果は惨憺たるもので、そこから過去7年間にカムデン区が投じたとする改装費用の疑惑が再燃した(第77回参照)。当局からすれば、新たな計画の始動時期にあって古傷を蒸し返して足を引っ張るマーシュは憎かったかもしれない。
さらにマーシュはラウンドハウス以前に、同様の建築遺産を公共施設として再生させる計画にいくつか携わっており、もしかするとその中でイングリッシュ・ヘリテージならびに地方自治体との間でトラブルがあったのかもしれない。
いずれにせよマスコミは当局の姿勢を怠慢と報じて市民の苛立ちを煽ることとなる。
こうして、当局、コンペ参加者、マスコミ、市民、の4者が不協和音を奏でる泥沼カルテットを結成、盛大に「ラウンドハウス狂騒曲」を奏でた。
こうした状況が9月になっても続いた。
(※7)Observer_1991_0324_p59
(※8)Observer_1991_0922_p55
カムデン区の決断と新計画案
この泥沼があっと驚く急展開となる。
年の瀬の12月を迎え、とうとうカムデン区が匙(さじ)を投げ、数カ月以内にラウンドハウスを売却すると発表。売ってしまえば後は野となれ山となれ、面倒から解放されるとでもいうかのようだ。これによりラウンドハウスは本格的な争奪戦となる(※9)。
これを見据え、早々にメディアに登場したのが環境認識トラストなる団体による博物館化計画である(※9)。この団体は1年前の1990年に設立された新興の環境保護団体。この計画ではラウンドハウスを「アース・フォーカス」と名付け、具体的な計画内容と改装予想図(※10)が公開された。
(※10)『Independent』1991年12月21日, p78
イラストレーターのマーク・ウェアーンによる具体例
問題は資金で、簡単にいえば他力本願であり実に頼りない。建物の購入については「誰かが買い取ってから貸してくれ」というもので、一方の基幹資金2万5000ポンドについては出資者募集中だった。
一見すればまるで能天気で現実無視、何よりかつての失敗の最大要因が資金難であることをまるで踏まえていない。しかし彼らが掲げる環境保護教育は、現在のSDGsに通じる先進的なもので、国際的な注目を集め、各所から協力を引き出せるポテンシャルがあった。少なくともそれまでのラウンドハウス再生計画にはない斬新な視点である。
この博物館の目的は、貧困、汚染、気候、人口といった個々の環境問題が、相互にどのように関連しているかを学ぶことにあり、日本でいえばさしずめ青海の日本科学未来館(2001年設立)のイメージだろう。
具体的な内容としては、建物中央に高さ60フィート(18.3m)もの地球儀型をした360度プロジェクターが設置され、それを取り巻くよう200席の観客席が設けられる。来場者はそこで15分間の映像を観覧し、人間と地球の関わりを学んだ後で、各種の再生可能エネルギーなど地球規模のテーマを討論、その際一人づつインタラクティブ端末が手渡され、情報や意見をリアルタイムにやりとりする。また個人が家庭やスーパーマーケットでできる模範的な事柄が示され、また企業に対し環境に優しい提案を行うといった実践へとつなげる。
以上は今からすれば学校教育で当たり前に行われている環境教育そのものだ。またその際に用いられるハイテク装置など、およそ30年以上前の構想とは思えない先進性にあふれている。
さあ、これは実現するのか、そして次なる計画案は何か。
(※9)Independent 1991年12月21日, p13
