今回は別の面から1986年の動きを追う。助成金裁判の裏で何が起こっていたのか。

 

 

 

裁判の裏側

 

 前回の助成金裁判は政争のドタバタ劇だったが、一方の黒人芸術センターの運営もまたドタバタ劇だった。

 

 二審判決が下った3月20日、実はこの日は黒人芸術センターにとって記念すべき日。というのも、ついにこの日にラウンドハウスで一大イベントが開幕したからだ(図1)

 

(図1)カレンダー:黒人芸術センターと裁判

 

 

 イベントの名称は『トゥウェルブ・デイズ・アット・ザ・ラウンドハウス』で、当時としては国内最大の民族芸術の祭典だった。内容はバラエティに富んでおり、ジャンルを問わずさまざまな芸術作品を上演・展示した。ゴスペルの合唱、インド映画上映、ラップ、ジャズ、インド古典舞踊等が披露され、最終日にはラヴィ・シャンカールのライブが行われ、また学校向けに民族芸術のワークショップも開催された(図2、※1)

 

(図2)イベントの広告

この広告で見るかぎり、実際には前日の3月19日の前夜祭的イベントがあったようだ

 

 

 とはいえこのイベントは正式なオープニング企画ではない。それは建物の改修がまだ初期段階にすぎず(※1)、その改築資金すら係争中だったからである。そういう意味ではプレオープニングにあたる。

 

 なぜこのような不安定な状況で一大イベントを開催したのか。正確な理由は資料が乏しく分からず推測するしかないのだが、あまりポジティブな理由は見えてこない。

 

(※1)Guardian 1986年3月29日, p32

 

(図3)イベント開催時のラウンドハウスの様子

 

 

 

 

運営側も踊る

 

 そもそもこのイベントの開催が決まったのはいつのことか。

 

 単純に考えて、これほどの一大イベント計画が昨日今日で決まるはずもなく、それは参加アーティストの準備期間を考えても当然で、おそらく数ヶ月はさかのぼるだろう。

 

 すると助成金問題が持ち上がる2月6日以前に企画され、当初このイベントは輝かしく開催されるはずだったと考えられる。しかし現実は準備期間中に助成金問題が噴出し、それがあの泥沼裁判へと発展した。

 

 そしてイベントの開幕当日は二審判決、つまり黒人芸術センターへの助成金がフイになったまさにその日である。いわばこの日は、センターのオープニングにしてエンディングの可能性を示す微妙な状況だった。

 

 もちろんこの段階ではまだ三審が残されており、実際に一審では勝利していたことから可能性は半々でもある。そういう意味では残る望みへの景気付けの意味もあっただろう。あるいはイベントの成功が三審に有利にはたらくという淡い期待もあったかもしれない。

 

 しかし考えてみてほしい。ラウンドハウスへの助成金予定額は1100万ポンドもの巨額であり、それなくしてはセンター設立は不可能である。そして三審の勝敗は半々の確率。そのような丁半博打の状態で、なぜ一大イベントを敢行したのか。

 

 

 

 

 

ショウ・マスト・ゴー・オン

 

 とはいえイベントを中止にはできなかっただろう。すでに企画が動いている以上、参加団体との契約は結ばれており、何よりアーティストからすれば、公演することなく報酬を得たところで納得できるはずもない。まさに「ショウ・マスト・ゴー・オン」だ。

 

 またこの時期は、センターの運営側であるロンドン市やカムデン区、そしてラウンドハウス・トラストにとって、政治的にも世間的にも結果を出すことが求められていた。というのも、計画の発表から約3年が経過していたにもかかわらず、その間にセンターに表立った成果はなく、それでいて各部署や団体には血税が投入され続けたからである。納税者の苛立ちも頂点にあったろう。

 

 そもそもセンターへの反対意見は計画の発表当初から多く、またロンドン市民ならびにカムデン区民からも批判が寄せられていた第58回参照)が、それらの地区は何より計画側である労働党の支持地域である。労働党としては何としてもこのイベントを開催し成功に終わらせなければならない。一方の保守党からすれば、この件は企画段階からツッコミどころが満載のため、労働党を叩く格好の材料となっており、おそらくこの3年間の議会では攻撃の定番だったろう。

 

 このような状況に急遽計画されたのが、このイベントだったと考えるのは悪意があるだろうか。

 

 こうした茶番というのは、時と場所を変えてよくある話でもある。政治と金が絡むことで市民イベントが不自然で奇妙なダンスを繰り広げる。近年の日本で思い出すのは『東京オリンピック2020』。大会ロゴの盗作、新国立競技場の建設費超過、選手村の大会後の一般販売、海洋汚染の東京湾で行われるトライアスロン、酷暑に敢行するマラソン、行政と広告代理店の癒着等々。批判と改善余地がありながら、まるで耳を貸さない運営側。歴史に学び成功した一大イベントなど世界中どこにもない。陰でボロ儲けする誰かがいただけである。

 

 

 

 

 

沈黙のイベント

 

 イベントの最終日が3月31日と聞いて何か思い浮かばないだろうか。そう、ロンドン市(GLC)最後の日である。それは黒人芸術センター計画に労働党ロンドン市が支援できる最後ということでもある。どうせ最後だからその前にカネを注ぎ込もうという姿勢は、前回の助成金裁判と同様だ。

 

 そう考えれば、このイベントにはそれなりの資金が投入されたことになりそうだが、その割には宣伝広告がまるで見当たらない。イギリスの主要高級紙3紙を探しても広告は見つからず、ようやく見つかったのは、ロンドン構成区の広報紙に出された小さな広告で、しかも最終日のものだ(※2)


 先述のように、このイベントは国内最大の民族芸術フェスティバルである。宣伝活動で資金を使わず一体何に使うというのだろう。実に不可解だ。

 

 さらに不可解なのはイベント内容の報道がほとんどないことである。マスコミ各社には招待状やチケットが送られたはずだが、特集はもちろん本格的なレビュー記事はなく、一言程度の言及、しかも批判的な内容がようやく見つかる程度である(※3, 4, 5)。よって実際にどのようなイベントだったかを知ることすらかなわない。

 

 ここから不可解な資金の流れと、マスコミや世間の冷ややかな関心がみてとれる。そうなった背景には運営側の内部分裂があるのだが、その詳細は本シリーズの最後にまとめて後述する。

 

 このイベントは3月31日で幕を閉じたが、その17日後に裁判は結審、センター設立に不可欠な1100万ポンドが泡と消えた。このイベントのためだけに3年という期間と多額の血税が投入されたと考えれば、あまりにもコスパが悪い

 

(※2)『Westminster and Pimlico News』1986年3月27日, p2、『Chelsea News』同日, p2、『Kensington and Chelsea News』同日, p7、『Marylebone and Paddington Mercury』同日, p2 (すべて同一の体裁)

(※3)『Daily Telegraph』1986年3月19日, p18

(※4)『Evening Standard』1986年3月21日, p32

(※5)『Guardian』1986年3月14日, p13

 

 

 

 

 

進捗発表

 

 一方で当の運営側は実にポジティブな発言に徹している。イベントの会期中に行われたインタビュー(※2)で、センターの責任者(正式職名はコーディネーター)レミ・カポの言葉によれば、計画は順調に進んでおり、その年の秋にはセンターが正式にオープンするとある(実際は計画そのものが中止になった)。建物の改修も屋根の張り替えがすでに終了しており、また支持者10万人近くの署名があるとも語り、とにかくポジティブ面を強調している。

 

 その一方で資金難をうかがわせる発言もある。当時までに投入された公費が250万ポンド(現在の約14億円)で、改修の完了にさらに600万ポンド(現在の約34億円)が必要であることや、その後の運営費が年間200万ポンド(現在の約11億円)と語っており、資金の管理は厳しく行われていると語るが、一方でこれらの総額は、裁判で争われた助成金1100万ポンドとほぼ同額であり、つまりは裁判の勝訴が前提になっている。

 

 先述のように裁判の勝敗確率は半々で、敗訴すればこのポジティブ発言の山はどんなに積み上がってもすべて一瞬で消え去る運命だ。にもかかわらずここまで自信たっぷりな態度は、まさにドタバタ喜劇の主人公にふさわしい。

 

 そして裁判は敗訴で終わり「一同、踊り疲れて倒れる」でこのドタバタ劇は幕を閉じた。