讃岐国巡拝5月2日 68番~80番、別格16・18・19番 | しこくあるく

しこくあるく

四国霊場歩き遍路の記録を中心に、寺社巡りや城郭探訪など旅の日記と徒然の感想を書き連ねています。

四国開創1200年記念押印と御影配布は5月末が期限である。御影は全て一揃え頂いている。記念押印も納経帳2冊に分ければ揃っているのだが、どうせなら1冊に綺麗に揃えたい。別格二十霊場は年内実施されているが、やはり5月中に結願したいと思った。4月最終日曜日に参拝したばかりだが、ゴールデンウィーク中の結願を目指して車を進めた。出来れば、2日間で別格も含めたお礼参りまで済ませたい。と、なると本日は八十八ヶ所が82番根香寺、別格が19番香西寺あたりまで打っておきたい。

前回、八十八ヶ所は67番雲辺寺まで、別格二十霊場は16番萩原寺を残して17番神野寺を済ませている。
68番大興寺の7時の納経開始に合わせるべく5時に家を出た。6時になった時点で三豊市のとあるコンビニに立ち寄り、本日も車中朝食を摂った。ドリップコーヒーは生憎ドリップマシンを清掃中とのことでモーニングコーヒーとはいかなかった。

前回は飲料接待を行ったが、今回は駐車場と境内が離れている札所が多いこと、街中を走るので停車出来る場所が少ないことを考えて止めた。

朝から天気が良い。こんな日の早朝から動くのは気持ちがよい。ましてや好きなことに出かけるのだから尚更である。
6時半過ぎ、大興寺の駐車場に着いた。既に1台、車が駐まって中でお二方待っている。自分はトイレを済ませて、笈摺を着込み頭陀袋を下げて山門を抜けた。釣られるように先ほどの1台も車のドアを開閉する音がした。


大興寺 本堂

本堂、大師堂と燈香読経に約20分かかる。大師堂を終えると丁度7時となった。押印頂いて別格16番萩原寺へと向かう。

萩原寺へは7時20分に着いた。ここでも既に車が1台駐まっている。


萩原寺 山門


このお寺も山号が雲辺寺と同じ巨山(きょごうざん)

本堂へと向かうと中年のご夫婦らしき参拝者がある。挨拶を交わし本堂にて燈香読経した。本堂横の修行大師像に導かれるように大師像の前で焚香読経した。香炉で燃え残っている線香も焚いた。
大師堂は石段を下りて山門を抜けた左手にある。先ほど大師像前で読経したので、ここでは光明真言、大師宝号のみを唱えた。


萩原寺 大師堂

納経印を頂いて次の札所、神恵院と観音寺へと向かう。

萩原寺から神恵院・観音寺への道は初めて通った。途中に生木地蔵(いききじぞう)があることを知った。いつだったか、ぼちぼちさんがブログに書かれていたことを思い出した。駐車場があるので立ち寄った。生木地蔵は四国には自分が知っているだけで、ここ以外に2ヶ所ある。一つは十四番常楽寺奥の院慈眼寺にある。もう一つは別格十一番生木地蔵である。何れも枯死、倒木によってお地蔵様は生木の中ではない。しかし、ここはいまだに楠の巨木のうろにお地蔵様がいらっしゃる。


生木地蔵堂と大楠


地蔵堂と大楠を横から見るとこうなっている

大楠の前にお堂があり、中に入ってお詣りすることが出来る。磬を鳴らしながらお経を唱えた。
江戸時代後期の天保7年(1836年)晩秋、中姫村(現・観音寺市大野原町中姫)の森安利左衛門が病弱な一人娘ナヲのために四国八十八ヶ所を巡拝後、楠の巨木にお地蔵様を刻んだ。翌・天保8年(1837年)正月過ぎお地蔵様が出来上がった。2月に開眼供養を行った際、どこからともなくみすぼらしい旅の僧がやって来て読経し錫杖を振るとお地蔵様がまばたきをした。人々が手を合わせていると僧は消えていた。それ以後”まばたき地蔵”と呼ばれるようになった。利左衛門はその後86歳まで長命し、娘のナヲは100歳の長寿を全うし大正8年(1919年)に亡くなった。2人の墓は生木地蔵傍の墓所にある。長寿の霊験あらたかなお地蔵様として崇拝されている。生木地蔵は現在も成長しており開眼の天保8年から10cmほど高くなっているそうだ。

神恵院・観音寺へお詣りする前、寛永通宝を初めて眺めに行った。道案内の表示を見ていると地元のお爺さんが親切に展望台までの道を教えてくれた。また良いお接待を頂いた。
寛永通宝は時間によってはただの砂丘にしか見えない。朝は順光なので盛砂の向こうに影が差す。太陽が南中する正午頃か逆光となる夕方がベストである。


朝方はただの砂山寛永通宝

どうりで誰も居ない筈だ。間抜けな観光客になってしまった。坂を下って神恵院・観音寺へお詣りした。


神恵院 本堂


観音寺 本堂(国の重要文化財)


本山寺へと車を進めた。本堂は四国霊場で国宝に指定されている3つの建築物の1つである。あと2つは51番石手寺山門と52番太山寺本堂だ。


本山寺境内 右の本堂は国宝

本堂左にはスリムな五重塔がある。解体修理を行うそうで内陣の仏様達が大師堂に遷られている。僅かだが修理費を奉納し奉納帳に記帳した。

9時半過ぎ、本山寺から弥谷寺へと国道を走る。歩きの人を何人か追い越した。無表情、苦しい顔、景色を楽しんでいる顔、人それぞれの遍路道を歩いておられる。自分はどんな顔をして歩いていたんだろう。難しそうな顔をしていたのかもしれないな。

10時前に弥谷寺山門下に着いた。昨年何やら工事をやっていた建物はマイクロバスの待合所だった。以前は手水舎まで有料だが車で上がれた。今はバリケードがしてあり、そこから上へはマイクロバスで上がるようになっている。大師堂と本坊のある段まで乗せて貰えるようだ。


弥谷寺 山門

急ぎ駆け上がった。本堂では息を切らしながらの読経である。


弥谷寺 本堂

弥谷寺を30分で上って下りた。俳句茶屋のお茶お接待の声掛けに、お礼を述べて辞した。「お気をつけて。」と声を掛けて頂ける。こうしたお心遣いが嬉しい。申し訳ないなとおもいつつ、別格二十霊場18番海岸寺へと向かった。

11時、海岸寺へ。海岸寺の境内はとても広い。境内をさぬき浜街道とJR予讃線が通っている。弥谷寺からだと大師堂から打った方が効率がよい。参拝に効率も何も無かろうが兎に角、気が焦っていた。こんな心の込もっていない参拝なら本当はしない方が良いかもしれない。ただのスタンプラリーじゃないか。海岸寺曰く、ここは弘法大師御母堂の玉依御前の屋敷跡で弘法大師御生誕の頃は通い婚だった。故に弘法大師がお生まれになったのは善通寺ではなく、ここ海岸寺なのだそうだ。


海岸寺 本堂

そういえば、弘法大師の御誕生所は他にも仏母院がある。また、京都でお生まれになったとの説もある。何所が御誕生所だろうが弘法大師の偉大さは揺らぐものではない。大師堂の方から納経を勧めて頂いたが、他に納経印を頂いている人もあり、これから本堂なので本堂で頂くと辞した。本堂ではお堂に上がって拝ませて頂いた。本堂で納経印を頂いて、曼荼羅寺へと車を進めた。

曼荼羅寺に着くと門先屋旅館が更地となり曼荼羅寺駐車場となっていた。


門先屋旅館跡 現在は曼荼羅寺第2駐車場

と同時に曼荼羅寺は駐車志納金200円が必要となっている。次の出釈迦寺は目と鼻の先なので出釈迦寺の駐車場を利用した。曼荼羅寺まで歩いて打ち、また出釈迦寺へと戻った。


曼荼羅寺境内


出釈迦寺境内

天気が良く坂道なのでまた汗をかいた。歩きに比べれば何てことのない距離ではあるのだが。

甲山寺を打ち、善通寺へ。


甲山寺境内

善通寺では国の重要文化財に指定されている五重塔の特別公開が行われていた。
本堂参拝の後、拝観させて頂いた。


特別拝観中の善通寺五重塔(国の重要文化財)


特別拝観券

二層目まで上れるが階段が急で狭い。五重塔自体もスリムである。東寺五重塔も拝観したことがあるが、改めて東寺の塔は流石に日本を代表する五重塔だけあってスケールの違いを感じた。二層目の軒下に出ることが出来る。今までにない善通寺の風景を見ることができた。東院にお詣りの後、西院へ。御影堂(大師堂)に参詣したが中で法要中だったので控えめに読経した。

既に1時を回っている。途中、以前にも利用したことがあるセルフうどん店はすい亭で昼食を摂った。

金倉寺へ。雲一つ無い青空に金堂が映える。


金倉寺 本堂

次に道隆寺へ。


道隆寺 本堂

テンポ良く打ち進む。そして郷照寺へ。


郷照寺 本堂

以前おられたお婆さんが居られない。納経所の方に尋ねると、以前は1日中お寺に居られたのだが最近は2~3時間居られて帰ってゆかれるそうだ。いつも居られる方が居られないと少し寂しい気がする。

さて、天皇寺へ。駐車場が広くなっていた。


天皇寺 本堂

3時半過ぎ、国分寺に到着した。門前で写真を撮り合おうとしている女性達に「よかったら撮りましょうか?」と記念写真をパチリ。


讃岐国分寺 本堂(国の重要文化財)

国分寺を打ち終えると4時を少し回っていた。これから五色台上の2ヶ寺を打つのは無理だと悟った。門前で歩きの女性が打ち終わって出て行くところに「お気をつけて」と挨拶した。

白峰寺、根香寺が無理とあれば別格二十霊場19番香西寺へ行こうと決めた。4時半前、香西寺に到着した。参拝者は自分のみである。


香西寺 石臼の手水


香西寺 本堂 変わった造りだ


香西寺 大師堂

本堂、大師堂と燈香読経しているとご夫婦がやって来られた。けっこうギリギリの時間なのだが別格は比較的納経時間に融通を着けて頂ける。打ち終わり、さぬき浜街道へと車を向け、帰路へとついた。別格はこれで残すは大瀧寺1ヶ寺のみとなった。翌日はいよいよ結願と満願の遍路行である。

様々な出会い、無事の巡拝に感謝。
南無大師遍照金剛