平成25年5月2日(木) 18日目②黒潮町拳ノ川~熊井隧道~黒潮町佐賀~黒潮町白浜 | しこくあるく

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四国霊場歩き遍路の記録を中心に、寺社巡りや城郭探訪など旅の日記と徒然の感想を書き連ねています。

(つづき)
国道沿いの土佐佐賀温泉で休憩のためか、T氏が道を渡ろうとしている。再び「お疲れさまです。」と挨拶を交わして先に行った。そこから少し進んだ荷稲郵便局で路銀(古いなー)を下ろした。流石に国道ばかりでは飽きてきた。地図を確認すると川の北側に旧道があるので、そちらを進んだ。旧道は車の通りが少なく歩きやすい。しかし、店や自販機、トイレなどが無く不便さは否めない。途中、逆打ちの男性とすれ違ったが、旧道は遍路姿もほとんど無い。

旧道を行く
途中に”流人万六の墓”なる看板があり、探しに行ってみたが案内標識もなく分からなかった。看板を見ると”ドクレと頓智で親しまれ嘉永3年(1850年)永眠す”とあった。幕末の土佐の流人だったようだ。”ドクレ”とは高知も含め四国の広範で使われる方言で、”へそ曲がり”、”意固地”、”偏屈者”といった意味だそうだ。

道端の畑のレモンの木


くろしお鉄道と並行


伊与喜で国道に出て、伊与喜駅のトイレを借りた。駅で12時前になったので持っていたブロック食で昼食とした。

伊与喜駅
食べ終わって出発しようとした時、彼女が休憩に入ってきた。先を行っていた筈だったがこちらは旧道、彼女は国道を進んでいていつの間にか追い越したか。

伊与喜駅を少し進むと旧道に入る。ここから熊井隧道へ向かう。

熊井隧道へは左折
是非見てみたかったトンネルである。細い旧道を少し上り進んで行くと、レンガ積みのトンネルが見えてくる。

熊井隧道
熊井隧道である。明治38年に完成した全長90mのトンネルで佐賀港より1個1銭で地元の小学生達が運んだそうである。

隧道内部

トンネルを抜けると逆打ちの男性がやって来た。大阪から来たそうで10連休なので4月27日から歩いているそうだ。「こういうタイミングも滅多にないので、写真撮って貰えませんか?」と依頼されたので快く引き受けた。自分も撮って貰った。「良いカメラですね。」と自分のミラーレス一眼を誉められた。つい、調子に乗ってカメラの蘊蓄を語ってしまった。こんな場所で相手には迷惑な話だろう。男性は「この坂を下りると珍しいカツオのこいのぼりがありますよ。それから、明日は浜辺でTシャツアートのイベントやってますから見て下さい。」と情報をくれた。男性の笠が気になったので「梵字が前ですよ。」と被り方を教えた。やがて抜きつ抜かれつの女性がトンネルの向こうを上がってきた。


男性と別れ、再び国道と合流すると、青いこいのぼりが川を跨いで沢山泳いでいる。

こいのぼりとかつおのぼり


かつおのぼり近影

近づくと、なるほどコイではなくカツオである。地元テレビ局も取材に訪れ、観光客が結構多い。売店なども並んでイベントをやっているようだ。

国道に戻り宿へ歩を進めた。すぐに坂道になる。この坂の名は、水神坂という。衰神坂とも書く。この坂道には昔話が残っている。

水神坂
昔、この辺りには7戸の小さな集落があり、海に近く葦が生い茂った湿地が広がり農耕地が少なかった。人々は協力し合い仲良く暮らしていた。ある年、厳しい飢饉が集落を襲った。その年のある日、衣服は汚れ獣の骨で造った数珠を首に掛けた怪しげな旅の山伏がやって来た。山伏は食べ物を乞うたが生憎の飢饉で人々は差し出すものがなかった。怒った山伏は持っていたホラ貝を吹いた。何とも気色の悪い不気味な音色で、やがて雷鳴とともに豪雨をもたらした。対岸に大谷という修験者の大先達が住んでいた。大谷は野良仕事をしていたが不気味な空に気付き、急ぎ家に帰りホラ貝を持ち出した。庭先よりホラ貝を吹いた。作法に則った格調高い音色であったため、旅の山伏は金縛りにあい、空も静まった。山伏は悪行の許しを請い住民はそれを許したので、大谷は金縛りを解いた。山伏は改心し住民に見送られながら西国へと立ち去った。旅の山伏がホラ貝を吹いた場所が現在の水神坂であると言われている。と、いう話である。
何故、水神坂もしくは衰神坂なのか、いわれについては分からなかった。


水神坂を下り、佐賀の街を抜けると風光明媚な鹿島ヶ浦である。
鹿島ヶ浦
坂の途中から見る風景は美しい。写真を撮っていると佐賀の街を歩くT氏の姿が見えた。


鹿島ヶ浦と太平洋
坂を上りきった辺りは広々とした県立佐賀公園となっている。海を眺めながら休憩した。ここにはトイレもある。2時前。ここから本日の宿までは7kmほど。この調子だとゆっくり歩いても3時半には着くだろう。

公園より先の白浜の街に差し掛かったところで前を行くT氏が見えた。公園で休憩中に先を越されたようだ。


海岸沿いの道を行くT氏


この辺りは海岸沿いの国道を歩く。山が迫っており所々に津波の避難場所が設けてある。足が疲れているので、もしここで大津波が来たらひとたまりもないだろうなと思いつつ先へ歩を進める。

人はいずれ死ぬ。それが何時なのかは分からないが、自分は何時かこの遍路の途中で行き倒れるかもしれない。常々そう思いながらも歩いている。遍路道には行き倒れた人達の墓が無数にあるのを見てきた。笠・白衣・杖どれもこれも冥土への旅立ちの装束なのだ。それを身につけ歩く姿は、死を受け入れる覚悟の徒歩行なのである。だからといって行き倒れることを旨とはしていないし、徒に悲壮である必要はない。昔は遍路道周辺にお住まいの方々は行き倒れる遍路は承知の上だったのかも知れないが、行き倒れることは周囲の人々にはなはだ迷惑を掛けることになる。歩き遍路は肉体的苦痛を伴う苦しみもあるが、楽しいことも沢山ある。人との出会い、素晴らしい景色、到着した感動、お接待、全て仏様・お大師様からの施しを頂きながらの遍路行だと思えば心軽く歩ける。

(つづく)