今日は、何かを伝えようとして書いていません。
メモのようなものだとご理解いただければと思います。
 
 
数日前のバトンで、
 
言葉は同じ表現を使っていても
人によって、
その意味合いやニュアンスは違っているという解説が
『寂しい』という表現を例にありました。
 
それは、『寂しい』は人それぞれに違うというレベルの話ではなくて
『寂しい』と発せられたそもそもの衝動や
『寂しい』と辿り着いた自分の感覚が
全く違う本質の動きから起こっているということ。
 
ですから、その『寂しい』に囚われていると
その人のことが何も見えなくなるということでもあるし
『寂しい』によって本質の動きを知ることができるということです。
 
もちろん、『寂しい』は人それぞれに違うというレベルの話も
表層の部分でありますから、その瞬間瞬間に
現れているものは違うということです。
 
 
 
それは、実際に確認をしていくと
『その現実は行き先が異なっている』ことがわかってくるのですが
自分が発した言葉とその実態が異なっていることに
当の本人は気づけないことがほとんどのようです。
 
 
そういう意識に立って
普段の人の会話を聞いていると、
その人が解釈していることから発せられる言葉が起点になって
さらに別の解釈へと展開していくことがあることに気づきます。
 
その時に、解釈が答えではないし、別の解釈が答えでもなくて
その解釈から解釈の変化に潜むものこそ、その人の意識だったりするようです。
 
ですから、伝えたこと発せられたこと自体が
本当のことではなく
受け取ったこと自体は当然本当のことではない。
 
そんな中で、意識は置き去りになって
そこに真実はありません。
 
 
表面的なことだけでも
それを聞いていた人が
その言葉をどのような意味合いで受け取るか…
それを発した本人と同じ意味合いで事実を受け取っているのか
つなぐ言葉は共通であっても
発話者の理解と聞き手の理解と
それぞれの意味づけ展開が違っている可能性があっても
その場で話を止めて疑問を持つ人がいなければ、
様々なものが置き去りになってしまいます。
 
本当は、その場の会話のどこにも真実がないかもしれません。
 
 
バトンの場で話されることというのは
その瞬間の意識に向けて語られています。
ですから、
解説される際に使われていた言葉を記憶していた誰かが
別の誰かに伝えても
正確な理解どころか、全く違うものになってしまっているのです。
 
考え方の話ではないからです。
 
さらに、
別の場面や別の相手に当てはめるために
ピックアップして伝えることなど
意味をなさないことになります。
 
 
すべての人がオリジナルであって
理解も、言葉の捉え方も、持っている知識も
意識も本質も異なるがゆえに
その瞬間に体験し受け取ることがすべてなのですね。
 
人生がその瞬間瞬間に流れているように
バトンもその瞬間がすべてなのです。
 
shiho
 

 

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