自分の感覚を信じていいし、自分の違和感を採用していい | ヒキザンガヨガ

ヒキザンガヨガ

ヨガの本質をばらまきたい変態。ヨガは人間の可能性を開花させ 人生を自由自在にクリエイトし、これからの時代を生き抜くためにも必要な物事の本質を見極める視点を養う、超ロジカルなメソッド。自分を生きることができる時代がきた、ヨガをしよう!

 

早くて、3~5年後だとおもっとった。

遅くて、7~10年後だとおもっとった。

 

 

ことが、今起きてしまった。

 

 

今まで、

このブログに書くことは、

タイムラグを経て、伝わることだと自覚してうっていた。

(と同時に、この話が分かる人にヒットしないかなーって変態探しでもあった)

 

 

このブログを読んでくれている人たちが、

 

 

ただ、読むだけではなく、

実際に行動を起こして「本来の自分」を取り戻さんと!

と、動かざるを得なくなるのが、

 

 

上記、

早い人、

遅い人、

によるが、

 

 

3年~10年後なんだろう、と思ってきた。

 

 

完全なるプログラムと一体化している人たちと話す時は、

もはや、完全に本来の自分が眠っており、100%に近い勢いで、ロボット化している人たちと話す時ほど、手ごわいものはない。

 

 

この話をして、思うことは、

 

 

私が、私だと認識している、私は、私ではない、

ということに気が付かないため、

 

 

私は、本来の私を、見失っていなんかいないし、

ちゃんと、自分の頭で考えています、これが私です、

 

 

といったところで、

止まってしまうことが多いっていうこと。

 

 

私が、私だと認識している、私は、私ではなく、

私は〇〇、と主語となる私というものは、プログラムであり、

本来の私、ではない。

 

 

今、頭で考えていること、

今、口にしたこと、

今、無意識に相手にした反応、

今、無意識に相手にした表情、

 

 

それらは、私ではなく、

ルーティンを自動的に繰り返し作動している、

脳内プログラムであり、

 

 

脳内プログラムであることを、認識したうえで(有意識)、

脳内プログラムは使うもので、

 

 

脳内プログラムに支配されている、

(プログラムと一体化してしまっている)

ということに気が付かないと、

 

 

基本的には、今脳内にインストールしているプログラムで、

これからも生きていくことになる、

 

 

いわゆる、私ってこう、の私は、プログラムだから変わらないのだ。

 

 

私が、私だと認識している、私というのは、

プログラムでありんす。

 

 

プログラムは、プログラムされているわけで、

アプリの内容なんて、自分の意志で変えられるもんじゃないでしょう。

 

 

だから、努力・根性・精神力で、

プログラム=アプリ=私を変えよう思ったって、むりや。

 

 

プログラムのアップデートないし、削除をしなきゃいけない。

 

 

そういうようなことを、

ここにアップしてきたんだけれど、

 

 

なかなか伝わらないな、と感じながら、

オブラートに包んで、このブログ書いていたところがあったが、

 

 

もう、プログラム(洗脳やカルマ)に支配されている場合ではない。

 

 

人間にしかできない、

人間にしか体験できない、

 

 

プログラムが止まった時に繋がることができる、

本来の自分ってやつを、ちゃんと取り戻さないとや。

 

 

な、時代が早まった。

 

 

 

塾や研究会、ブログでもだけれど、

 

 

ないものにしてきた、陰の部分(本質、自分の本質、目に見えないエネルギー)を、しっかりと取り戻さないとあかんことが起きるよって話してきて、

 

 

それが、人によって、さまざまだけれどもさ、とも思っていて、

 

 

ところがどっこい。

 

 

コロナが起きた。

 

 

しかーも。

世界レベルで起きるとは。。

 

 

プログラムで生きているっていうことは、

 

 

思考停止している、ってことなんだ。

 

 

目の前で起きた事に対して、

過去にプログラムしたものを引っ張ってきて、

対処している。

 

 

人って大抵変わらんじゃないですか、

 

 

ああいったら、あの人はこういうだろうって、

大体わかるじゃないですか、

 

 

同じパターンを繰り返しているだけだから。

 

 

それが、心地よいなら構わないことなんだけれど、

 

 

プログラムが自動作動しているっていうことは、

思考が停止している、ってことなんだわさ。

 

 

なんか、ややこく聞こえる人もいるかもしれないけれど、

 

 

自分、たんぽぽのシードを持って生まれてるのに、

時代や社会は、あなたに不足分を感じさせて、あなた本来の才能や能力が開花されてまうと困るからね、バラになることが正しいことですよ、みたいな教育や風潮や流行や、なんやらかんやら、小さい時から洗脳されているわけです。

 

 

で、バラになる人がお金持ちになっていて、バラになる人が素敵な人生を送れるみたいなプログラムをされているから、

 

 

いつまでも、なれないバラになろうとしている、

 

 

で、なれないからさ、

しんどいわけですよ、

 

 

どこまでも、自分はまだ何かが足りないんだ、って、

バラになるための、または、バラ以外でもいいから、ひまわりだとか、世間から承認されるようなものになろうとして生きていく。

 

 

で、なれないわけ。

 

 

なれないのが、普通なわけであって。

 

 

たんぽぽなんだよねって。

 

 

っていう話。

 

 

ここで話していることは、

 

 

自分のシードを思い出そうってこと。

自分のシードは何なのか、磨こうってこと。

自分のシードを咲かせればいいってこと。

 

 

自分のシード=本来の自分、でしょ。

自分のシード=個、

 

 

個の時代が、

もう始まっていて、今から!自分を取り戻さないと、

 

 

バラのプログラムのままで生きとったら、

バラになることが自分だと思っとったら、

 

 

いつまでも、

自分が主語となる人生がひろがらない。

 

 

自分の感覚を信じていい。

 

 

自分の内側にある、

違和感を信じていい。

 

 

自分の中から湧きおこるものを頼りに、

生きることが、怖いけれど、一番の自分の種の発芽の近道です。