ひっきりなしに患者が訪れる深夜の救急外来

2019年2月1日、夜、発作が起きた。発作時に飲む頓服薬として処方されたベラパミルを1錠飲んで2時間以上が経っても発作は止まらず、23時過ぎ、夫の運転する車で救急外来へ行った。

 

心電図や血液検査をし、発作を止めるため点滴の投与が始まった。薬は血圧を下げるらしく、もともと血圧が低い私に、医師は慎重に何回かに分けて様子を見ながら薬を投与してくれた。

 

とても感じの良い若い男性医師だった。看護師さんたも皆、若い。今日がたまたまなのか、それとも人手が足りず、深夜の勤務は、若い人達にしわ寄せがいっているのだろうか。この人達は、ちゃんと休みがとれているのだろうか。そんなことを考えながら、天井を眺めていた。

 

ベッドの周りは、カーテンで仕切られている。カーテンの外は見えないが、声は聞こえてくる。深夜の救急外来には、ひっきりなしに患者が訪れる。

 

乳児が高熱が下がらず、両親が心配しているようだが、水分がとれていれば大丈夫だと看護師に言われている。それでも親御さんは心配で仕方のない様子。わかるわかる。私も息子が小さい時は、同じように心配したものだっだ。

 

 私と同じ病気の患者が来た

点滴を受けながら、することもないので、ずっとカーテンの外の様子を聞いていた。

しばらくして、発作性上室性頻拍の患者が発作で来たと看護師が医師に報告するのが聞こえた。

 

私と同じだ。いるんだな~仲間が。そんな親しみにも似た感情は、次の瞬間、看護師の言葉で一気に吹き飛んだ。まるでハンマーで後頭部を殴られたような(殴られたことはないけれど)強烈な衝撃、ショックが私を襲った。看護師は、患者は男子中学生だと言ったのだ。

 

私の息子も当時中学生だったこともあり、なおさら感情移入したのかもしれない。発作を起こした彼は何年生なのだろう。区立中の3年生なら、まさに今、高校受験の月だ。深夜に病院に来たということは、頓服薬が効かないのか?発作の頻度や激しさはどれほどなのか。普段の生活はどうなのか。体育の授業、様々な学校行事、宿泊行事、どんなに不安で煩わしい思いをしているのだろう、心が痛んだ。

 

そして彼の親御さんに思いを馳せた。どんなにつらいことか。できることなら自分がかわりに病気を引き受けたいと思っていることだろう。でも、それは決して叶わない。

 

まだ46才なのに、こんな病気を発症して~といじけていた私は自分のふがいなさを恥じた。「まだ」という副詞は私のような者ではなく、彼が使うべきものなのだ。

 

そして、私は幸運だと心底思った。息子は健康だ。中学校は皆勤。もし、私ではなく息子がこの病気を発症していたらと考えると、卒倒しそうだった。家族の中で、発作性上室性頻拍に誰かがなるとしたら、私なのだ。私がなることが私のストレスが一番少ないのだ。天国の父や祖父母に心の底から感謝した。彼らが取り計らってくれたに違いない。

 

点滴はいつのまにか終わり、発作も止まったようだ。気分は良いとは言えないが、立ち上がり歩くことに問題はない。

 

 違う視点

もう午前2時をまわっていた。病院をでると、2月の冷たい空気が一気にまとわりついてきた。数時間前、病院に入った時のような憂鬱な気持ちは全くなかった。むしろ、私は幸せだと思ったくらいだ。

 

世の中には、若くして厄介な病気になる人もいる。そういう方々の苦しみもさることながら、我が子が病気になってしまった親の苦しみ、悲しさはどれほどのものかと想像する。

 

それに比べたら、私が46才で発作性上室性頻拍を発症したことなど、なんと瑣末なことか。人生の折り返し地点を過ぎてからの病気だ。やりたいことをやって、子育てももう終盤。病気を発症するタイミングとしては幸運だったとも言える。

 

一見災いと思える出来事に対して、自分は運が悪いと思うか、良いと思うかで、その先は変わってくる。

 

薬の副作用が良くなったら、電車に乗って友人とランチに行こう。まだ少し時間はかかるにしても、日本語教師養成講座のスクール通いを再開し、修了しよう。

 

発作の恐怖に負けず私は前へ進む。そして、いつかカテーテルアブレーションを決断しよう。

 

私は、この日を境に、病気を発症する前のポジティブな自分に完全に戻った。

 

 

次回へ続く。

薬で持ちこたえた3年【発作性上室性頻拍④】

 

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