3月の末、東京で桜が散り始めた週末に急ぎ大和の国(奈良)へ有名な桜を見に行って来ました。。。 | PPRUBBIT(PPラビット) の ひっこし旅ブログ続編

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奈良にも有名な寺院や城跡がいくつかあり、特に吉野山の千本桜は日本一の桜の名所として知られていますが名古屋から少し近い場所(宇陀市)に、「又兵衛桜(またべえざくら)」と言われる樹齢約300年のしだれ桜があります。一本桜の大樹で「本郷の瀧桜(ほんごうのたきざくら)」ともよばれ石垣から迫り出した枝に咲く桜花が滝のようにみえる立派な桜です。
又兵衛桜の名の由来は豊臣政権下、大坂城の陣で活躍した戦国武将「後藤又兵衛」に因んだものという事ですが詳しい内容は知りません。今年の桜は、開花の時期に雨降りの日が多く満開が危ぶまれましたが曇り空の中多くの人たちが桜を見に訪れていました。。。


また奈良には、初代天皇となった「磐余彦尊(いわれびこのみこと)」後の神武天皇の陵墓と宮(橿原神宮)があり毎年2月11日の建国記念日には紀元祭といわれる神事が催されるようです。開運・延寿を願う福矢には錦の御旗を模した短冊が付けられていました、橿原神宮の祭典や祈祷では天皇・皇族から贈られた歌をもとに作舞された神楽舞が御神前で奉奏されているそうです。神楽は天照大神が岩戸籠もりをされたおりに天鈿女命(あまのうずめのみこと)が舞ったものが起源とされているそうです。この大和の地には紀元前からの皇族の陵墓や古宮の跡地が多く残されており第33代推古天皇(すいこてんのう)より前の時代を古墳時代とよび推古天皇よりのちの時代を飛鳥時代といっているそうです。古墳時代と飛鳥時代を合わせて大和時代と称し第43代元明天皇(げんめいてんのう)が平城京へ都を移すまでに、橿原宮、葛城宮、纒向宮、難波宮、飛鳥宮、近江宮、藤原宮などなどとあちらこちらに天皇の古宮がありました。推古天皇は歴代天皇のなかでもはじめて天皇となられた女性の天皇陛下で聖徳太子を摂政として冠位十二階や十七条憲法を制定し仏教の興隆に力を注ぎ天皇中心の国づくりをしました。今回は明日香村にある高松塚古墳と大和時代の最後と思われる第42代文武天皇(もんむてんのう)の陵墓を見てきました。

 

 

きんぎょの里として知られる郡山には安土・桃山時代以降の城郭であろう郡山城が残っています、城の造りは広域で名古屋城や彦根城に並ぶほどの石垣と堀で囲まれています。天守は無いのですが社が建てられています。大和では、天下統一を目指す信長の命令で、郡山城を除く城を破壊。天正8(1580)年に筒井城が破城され、奈良町近辺の各戸から人夫が動員されました。天正9年(1581年)から明智光秀が普請目付として大規模な近世城郭として工事をしたとされ、奈良の大工衆を集めたことが記録されています。しかし、領主として信長に選ばれた筒井順慶も天正12年(1584年)に死去しています。
1585年(天正13年)豊臣秀吉の弟、豊臣秀長が大和国・和泉国・紀伊国三ヵ国100万石余の領主として郡山城に入り城を100万石の居城に相応しい大規模なものに拡大しようと、城郭作りや城下町の整備を急ぎ根来寺の大門を移築したり、天守台の石垣に墓石や石仏(地蔵)までも用いました。享保9年(1724年)に柳沢吉里が甲斐甲府藩から15万石で移封され、城下町の整備に努めます。柳沢氏が来てから郡山城は安定した時期を迎えていましたが、天明7年(1787年)に大飢饉が発生、城下町の民家を群衆が打ち壊し、米穀を奪い取る騒ぎが起こります。安政5年(1858年)12月1日に郡山城二ノ丸付近から出火し、住居関係の建物群は全て焼失する大火にみまわれています。

 

 

 

 

 

 

唐招提寺は、中国(唐)から来た僧侶「鑑真和上」が創建したとされる寺で、僧侶「鑑真和上」は日本に仏教の戒律を伝えるために幾度となく渡航にのぞみ失明してしまったといわれます。僧侶になるには、仏教教団の10名の先輩構成員(三師七証)の承認があり、戒律を護る事を誓えば誰にでもなれるものであったそうですが、中国や日本に於いては、労働、納税、兵役を免除されていたため、僧侶になる者が続出し、国家の財政を脅かす事態となりました。そこで国は年度や地域毎に僧侶になる人数を制限するために、得度(出家)を国家の許可制としたそうです。

南の方角には今の薬師寺が建っています。薬師寺は天武天皇9年(680年)、第40代天武天皇(てんむてんのう)の発願により、飛鳥の藤原京の地に造営が開始され、平城京への遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものだそうです。飛鳥の藤原京の薬師寺(本薬師寺)の伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたそうです。薬師寺は、第40代天武天皇(てんむてんのう)が後の第41代持統天皇(じとうてんのう)である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して寺の建立を発願し、百人の僧を得度(出家)させたところ、病気は平癒されたと薬師寺の東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれているそうです。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれました。