PPRUBBIT(PPラビット) の ひっこし旅ブログ続編

PPRUBBIT(PPラビット) の ひっこし旅ブログ続編

Yahoo!から引っ越してきました、なかよくしてね!

Amebaでブログを始めよう!

 

 

 

 

 

 

「時代祭」は京都の平安神宮が斎行する秋に行われる京都民のお祭です。平安神宮は明治28年(1895年)に平安京への遷都1100年を記念して平安京創始者である第50代 桓武天皇(かんむてんのう)をお祀りするために創建されたものです。その後、昭和15年(1940年)に幕末の激動のなかで近代日本のいしずえを築かれた第121代 孝明天皇(こうめいてんのう)が合祀(ごうし)され現在にいたり京都の総鎮守として崇敬されているそうです。。。


平安神宮の例祭は4月15日であり、それが勅使の参向を仰ぐ最も重要な祭り事だそうです。これに対して「時代祭」は平安神宮の創建を奉祝して京都市民あげて始められたお祭りだそうで、毎年京都の誕生日にあたる平安遷都の日である10月22日に行われているのだそうです。。。

平安神宮にある神苑は、明治から昭和にかけての名造園家である7代目 小川治兵衛(植治)が20年以上かけて造った池泉回遊式庭園で、国の名勝に指定されています。琵琶湖疏水から水を引き入れており琵琶湖では外来魚の為に見かけることが出来なくなった「イチモンジタナゴ」が生存していることが確認されているそうです。神苑には人里には少ない「カワセミ」や「オオタカ」などの鳥類や、甲羅に草を生やす「ミノガメ」、日本では非常に珍しい「ミナミイシガメ」などが棲息しているらしいです。。。

祭りの日、平安神宮の大極殿(外拝殿)の前の龍尾壇には4本の旗がたてられ應天門から岡崎公園にかけての参道には来客のための観覧席が何列にも並べられてあります。。。

この大祭は、桓武天皇の平安京遷都を記念するもので、神宮から2基の神輿(天皇の乗物をかたどった紫の鳳輦(ほうれん))を京都御所まで神幸させて御所建礼門前に仮設した行在所において祭典を執り行い、その日の午後ふたたび平安神宮へ還御する際に、これら神輿の帰り道を先導する形で行われる風俗行列といった物なのです。。。。 
 

遥かな「平安」の祈り、そして、この祭りの真の意義は、この壮大な行列が行列の終盤にあたる神幸列にお供する祭列であるという事なのです。。。
つまり平安神宮のご祭神、桓武天皇(かんむてんのう)と孝明天皇(こうめいてんのう)のご神霊に京都市中を巡行していただき、市民の暮らしぶりを親しくご覧いただく事と、京都全市民が心を一つにゆくさきの「平安」を祈る祭礼である事が大切な事で、それが「時代祭」の肝なのです。
 

当初、行列は6列で上京と下京の2区に分かれていた市域を6地区、6社に分配して上京区第1社を延暦文官参朝列、第2社を延暦武官出陣列、第3社を藤原文官参朝列、下京区4社を城南流鏑馬列、第5社を織田公上洛列、第6社を徳川城使上洛列といったような形態になっていたようです。

現在行列は8つの時代、20の列で、それぞれに時代を再現した衣装や道具を身につけた人々で行われ、最初は明治維新、ついで江戸、安土桃山、室町、吉野、鎌倉、藤原、延暦(遷都)と時代を遡って続いて参加人数は約2000人にもなるそうです、長さは2キロメートルにも及び約3時間の行程となっています。先頭の名誉奉行は京都府知事、京都市長らが務められ、また行列の後には祭り本来の主役である神幸列などが天皇の乗物をかたどった紫の鳳輦(ほうれん)を囲み続いていきます。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

韓国の首都「ソウル」は、アジア最大級の都市であり、世界5位の都市圏人口と東京、ニューヨーク、ロサンゼルスに次ぐ世界4位の都市圏経済力を有する華やぎの都として知られます。街の中心を漢江(ハンガン)が横切るように流れ、南北に隔てられた地域をそれぞれ江南、江北と呼んでいるそうです。古くから発達したのは江北であり、宮殿(朝鮮王朝)や城壁などの史跡は江北に集中して存在しています。一方江南は新興住宅街として開発され、またオリンピック関連施設も江南に多く建設されました。「百済」はこの地に興り「高句麗(こうくり)」との争いで公州、扶余へと遷都をしていった朝鮮民族国家のひとつです。。。

 

その痕跡は王の墓(トゥーム)から発掘されたもので韓国のソウル「漢城百済博物館」や公州「国立公州博物館」や扶余(ぶよ)「国立扶餘博物館」などの場所にあります。今回は公州にある公山城と百済の第25代王「武寧王(ぶねいおう)」の陵墓、そして扶余に残っている扶蘇山城(ぶそさんじょう)を観て来ました。公州、扶余(ぶよ:泗沘 しび)は錦江(クムガン)の上流にある土地で公山城と扶蘇山城は小高い山の上に築かれた城壁に囲まれる陣屋のような場所です。公山城(コンサンソン)は公山の頂上から西側の峰にかけた稜線と渓谷に沿って長方形に取り囲むようにある城壁で、高さ2.5m、幅3mあり東西に約800m、南北に約400m、全長2660mにもなります。もともとは土城だったものですが朝鮮王朝時代に現在の石城に改築されたそうです。4つの城門のうち西側にある錦西楼(クムソル)から入城して山を登り王宮跡地とされている広場まで行ってきました。

 

扶蘇山城(プソサンソン)は「百済」が中国(唐)と新羅の連合軍に滅ぼされるまでの約120年間(538年~660年)、王都(泗沘 しび)の繁栄を支えた軍事的象徴であり、滅亡の瞬間をともにした最後の砦だった場所だそうです。「百済」が滅びた時に、約3000人の宮廷女官が扶蘇山の断崖地「落花岩(ナッカアム)」から錦江(クムガン)に身を投げ貞操を守ったという言伝えがあり、彼女たちを追慕するために落花岩の近くに「百花亭(ペッカジョン:六角亭)」が建てられたそうです。天井には、清純無垢の象徴であり極楽浄土に咲くとされる「蓮の花」が描かれているそうです。他にも扶蘇山城の中には祠堂「宮女祠(クンニョサ)」という「ほこら」があるそうです。秋には紅葉が美しく観られる山道との事でした。。。。
 

「武寧王(ぶねいおう)」は、「百済」の旧都である漢城(かんじょう)(ソウル特別市)を高句麗に奪われ混乱した国の安定を回復した王とされています。遷都後の首都、熊津(ゆうしん)(忠清南道(ちゅうせいなんどう)公州市)で即位しました。武寧王はしばしば漢江流域に対する高句麗の侵入を撃退し、512年には高句麗に壊滅的打撃を与えました。521年には中国南朝の「梁」に入朝して上表したそうです。倭国、日本との交流をのぞみ使者を送っています。
1971年に熊津(ゆうしん)(忠清南道(ちゅうせいなんどう)公州市)の宋山里古墳群から墓誌が出土し、武寧王陵として王墓が特定されました。墓は王妃を合葬した磚室墳(レンガ造りの墓)で当時中国で流行していた様式だそうです、棺材が日本にしか自生しない「高野槙(こうやまき)」と判明したことで日本との関係が大きな話題となりました。この他に、「金環の耳飾り」「金箔を施した枕」「足乗せ」「冠飾」などの金細工製品や中国南朝から舶載したと考えられる「銅鏡」「陶磁器」など約3000点近い華麗な遺品が出土しているそうです。。。。

 

日本には「百済」から送られた品物、古典が多く存在しています。毎年9月から10月に公州公山城と錦江新官公園一帯で輝かしい古代賢者の精神と知恵を高め、高貴な百済文化を継承、発展させるために「百済文化祭」といったイベントが開催されているそうです。。。2015年には、「百済歴史遺跡地区」としてユネスコ世界文化遺産にも指定されました。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奈良時代(平城京時代)は大陸との関係つながりが深くあり、朝鮮半島、中国からの国交・朝貢が頻繁にされる時代であったようです。第43代元明天皇(げんめいてんのう)が平城京へ都を移す前の飛鳥時代より、仏教をはじめとして大陸(中国)からの文化・制度の導入が行われ 第33代推古天皇(すいこてんのう)が聖徳太子を摂政として冠位十二階や十七条憲法を制定したように中国の「随(ずい)」「唐(とう)」へ遣いを出しそこから学んだ知識をもちいて国のかたちを整えて行く時代でした。。。 「倭」の国と呼んでいた国土が大陸の興亡により「日本」と改名するようになり文化も変わっていきました。。。。

朝鮮半島にあった新羅・百済・高句麗の三国において覇権争いがあり、大陸にある高句麗の侵略を受けて百済が遷都することとなります。百済は新羅に侵攻を繰り返し朝鮮半島全域に干ばつによる飢饉が起っても悪政により退廃して行ってしまいました。 660年、新羅からの救援要請により唐は軍を起こします。百済は友好国である倭国(日本)の救援をうけることとなり、663年に朝鮮半島の白村江(韓国 錦江河口付近)で百済の復興を目指す日本・百済の連合軍と唐・新羅の連合軍との間で戦争(白村江の戦い)が起ったそうです。三軍に分かれて侵攻した倭国軍は唐からの増援軍に大敗し捕虜として唐に抑留される者や船に乗り逃げ帰って来る者が出たそうです。この戦で661年、国土の危機をさとった第37代斉明天皇(さいめいてんのう)は自ら九州の地まで出兵しますが筑紫の朝倉宮にて命を落とすこととなってしまいます。天皇崩御にあっても第38代天智天皇(てんちてんのう)は即位できず、将軍の支援にあたったそうです。。。。
大陸との国交は衰え中国の随王朝から続いてきた使節の派遣は行き詰まりました。中国の唐王朝は随王朝が失敗して滅んだ原因とされる高句麗の征服に成功し国土を大きく広げています。日本もこの流れにより使節の派遣が可能となり遣唐使による朝貢がなされたようです。。。

 

 

元明天皇は藤原京から平城京への遷都を行いますが、この時期の律令国家は戸籍と計帳で人民を把握すると、租・庸・調と軍役を課しました。遣唐使を度々送り、唐をはじめとする大陸の文物を導入します。全国に国分寺を建て、日本仏教による鎮護国家を目指し天平文化が栄えて行きました。。。奈良の大仏様がいる東大寺もそのひとつとされています。「古事記」「日本書紀」「万葉集」など現存最古の史書・文学が登場した時代です。中央では政争が多く起こり、東北では蝦夷との戦争が絶えなかったそうです。。。。

朝廷は国教として仏教を保護するいっぽう「僧尼令」などの法令によってきびしく統制し、僧侶になる手続きや資格をさだめて仏教の民間布教に制限を加えました。「行基(ぎょうき)」のように禁令にそむいて民間への布教をおこない、弾圧されたものの灌漑設備や布施屋の設置、道路建設などの社会事業に尽力し民衆の支持を集める僧侶もありました。「行基」はその人気に注目した政府によって登用され、大仏建立に尽力したことで大僧正の僧位を得ました。。。。

712年に出来たとされる「古事記」は、宮廷に伝わる「帝紀」「旧辞」をもとに天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)に読み習わせた内容を、元明天皇の時に太安万侶(おおのやすまろ)が筆録した物だそうです。神話・伝承から推古天皇にいたるまでの物語で多くの歌謡を収載しているそうです。714年に紀清人(きのきよひと)・三宅藤麻呂(みやけふじまろ)に国史を撰集させ、舎人親王(とねりしんのう)が中心となって神代から持統天皇までの歴史を編集し720年に撰上されたのが「日本紀(日本書紀)」で、これは中国の歴史書の体裁にならったもので漢文の編年体で記されているそうです。。。。