PPRUBBIT(PPラビット) の ひっこし旅ブログ続編

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Yahoo!から引っ越してきました、なかよくしてね!

 

 

 

 

 

 

韓国の首都「ソウル」は、アジア最大級の都市であり、世界5位の都市圏人口と東京、ニューヨーク、ロサンゼルスに次ぐ世界4位の都市圏経済力を有する華やぎの都として知られます。街の中心を漢江(ハンガン)が横切るように流れ、南北に隔てられた地域をそれぞれ江南、江北と呼んでいるそうです。古くから発達したのは江北であり、宮殿(朝鮮王朝)や城壁などの史跡は江北に集中して存在しています。一方江南は新興住宅街として開発され、またオリンピック関連施設も江南に多く建設されました。「百済」はこの地に興り「高句麗(こうくり)」との争いで公州、扶余へと遷都をしていった朝鮮民族国家のひとつです。。。

 

その痕跡は王の墓(トゥーム)から発掘されたもので韓国のソウル「漢城百済博物館」や公州「国立公州博物館」や扶余(ぶよ)「国立扶餘博物館」などの場所にあります。今回は公州にある公山城と百済の第25代王「武寧王(ぶねいおう)」の陵墓、そして扶余に残っている扶蘇山城(ぶそさんじょう)を観て来ました。公州、扶余(ぶよ:泗沘 しび)は錦江(クムガン)の上流にある土地で公山城と扶蘇山城は小高い山の上に築かれた城壁に囲まれる陣屋のような場所です。公山城(コンサンソン)は公山の頂上から西側の峰にかけた稜線と渓谷に沿って長方形に取り囲むようにある城壁で、高さ2.5m、幅3mあり東西に約800m、南北に約400m、全長2660mにもなります。もともとは土城だったものですが朝鮮王朝時代に現在の石城に改築されたそうです。4つの城門のうち西側にある錦西楼(クムソル)から入城して山を登り王宮跡地とされている広場まで行ってきました。

 

扶蘇山城(プソサンソン)は「百済」が中国(唐)と新羅の連合軍に滅ぼされるまでの約120年間(538年~660年)、王都(泗沘 しび)の繁栄を支えた軍事的象徴であり、滅亡の瞬間をともにした最後の砦だった場所だそうです。「百済」が滅びた時に、約3000人の宮廷女官が扶蘇山の断崖地「落花岩(ナッカアム)」から錦江(クムガン)に身を投げ貞操を守ったという言伝えがあり、彼女たちを追慕するために落花岩の近くに「百花亭(ペッカジョン:六角亭)」が建てられたそうです。天井には、清純無垢の象徴であり極楽浄土に咲くとされる「蓮の花」が描かれているそうです。他にも扶蘇山城の中には祠堂「宮女祠(クンニョサ)」という「ほこら」があるそうです。秋には紅葉が美しく観られる山道との事でした。。。。
 

「武寧王(ぶねいおう)」は、「百済」の旧都である漢城(かんじょう)(ソウル特別市)を高句麗に奪われ混乱した国の安定を回復した王とされています。遷都後の首都、熊津(ゆうしん)(忠清南道(ちゅうせいなんどう)公州市)で即位しました。武寧王はしばしば漢江流域に対する高句麗の侵入を撃退し、512年には高句麗に壊滅的打撃を与えました。521年には中国南朝の「梁」に入朝して上表したそうです。倭国、日本との交流をのぞみ使者を送っています。
1971年に熊津(ゆうしん)(忠清南道(ちゅうせいなんどう)公州市)の宋山里古墳群から墓誌が出土し、武寧王陵として王墓が特定されました。墓は王妃を合葬した磚室墳(レンガ造りの墓)で当時中国で流行していた様式だそうです、棺材が日本にしか自生しない「高野槙(こうやまき)」と判明したことで日本との関係が大きな話題となりました。この他に、「金環の耳飾り」「金箔を施した枕」「足乗せ」「冠飾」などの金細工製品や中国南朝から舶載したと考えられる「銅鏡」「陶磁器」など約3000点近い華麗な遺品が出土しているそうです。。。。

 

日本には「百済」から送られた品物、古典が多く存在しています。毎年9月から10月に公州公山城と錦江新官公園一帯で輝かしい古代賢者の精神と知恵を高め、高貴な百済文化を継承、発展させるために「百済文化祭」といったイベントが開催されているそうです。。。2015年には、「百済歴史遺跡地区」としてユネスコ世界文化遺産にも指定されました。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奈良時代(平城京時代)は大陸との関係つながりが深くあり、朝鮮半島、中国からの国交・朝貢が頻繁にされる時代であったようです。第43代元明天皇(げんめいてんのう)が平城京へ都を移す前の飛鳥時代より、仏教をはじめとして大陸(中国)からの文化・制度の導入が行われ 第33代推古天皇(すいこてんのう)が聖徳太子を摂政として冠位十二階や十七条憲法を制定したように中国の「随(ずい)」「唐(とう)」へ遣いを出しそこから学んだ知識をもちいて国のかたちを整えて行く時代でした。。。 「倭」の国と呼んでいた国土が大陸の興亡により「日本」と改名するようになり文化も変わっていきました。。。。

朝鮮半島にあった新羅・百済・高句麗の三国において覇権争いがあり、大陸にある高句麗の侵略を受けて百済が遷都することとなります。百済は新羅に侵攻を繰り返し朝鮮半島全域に干ばつによる飢饉が起っても悪政により退廃して行ってしまいました。 660年、新羅からの救援要請により唐は軍を起こします。百済は友好国である倭国(日本)の救援をうけることとなり、663年に朝鮮半島の白村江(韓国 錦江河口付近)で百済の復興を目指す日本・百済の連合軍と唐・新羅の連合軍との間で戦争(白村江の戦い)が起ったそうです。三軍に分かれて侵攻した倭国軍は唐からの増援軍に大敗し捕虜として唐に抑留される者や船に乗り逃げ帰って来る者が出たそうです。この戦で661年、国土の危機をさとった第37代斉明天皇(さいめいてんのう)は自ら九州の地まで出兵しますが筑紫の朝倉宮にて命を落とすこととなってしまいます。天皇崩御にあっても第38代天智天皇(てんちてんのう)は即位できず、将軍の支援にあたったそうです。。。。
大陸との国交は衰え中国の随王朝から続いてきた使節の派遣は行き詰まりました。中国の唐王朝は随王朝が失敗して滅んだ原因とされる高句麗の征服に成功し国土を大きく広げています。日本もこの流れにより使節の派遣が可能となり遣唐使による朝貢がなされたようです。。。

 

 

元明天皇は藤原京から平城京への遷都を行いますが、この時期の律令国家は戸籍と計帳で人民を把握すると、租・庸・調と軍役を課しました。遣唐使を度々送り、唐をはじめとする大陸の文物を導入します。全国に国分寺を建て、日本仏教による鎮護国家を目指し天平文化が栄えて行きました。。。奈良の大仏様がいる東大寺もそのひとつとされています。「古事記」「日本書紀」「万葉集」など現存最古の史書・文学が登場した時代です。中央では政争が多く起こり、東北では蝦夷との戦争が絶えなかったそうです。。。。

朝廷は国教として仏教を保護するいっぽう「僧尼令」などの法令によってきびしく統制し、僧侶になる手続きや資格をさだめて仏教の民間布教に制限を加えました。「行基(ぎょうき)」のように禁令にそむいて民間への布教をおこない、弾圧されたものの灌漑設備や布施屋の設置、道路建設などの社会事業に尽力し民衆の支持を集める僧侶もありました。「行基」はその人気に注目した政府によって登用され、大仏建立に尽力したことで大僧正の僧位を得ました。。。。

712年に出来たとされる「古事記」は、宮廷に伝わる「帝紀」「旧辞」をもとに天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)に読み習わせた内容を、元明天皇の時に太安万侶(おおのやすまろ)が筆録した物だそうです。神話・伝承から推古天皇にいたるまでの物語で多くの歌謡を収載しているそうです。714年に紀清人(きのきよひと)・三宅藤麻呂(みやけふじまろ)に国史を撰集させ、舎人親王(とねりしんのう)が中心となって神代から持統天皇までの歴史を編集し720年に撰上されたのが「日本紀(日本書紀)」で、これは中国の歴史書の体裁にならったもので漢文の編年体で記されているそうです。。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奈良にも有名な寺院や城跡がいくつかあり、特に吉野山の千本桜は日本一の桜の名所として知られていますが名古屋から少し近い場所(宇陀市)に、「又兵衛桜(またべえざくら)」と言われる樹齢約300年のしだれ桜があります。一本桜の大樹で「本郷の瀧桜(ほんごうのたきざくら)」ともよばれ石垣から迫り出した枝に咲く桜花が滝のようにみえる立派な桜です。
又兵衛桜の名の由来は豊臣政権下、大坂城の陣で活躍した戦国武将「後藤又兵衛」に因んだものという事ですが詳しい内容は知りません。今年の桜は、開花の時期に雨降りの日が多く満開が危ぶまれましたが曇り空の中多くの人たちが桜を見に訪れていました。。。


また奈良には、初代天皇となった「磐余彦尊(いわれびこのみこと)」後の神武天皇の陵墓と宮(橿原神宮)があり毎年2月11日の建国記念日には紀元祭といわれる神事が催されるようです。開運・延寿を願う福矢には錦の御旗を模した短冊が付けられていました、橿原神宮の祭典や祈祷では天皇・皇族から贈られた歌をもとに作舞された神楽舞が御神前で奉奏されているそうです。神楽は天照大神が岩戸籠もりをされたおりに天鈿女命(あまのうずめのみこと)が舞ったものが起源とされているそうです。この大和の地には紀元前からの皇族の陵墓や古宮の跡地が多く残されており第33代推古天皇(すいこてんのう)より前の時代を古墳時代とよび推古天皇よりのちの時代を飛鳥時代といっているそうです。古墳時代と飛鳥時代を合わせて大和時代と称し第43代元明天皇(げんめいてんのう)が平城京へ都を移すまでに、橿原宮、葛城宮、纒向宮、難波宮、飛鳥宮、近江宮、藤原宮などなどとあちらこちらに天皇の古宮がありました。推古天皇は歴代天皇のなかでもはじめて天皇となられた女性の天皇陛下で聖徳太子を摂政として冠位十二階や十七条憲法を制定し仏教の興隆に力を注ぎ天皇中心の国づくりをしました。今回は明日香村にある高松塚古墳と大和時代の最後と思われる第42代文武天皇(もんむてんのう)の陵墓を見てきました。

 

 

きんぎょの里として知られる郡山には安土・桃山時代以降の城郭であろう郡山城が残っています、城の造りは広域で名古屋城や彦根城に並ぶほどの石垣と堀で囲まれています。天守は無いのですが社が建てられています。大和では、天下統一を目指す信長の命令で、郡山城を除く城を破壊。天正8(1580)年に筒井城が破城され、奈良町近辺の各戸から人夫が動員されました。天正9年(1581年)から明智光秀が普請目付として大規模な近世城郭として工事をしたとされ、奈良の大工衆を集めたことが記録されています。しかし、領主として信長に選ばれた筒井順慶も天正12年(1584年)に死去しています。
1585年(天正13年)豊臣秀吉の弟、豊臣秀長が大和国・和泉国・紀伊国三ヵ国100万石余の領主として郡山城に入り城を100万石の居城に相応しい大規模なものに拡大しようと、城郭作りや城下町の整備を急ぎ根来寺の大門を移築したり、天守台の石垣に墓石や石仏(地蔵)までも用いました。享保9年(1724年)に柳沢吉里が甲斐甲府藩から15万石で移封され、城下町の整備に努めます。柳沢氏が来てから郡山城は安定した時期を迎えていましたが、天明7年(1787年)に大飢饉が発生、城下町の民家を群衆が打ち壊し、米穀を奪い取る騒ぎが起こります。安政5年(1858年)12月1日に郡山城二ノ丸付近から出火し、住居関係の建物群は全て焼失する大火にみまわれています。

 

 

 

 

 

 

唐招提寺は、中国(唐)から来た僧侶「鑑真和上」が創建したとされる寺で、僧侶「鑑真和上」は日本に仏教の戒律を伝えるために幾度となく渡航にのぞみ失明してしまったといわれます。僧侶になるには、仏教教団の10名の先輩構成員(三師七証)の承認があり、戒律を護る事を誓えば誰にでもなれるものであったそうですが、中国や日本に於いては、労働、納税、兵役を免除されていたため、僧侶になる者が続出し、国家の財政を脅かす事態となりました。そこで国は年度や地域毎に僧侶になる人数を制限するために、得度(出家)を国家の許可制としたそうです。

南の方角には今の薬師寺が建っています。薬師寺は天武天皇9年(680年)、第40代天武天皇(てんむてんのう)の発願により、飛鳥の藤原京の地に造営が開始され、平城京への遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものだそうです。飛鳥の藤原京の薬師寺(本薬師寺)の伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたそうです。薬師寺は、第40代天武天皇(てんむてんのう)が後の第41代持統天皇(じとうてんのう)である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して寺の建立を発願し、百人の僧を得度(出家)させたところ、病気は平癒されたと薬師寺の東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれているそうです。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれました。