わたら瀬店長のブログ -3ページ目

かわらないもの

本年のわたら瀬からの暑中見舞い
お出しできませんでした。
厄中において、時間だけが悪戯に揺蕩い
皆様にかける言葉が不覚ながらにも全く想起出来ず

言い訳でございます。

漸く宣言が解除され、日常を取り戻すという枠に日本は入ってまいりました。
本年中の経口薬の特例申請で許可が降りて、これが決定的な収束の決め手になるようです。

コロナ以前とコロナ後
こうなると元の生活には完全には戻らない。

そういった見解が識者のなかで叫ばれておりますが
はて、如何でしょうか。

秋になるとぐっと冷え込み、木枯らしが吹く度に
人はからだも心も温もりを求めます。
寒風が染み入れば街場の暖簾をくぐりたくなるのは万世共通の人間感情であり
やはりそれは酒場という文化の普遍的役割の
恒久的な価値を宿すところなのであります。

つまり、変わるものもあれば変わらないものもある。

''ゆく河の流れは絶えずして
しかも元の水にあらず"

変化を恐れず、不変を愛す。


少なくとも、巨人軍が永久に不滅なように
わたら瀬は永久に不滅であります。

古いか、、

私のことが嫌いになっても
わたら瀬のことは嫌いにならないでください

わたら瀬店長//

命の火


人間は平等には生まれてはきません。


貧しく生まれる者、裕福に生まれる者

健康に生まれる者、病弱に生まれる者

孤独に生まれる者、人に囲まれ生まれる者


あらゆる環境に於いて生まれながらにして不平等な生命が唯一の平等を保つもの、


それは

"時間"

であります。


誰しもが等しく1日は24時間であり、

この世に生を授かったその日から、

いつ迎えるとも分からない死に向かってのカウントダウンが始まるのであります。


老衰、病、事故、紛争


遍く存在が内包する、絶命へ向かっての平等。


そう悟った時に


これこそが命の火の輝きの源泉なのだと。


今般、ある意味ではコロナという病において

地球上で人々は""を唐突に眉前につきつけられた様に感じたのではないでしょうか。


世界中が蜂の巣を突いたように大混乱に陥り

堰を切ったように

皆で"命"の大切さ、有用さを叫びます。


しかしそれ以前も以後も我々は何時も何処でも

『葉隠』さながら

死へと向かう命の火を燃やしているのです。


""の尊さを疑うのではなく

嘯かず、奢らずそれを語るのであれば

この哲学的な問いに向き合った者は

等しく

""に向かっても同じ温度で語らなければなりません。



Apple創業者の故スティーブ・ジョブズ氏は米スタンフォード大学の卒業生へ向けてこの様な言葉を贈りました。


〜私は17歳のときに「毎日をそれが人生最後の一日だと思って生きれば、その通りになる」という言葉にどこかで出合ったのです。それは印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしているのです。「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と。〜




「もし私が最後の1日だとすれば?」


応えは一択、


わたら瀬で呑む


でしょう。



//わたら瀬店長

この世の中の黄金原則

「夏休み

と聞くとわくわくしてくる。

あの頃"時間"はもう登場していたけれども、まだ骨を犯す毒は持っていなかった。」


「いつ死ぬかしれない日夜にそれと気づかず

生を確認するのに忘我だったという説明は気が利いているが

あの心の火の深さ、濃さ、明るさは決して説明してくれない。」


〜開高健〜



ヒトに時間という概念が発生するのには、経験に基づいた決定的な死生観が必要なのだ、と思います。

それだけに、戦地に赴いた文豪の言葉には、ある意では無常観にも似た刹那的な輝きが、、、


思うに、或る物事に没入し時を忘れる事

と云うのは若さという特権に勝るとも劣らない愉悦があるのだろうと。


""もまた然り。


禁酒令が敷かれ街の灯が奪われた今、人々は何を想うか・・・

ふつふつと沸く矛盾した社会への、慟哭、迷いは誰にしもあって

心の深淵を縁取る渇望に近いものはずっと鳴りを潜めているのではないでしょうか。


ここは、やはり

潤さなければなりません。


心の渇きは酒の渇き。


わたら瀬という酒の泉は皆様のこころに広がっております。


しばし


//わたら瀬 店長