2014年、県境ライン全走破計画 stage7-2(瓶ヶ森ルート) | 柴犬と小規模農家の奮戦記!

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ロンリーライダーの農業と趣味の日常です

10年も前になってしまた県境ルートツーリングを続けて行きます。

以前に比べて未舗装のルートがグンと減ってしまった県境を取り巻くルートですが、石鎚連山の高知県側の懐にある大森川ダム周辺のルートは昔から変わらず、オフロード天国のままです。

オフロードライダーとしてはこのルートを外す訳には行かず、未舗装のダート走行をたっぷりと楽しんで県境を目指していきます。

 

■走行日2014年7月~8月

 

旧大森隧道の入り口手前から大森川ダム方面へと向かう“奥南川林道”へと入っていきます。

 

 

四国山脈と大森山の稜線に囲まれた谷を流れる大森川沿いを走る未舗装の林道です。

 

 

ジリジリと照りつける夏の太陽、青々とした晴天の元、植林の中を気持ち良く走って行きます。
何しろ、これまでのルートで以前は未舗装だった林道はことごとく舗装されていましたので、ダート走行に飢えていたので、水を得た魚の気分で爽快に走行していきます。

 

 

天気は、そんなダート走行を楽しませてくれるような上天気です。
この奥南川林道はそれなりの距離があり、短くも無く、走りも難しくも無く、逆に易し過ぎることも無く・・・・と、ボーダーライン越えのツーリングにはちょうど良い林道コースなのです。

 

 

大森川の渓流を見ながら素彫りトンネルを抜け、県境ルートを目指しながら存分に未舗装道を走りまわります。

 

 

起点地から約12キロほど走ると、奥南川林道支線の分岐へとやって来ます。

ここで、少し小休憩です。

この支線は大森ダムの貯水池の北側沿いを通り、グルリと一週してここまで戻って来ることができるのです。

そのルートは全て未舗装です。

 

 

休憩していると、そこへ2台のオフバイクがやって来ました。

2台とも和歌山ナンバーですが125ccだったので、フェリーと地道でずっと走ってきたのでしょうか。

軽く会釈をして走り去っていきました。

さあ、こちらも出発していきます。

 

 

大森川が綺麗な色をしています。

見るだけでついつい河原に降りたくなりますが、どうやら降りられる場所は無いようです。

緑に包まれた渓流には癒されます。

 

 

やがて、大森川ダムが目の前に現れます。

まるで人を寄せ付けないような山深い谷間に突如として現れるダムは不思議な光景で、同時に神秘的な雰囲気も感じます。

 

 

ダムの上部まで行ってみますが、堰堤上は通れません。

 

 

大森川ダムは昭和24年の河川総合開発計画を発端に、昭和28年に水力発電の増産を目的とした吉野川総合開発計画が発表され、吉野川水系に7箇所のダムを建設する計画が立てられました。

その一環として昭和34年に完成された水力発電ダムです。

 

 

高さは73mで、ダム湖は“大森川貯水池”と言われ、貯水池からは北にある吉野川本流にある長沢ダムまで大森川導水路によって接続されています。

静岡県の井川ダムに次いで古い中空重力式のダムで、四国では他に穴内川ダムがあります。
この穴内川ダムも吉野川総合開発計画の一環として、吉野川水系の穴内川に建設されています。

 

 

貯水地を見た後はダムの下まで戻り、東谷大森川林道へと分岐して入り、大森山脈の“奥大野越”を目指して走ります。

 

 

高度をかせぎ、見晴らしの良い所まで来ると大森川ダムを眼下に見るようになります。

こうして見ると、大森貯水池がまるで山の間にすっぽりとできた天然の茶碗のように見えます。

 

 

さらに進むと南側の景色が開け、目指していく大森山山脈の稜線が見えてくると、やがて“奥大野越”に到達します。

 

 

“奥大野越”は大森隧道の上の“程ヶ峠”と同じ稜線上にある旧本川村と旧吾北村を分ける分水嶺峠で、奥大野越の吾北側の流れは小川川→上八川川→仁淀川となって高知市(旧春野町)から太平洋に流れる一方、本川側の流れは、大森川→吉野川となって徳島市から紀伊水道に流れて出ています。

この峠の前後で水の行き先がガラリと変わるのです。

 

 

峠から仁淀川方面の眺望は抜群!バイクのエンジンを切ります。

野鳥やセミの声。
これまで走った鳥形山や明神山が遠くにそびえているのを見ることができます。

 

 

そこでいったん、大森川ダム周辺の林道エリアから別れて峠からは旧本川村から旧吾北村に入り、小川という集落まで下って行きます。
東谷大森川林道を下りきって、小川の集落から国道439号に入ります。

この区間の439号線は2車線のバイパスとなっていますので旧道を走ります。
すでに439号線を示す「おにぎり」などは残っていませんでしたが、バス停には名残りのような注意書きが残っていました。

 

今回のルート