これからの日本人へ/松下幸之助 | ブログ

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おはようございます。岡本大輔です。

本日の紹介はこちらです。

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【出会い】

大好きな松下幸之助さんの言葉を聴きたくて帯広図書館で借りてきました。近い将来、「松下幸之助さんが改善する介護現場(仮)」を書きたいので参考にしたいです。


【本書のテーマ】

松下幸之助さんが教える日本人としての生き方・誇り。

【岡本大輔の視点】

日本人として、人間として、専門職としての生き方。

【気になった抜粋】

松下の国政への発言の真意をつかまえたなら、ある重要事に気づかされます、それはつねに「日本人としてどう考え、どう行動すべきか」が基調にあったことです。



広島、長崎の事例・・・ペンペン草も生えないほどの大きな傷を受けても、再建しようという強固な意志があれば、立派になしとげられるものだということである。



大切なことはうろたえないことである、あわてないことである、うろたえては、かえって針路を誤る、うろたえては、協力がこわされる、だから揺れることを恐れるよりも、協力がこわされることを恐れたほうがいい。



志を立てるのに、老いも若きもない、そして志あるところ、老いも若きも道は必ずひらけるのである。



七度転んでも八度目に起きればよい、などと呑気に考えるならば、これはいささか愚である、一度転んで気がつかなければ、七度転んでも同じこと、一度で気のつく人間になりたい。



日本人はある一つのいい種をつかめば、自分の土壌に植えつけて立派な花を咲かす、立派な実を結ぶ、そしてそこからいろいろな創造をしていくというような力と申しますか、そういう本質をもっている。



日本人は決して単なる模倣民族ではないと思う、吸収消化する民族である。





幸せというものは、それは人によって違うと思いますけれど、生きがいを感じる人が幸せではないですか。



多くの人は釈迦やキリストよりも、もっと偉くならんといかんと思うんです、なぜかというと、そういう(仏教やキリスト教にみる)哲理を教えてもろうたんですから。



天皇陛下の敗戦の弁・・・「この戦争の責任はすべて私にある、だから、私の一身はどうなろうとかまわない、この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい。」。



常に互いに表情を交しあい、隔てなく話しあってこそ、理解を深めることができるのだといえよう。



武士は、武士なるをもって尊しとしていました、したがって強いだけが武士ではなく、武士は人間として最高でなくてはならない。







”親になるのはやさしいが、親であることはむずかしい”


【響いた抜粋と学び】

日本の国土が国土として変わらないように、日本人の本質というものは決して変わらないと思います、日本人はあくまで日本人なのです。


岡本大輔は岡本大輔で変わらない。本質はそのまま。というように抜粋を読んで感じていました。

蛙の子は蛙、けっしてマグロにはなれないし、鯨にもなれない。ツバメにもなれない。


蛙は泳ぐのが速くないし小さい、空も飛べない。


だから劣っているのか?


否。蛙は水陸両用。ジャンプができる。強い蛙になると蛇を食べるくらい強力な蛙もいる。


蛙には蛙の強みがある。


福祉業界には自らの介護という仕事に誇りを持って、突き進む人がいるし、介護における経営に焦点を絞った人もいる。


そのような人たちを見て、いいなぁと思っているだけでは何も始まらない。


その人たちになくて僕にあるものを見つけること、そして磨くことが必要だと感じています。


文武両道ということばをみてますと、”文・武”であって”武・文”ではありません。つまり主となるのは文であって、武はそれを守るものだといえましょう。


松下幸之助さんは本当に深い人だと感じます。僕は31年間「文武両道」という言葉について何も疑問に思いませんでした。


松下幸之助さんが言うように、文武というのは文が先ということには意味があると感じます。


松下幸之助さんのおっしゃるように文を守るために武があるのか、それともか文が疎かになりやすいから文を先にしているのか。


僕は後者の考えを持っています。


文は忘れ去られやすいため、予防のため、文を先にして忘れないようにしていると。


「権利を主張することは大いにやっていい、しかし同時に自分の義務をはたさなくてはいけない、それが真の民主主義なのだ。」



子育て中の僕は小学6年生の長男と小学5年生の長女には”権利と責任”についてことあるごとに話します。


僕の持論といったらおこがましいかもしれませんが、子どもだけで身体的に成長することができても、精神的に成長するには大人の手助けが必要だと感じています。


僕自身がそうだったように、社会のルール・マナーと言うのは人間が本来持ち合わせないものです。


幼少の頃の僕にとって挨拶や礼儀は未知のものでした。


できて当たり前は、教わってこそ言えることです。


挨拶や礼儀、マナーは後天的なものなので、教える人が必要です。


家庭において、それらを教える義務が僕達親にはあると考えます。

道徳心やモラルも僕達が何が大事なのか、というのを教える必要があります。


学校でいくら道徳を習ってきても、背中を見せる親にモラルやマナーがなければ意味がないからです。


先日、レンタカーで旅行をして、その途中駐車場でバックした時にうっかり車に3×3ミリくらいの傷を作ってしまいました。


義母は僕らの経済面を考慮して、「知らん顔していれば、ばれないんじゃない?」と言ってくれましたが、僕にはそれはできませんでした。


子供達のいる前でそれを言ってしまったことも要因の一つですが、親である僕達がその行動をとれば、子供達は友達から借りたものをうっかり壊したときなど「最初からなってたよ」と嘘をつくかもしれないと感じたのです。


それは人間としてやっちゃいけないことだと僕は感じています。


ここまでお読みいただきありがとうございます。

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