こんにちは。
朝日町不思議紀行の事を前回、ランチネタとして紹介しましたが、今回が本編になります。
リンク 朝日町不思議紀行ランチ
この催しは昨年も企画されていたのですが、何の因果か台風で中止になったという経緯があり、昨年申し込んだらしき人から、
”今年は無事に開催されて良かった~!!^▽^”
という声を聞きました。
11月9日(日)にあさひまちエコミュージアムが主催する、
「朝日町不思議紀行」が無事開催されました。
当日の天気は曇り。
そして、この天気が後に大きな意味を持つことを、この時は誰も想像していなかったのです・・・。
朝9:00に創遊館のエコミュージアム事務所前に、参加者の皆さんが集合しました。
年齢層は20代から60代くらいまでの男女、総勢20名ほど。
町内からは勿論ですが、山形市や寒河江市、県外の方もいらっしゃいました。
(ご苦労様でございます(ー人ー))
町民としては、やはり嬉しい気分になるものですね。
まずは資料として、この冊子を貰いました。
この資料の表紙を一枚めくると、下の写真にあるとおり、一日のスケジュールが記載されています。
どうですか?かなり密度が濃いですね。
では、このバスに乗っていざ出陣。
その怪しさ故に、自身が既に朝日町の不思議ミステリーの一つになりつつあるネコ隊長が、今回のミステリーハンターとして、張り切っていたのでした。
そして中部地区にある創遊館から北部地区の大谷へ向かって、バスに揺られること15分くらい。
見慣れた大谷の中心地へ入っていくと、第一の目的にに到着しました。
最初の目的地である、”大谷往来館”。
ここ大谷地区の事をちょっと触れておきますと、江戸時代は朝日町役場のある中部地区の多くが庄内松山藩であったのとは違い、元々は天領(徳川幕府直轄領地)だったところです。
その後、白河藩支配下に置かれたりしましたが、土地柄として朝日町の中では少し歴史的に毛色が違うところであります。
それでは建物の中へ入り、大谷の歴史上の話を聞かせていただきます。
最初のお話は、菅原道真と大谷の縁についてでした。
無実の罪を着せられて、九州大宰府へ左遷されたエピソードで有名な”学問の神である菅原道真”が左遷された時、道真の姫君一行が落ち延びた地が、ここ大谷だと伝えられているのです。
そして姫君の子孫達が姓を”白田”に変えて、代々治めてきたのが、大谷という地区なのだそうでした。
※白田という文字の由来は、かつて大谷の地は灌漑工事が行われる以前には、水が不足していた土地であり、稲を育てる田がなかったことから、”田が無い真っ白な土地”であったという意味から、”白田”と名乗るようになったという説があるそうです。
以降、白田一族が大谷の天神社を建立し、代々神主を務めることになりました。
それ以外にも白田一族の果たした業績は大きく、大谷堰の開削をはじめとして、産業・医学・宗教・文学・芸術などの面で、大谷の発展に貢献したそうです。
大谷の人たちは学問の神様の子孫だから、頭いいのかもしれまへんで~。( ̄□ ̄)b コリャマイッタ・・。
上の写真を見ると、本社天満宮を中心に取り囲むように拝殿と末社が配地されていますね。
大谷の町並をみると合理性の高い、碁盤の目のようなつくりになっているのが特徴です。
その他には、地名に「小路」という文字がつく、寺社が多い、丁字路が多いなどの京風を連想させる要素を見て取ることができます。
そして天神が多い大谷、その天神への信仰に篤く、地元では知らぬものは居ないという、名主を務めた道真の子孫で、後の世で当時の天皇から勤皇の志士として認められたことでも有名な”白田外記”、そして外に対して内側の”白田内記”に関する内容は別に譲りますね。(ー人ー)スミマセヌ
ここで扱うにはボリュームが大きすぎることによるものです。
往来館を後にして、次に行った永林寺。
このお寺で凄いのは、何といっても”仁王門”と呼ばれる寺の門の両側に立つ金剛像です。
仁王門は昭和二十一年の台風で倒れました。
門の再建中、仁王尊の中から祈願札が発見され、像が元禄五年九月二十五日に京都の仏師によって彫られたことが判明したそうです。
250センチメートルの阿型の蜜迹(みつしゃく)金剛。
240センチメートルの吽型の那羅延(ならえん)金剛像。
この二体の像は大変迫力がありました。
仁王門をくぐって、奥に進む風景が気持ち良いですね。
不思議というよりは、なんだか背筋がピンと伸びるような、格式の高さ、誇りと真面目さという印象が、強く残った大谷紀行でした。
大谷の歴史の深さと史跡に感動した後は、朝日町不思議紀行その②、今度はこのツアーの冠のとおりのマジで?!のビックリ不思議が連続の、
山神編に続きます。











