あなたなしで | ヒツジとサボテン

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なんとなく続けてみる。

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 あなたなしで生きてきた私は

 あなたなしで生きていけるのでしょうか。

 これから。いつまで。

 知ってしまったものは忘れがたく。

 得てしまったものは失いがたく。

 想ってしまったものは離れがたい。

 あなたなしで。あなたなしで。

 それは空虚な言葉遊び。

 

 

 

 

 

 あなたなしで

                             written by 未

 

 

 

 

「おはようございます」

 

 当たり前の挨拶を交わすことにわずかに心が跳ねる。これはなんでしょう。知識としては拾っていて。記憶としては取り入れていて。経験としては初めてのもの。初めてのものは私だけのもの。

 

「ああ」

 

 あなたは言う、低い声で。小さいけれど、確かに聞こえる声で。私に向けた赤い瞳をすっと細めながら。最初に私を見つけて。次に誰かをなぞって。それから私を認め直して。私はまだ私になりきれない。

 

「おはようございます」

「…………」

 

 繰り返す、当たり前の挨拶。

 当たり前の挨拶は、当たり前に返されなければならないでしょう?

 

「…………」

「おはよう」

「最初からそう言ってください」

「……善処する」

 

 なんですか、その政治家のような回答は。当たり前のことを当たり前にできなくなったら本当に政治家になってしまいますよ。

 と、心の声は口から漏れていたようで。

 

「私は政治家にはなれない。鬼籍だからな」

 

 当たり前のように彼は言う。

 鬼籍だったでしょうか。そこまで確認したことは無いけれど。軽口のつもりが、悪いことを言ってしまったかもしれません。

 そう少し反省してみれば、彼はわずかに口元を歪めている。

 

「わかりにくい冗談はやめてください」

「事実だ」

「確認しますよ?」

「好きにすればいい」

「そこまで含めた揶揄ですね」

「そんなわけないだろう」

「笑っているではないですか」

「笑っていない」

 

 笑っている。それはもうはっきりと。外套で口元を覆ったところで、頬筋の歪みで私にはまるわかりなのです。

 

「珍しいところで会うと思ったら、私をからかいに来たのですか」

「まさか。ユフィじゃあるまいし」

 

 悪友の姿を想像して辟易する。嫌いではないが、こういう場面では会うと厄介この上ない。彼女なら本当にその目的一つでこのWRO本部まで来かねない。今ここにいなくて本当によかった。

 

「では彼女のような言動は慎んでください」

「善処、いや、努力しよう」

「たいして変わっていませんよ」

「政治家がしないことだ」

「私より辛辣では?」

「冗談だ」

「笑えませんよ」

 

 せいぜい努力してもらうことにしよう。

 

「それで、今日はなぜここに?」

「リーブに呼ばれてな」

「そうですよね」

 

 私は肩を竦める。聞くまでもないことだ。

 

「こんなところで油を売っていていいのですか」

「気にするな。指定された時間は疾うに過ぎている」

「早く行ってください」

 

 時間にルーズな人だとは思っていなかったのだけれど。

 

「約束はちゃんと守らないとダメです」

「約束ではない。一方的に指定されただけだ」

「それでも努力はしてください」

「無用だろう。海の向こうから五分でここには来られない」

「はい?」

「五分後に自分の部屋に来てほしい、と一週間前に電話があった」

「あなたはそれをどこで聞いたのですか?」

「ゴンガガだ」

 

 同じ建物内にいると勘違いしていたのだろうか。いや、そういう情報に疎い人物ではないはず。分かっていてそのような依頼を?

 

「冗談だったのでは?」

「かもしれないな」

 

 事も無げに言う。一週間かけてここまでやってきておいて事も無げに。時間の感覚が狂っているのではないだろうか。あながち的外れとも言い切れない。

 

「今さら行っても遅いのでは?」

「かもしれないな」

 

 事も無げに言う。居場所を確認しなかった相手が悪いとでも言うように。本当に確認していなかったのなら確かにそうだけれど。冗談を真に受けた体の意趣返し?

 

「断れば良かったのでは?」

「断る理由は無かった」

「間に合わないと分かっていたではありませんか」

「間に合うように行くとは言っていない」

「ではなんと?」

「善処する」

「…………」

「……善処した」

 

 彼は肩を竦めて言う。これは、もうどうなのだろう。私がおかしいのだろうか。ジェネレーションギャップというやつだろうか。それとも「五分」とは彼らの間で使われる隠語なのだろうか。彼らの時間の単位は一般の二千倍なのだろうか。

 

「頭おかしいのではありませんか」

「かもしれないな」

 

 そう言う彼の頬筋は、最初からずっと緩みっぱなし。冗談なのでしょう。私にはまるわかりなのです。どこからどこまでかまでは分からないけれど。

 

「もういいです。早く行ってください」

「だから急ぐ必要はない」

「私が急ぎますので」

「おまえは……、いや、聞くまでも無いか」

「ええ、姉さんのところです」

 

 私は抱えていた荷物を少し持ち上げてアピールする。

 

「では、ご縁がありましたらまた」

「ああ」

 

 それだけ言って私はさっさと背を向ける。まったく、予想外の邂逅に予定外に時間を使ってしまった。姉の機嫌が悪くなっていなければ良いけれど。いや、そもそも忘れ物を届けに来たのに文句を言われる筋合いはない。それもほんの五分くらい遅くなっただけだ。一週間でもなければ、十年でもない。そう思っているのに、ポケットの中で携帯電話が震えている。きっと、「事故にでも遭ったのか」という心配のメッセージだろう。あの人は、まったく――。

 そうして私は姉への言い訳とクレームを考えながら背後のことを忘れる。何でもないことのように。当たり前のことのように。名残り惜しまず。後ろ髪引かれず。振り返らないよう、善処する。

 

 あなたは特別な人ではなく、この邂逅も特別なことではない。あなたと私の道は容易に交わり容易に離れる。軽口の一つ一つに重みなど無く、眼差しの一つ一つに意味など無い。ただ友人とたまたま出会って立ち話をしただけ。そんな日常の一コマに過ぎないのだから。

 

 あなたのいる世界で生きている私は

 あなたのいない世界の想像などしない。

 これから。いつまでも。

 知りうる限りの諧謔を弄して。

 得てして踊る心を律し。

 想いを留めてつかず離れず。

 失う恐怖から目を背ける。

 

 あなたなしで。あなたなしで。

 

 あなたなしなんて――。

 

 

 振り返ってその姿を。

 探すまでもなく目が合って。

 

 

 ああ、善処など。

 するものではありませんね。

 

 

                                the end

 

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