(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。

    

 私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。

  

 ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)

 

 https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be

  

 それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。

 

 その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、

 

「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画

(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!

   

 この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。

 

 また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。

 

 この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。

  

 これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。

 

  ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。)

 

<本文> 「ナメクジ侵入対策」

 

こんにちは!

 

しつこい新型コロナ蔓延の中、いかがお過ごしでしょうか。

 

今日の題は何のこと???

 

そう思われたことでしょう。

 

実は、今の一戸建て住宅に引っ越してきてからというもの、ナメクジがしょっちゅう家の中にいるのを見つけるのです。

 

ナメクジが家の中にいると安心できませんね。

 

どこにでも這っていける生物ですから。

 

でも、彼ら、見つけた時って、止まっています。

 

ボテーっとしてただその場所にいるだけ。

 

動いているところを見たことがありません。

 

だいたい1匹か2匹、台所の流し台のヘリとか、廊下の上とかにただいるのです。

 

これは、本当に驚きます。

 

気配もしないし、音もしないし、ふと気が付くと、直径1cmくらい、長さ3~4cmの灰色と茶色の中間のような色のグニャグニャ体がボテーっとそこにある。

 

思わず「ウワッ」って叫びます。

 

聞いただけで気持ち悪いでしょう?

 

カタツムリの殻が無いだけ、と自分に言い聞かせてもダメ。

 

やはり気持ち悪い。

 

でも、私は意気地が無いというか、良く言えば心優しいというのか、

 

虫とかを殺すことができないたちなのです。

 

それで仕方がないからティッシュでそっとつまんで、窓から外に放り投げます。

 

もちろん、家の敷地の上にです。

 

ところが、もう翌日の夜頃になると、どうも放り出した個体らしいのがまた入って来ているのです。

 

そのたびに、「もう入って来ちゃだめだよ!」と言い聞かせてまたティッシュごと窓の外に投げます。(ちなみに、あとでティッシュだけ回収して捨ててます。)

 

もう、きりがない。

 

一体どこから入って来るんだ?

 

家の中を見渡しても、侵入出来そうな場所は見当たらないのです。

 

窓はサッシであんな大きなナメクジが通れるスキマはないし。

 

排水管を上ってくる?

 

それとも上の方にある換気扇のスキマから?

 

もうわけがわかりません。

 

ひょっとして、ナメクジって、超能力で、ドアとか壁とかを通り抜けられるのかなあ?

 

そうそう、イエスキリストが復活後に、鍵のかかったドアを通り抜けて弟子たちの前に現れたように。

 

いや、本当にそう思いました。

 

どうしようも無くなって、私は主イエスキリストに祈ったんです。

 

「主よ、ナメクジが入って来ませんようにお願い致します。アーメン」

 

・・・・・でも、その祈りは空しく、全然効きませんでした。

 

相変わらず彼らは何事も無かったかのように、

 

「こんちは、また来ちゃいました、ヘッヘッヘッ」

 

と言わんばかりに入って来続けます。

 

それで業を煮やした私は、今度は

 

「主よナメクジの侵入場所を探させてください」

 

という祈りに変えました。

 

そして、家の中の侵入場所を発見する行動を開始したのです。

 

ちなみに、クリスチャンは、祈りながらものすごい行動力を発揮する人種なのです。

 

もともと立って見回しても、どこにもそれらしき所はありませんでしたから、今度は、徹底的にはいつくばって、携帯のライトをオンにして照らしながら探しました。

 

ナメクジは外の地面を這っているのだろうから、地面に近い場所、すなわち玄関と勝手口のコンクリートが四方から立ち上がって木枠と接するところを重点的に探しました。

 

そうしたら・・・・・・あったあった!

 

勝手口に5か所の小さな穴、玄関には3か所の小さな穴と、幅3cmで長さ30cmくらいに渡って木枠が腐って開いている長い穴が見つかりました。

 

ここだ! ここに違いない!

 

これらの穴の周辺にはナメクジが這ったあとに必ず残るライトで照らすとキラリと光る筋がおびただしく残っていました。

 

まちがいありません。

 

さっそくすべての穴をスキマテープやレンガなどでふさぎました。

 

実は、最初、勝手口の穴だけ見つけ、玄関には穴が無さそうだったので、勝手口だけ処理したのです。

 

ところが、すぐに彼らは入って来ました。

 

これでもか!

 

まだか!

 

いらつきながら、仕方なく、今度は玄関を徹底的に調べたのです。

 

実は玄関には荷物が沢山置いてあって、それをどけないとすべてを確認できなかったのです。

 

でも、まだ入ってくるのだから仕方がなく、荷物をどけて調べたら、前記の沢山の穴が見つかったのです。

 

それを全部何とか塞いだのが昨晩のことです。

 

その後はナメクジは入って来ていません。

 

もう少し様子を見る必要がありますが、多分これで完璧でしょう。

 

やれやれ、という思いで主に感謝いたしました。

 

ところで・・・・

 

一つ不思議なことがありました。

 

それは、穴を塞ぐにつれて、家の中が暖かくなっていったのです。

 

今までは玄関から台所に続く廊下は冬はものすごく寒く、少しの間もそこにいられませんでした。

 

また、勝手口のある台所にはエアコンがあるのですが、冬はあまり暖まりませんでした。

 

今の借家は、外壁がモルタルでなく、また、古いので壁内や天井に断熱材が入っていません。

 

それで寒いのだろうと完全にあきらめていました。

 

ところが、ナメクジの侵入路と思われる室内の穴を徹底的に塞いだところ、何と暖かくなったことでしょう。

 

ウソのように暖かくなりました。

 

玄関からの通路もこの11月末に肌着のシャツ一枚でいられるくらい暖かくなりました。

 

勝手口のある台所も、エアコン暖房が効きすぎるくらい暖かくなりました。

 

これ、考えてみれば不思議なことでもなんでもなく、当たり前の結果なのですね。

 

なぜなら、外にいるナメクジが室内に入って来るということは、当然外と通じている穴が貫通して室内に開いているということですね。

 

そうしたら、その穴から入って来るのはナメクジだけではなくて、冬の寒い外気が24時間入り続けている、ということですから。

 

真冬に窓を1cmでも24時間開けていたらどれほど寒いことでしょう。

 

暖房なんか効きません。

 

でも、私は今まで、そう、昨日まで、知らずにそれと同じことをやっていたということです。

 

それが、今日からは、とても暖かく生活することができるようになりました。

 

これ、ナメクジさんが(突然敬称つき)しつこく、これでもか、これでもか、と入って来てくれたおかげなのです。

 

いや、そのように考えるのは実は正しくありません。

 

本当は、それこそが祈った結果与えられた主イエスキリストすなわち「神様の恵み」なのです。

 

神様がナメクジをしつこく、しつこく部屋の中に侵入させたのです。

 

気持ちが悪いから、私は何とかナメクジが入ってこないように頑張って侵入路を探した。

 

ちょっと見では絶対に見つけられないような場所まで徹底的に探したのは、ナメクジに入られるのがとてもイヤだったから。

 

でも、その結果、とても暖かい室内を得ることができた。

 

これで、今年の冬も、来年の冬も、いや、ずーっと冬の寒さを防ぐことができる。

 

それは健康と長寿を保つのにとても効果がある。

 

しかし、そんなすごい効果を得られたきっかけは神の送られた気持ち悪いナメクジ。

 

「神がいるなら、なんで、こんな気持ち悪いものをひっきりなしに私の家に入れるんですか!

 

神も仏もないじゃないですか!神を信じるなんてばかばかしい!」

 

・・・・・まだそう考えますか?

 

ここまでの話を聞かれたあなたは、もう、そうはお考えになりませんよね?

 

神の恵み、イエスキリストの愛、というのは、時として、こういうルートを通ります。

 

ナメクジを追い出しても追い出しても毎日入って来る。

 

そんな「イヤな出来事」を通して、神様は、イエス様は、私に、あなたに、永遠に続く素晴らしいプレゼントを与えようとされることがあるのです。

 

基本的に、キリスト信仰を持った人に不幸とか嫌な出来事は起こりません。

 

最初はそれが不幸な悲しみ、大変な失敗、辛い出来事としか思えないようなことであっても、そこには必ず神の恵み、イエスキリストの愛が隠されているからです。

 

絶望の極みの母の死。

 

でも、私の場合、それは、冒頭にいつも記している母の霊の永遠の存在を科学的に確信させてくれる契機となりました。

 

また、私自身の死後の霊の存在をも、キリスト教教理や聖書によってではなく、実際の体験として科学的実在として信じることができるようになりました。

 

どんな不幸が起ころうとも、神、イエスキリストは永遠にあなたの味方です。

 

それではまたお会い致しましょう。

お元気で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。

    

 私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。

  

 ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)

 

 https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be

  

 それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。

 

 その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、

 

「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画

(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!

   

 この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。

 

 また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。

 

 この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。

  

 これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。

 

  ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。

 

<本文> 「昇天したイエス・キリストの身体はどこに行ったのか?」

 

こんにちは。

 

コロナと寒さのダブルパンチの中、いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、前回のブログと同様、今日も「番外編」として、いつもの「永遠のいのち」についてではなく、

 

「昇天後のイエス・キリストの身体の行方

 

についてお話します。

 

クリスチャンならご存知だと思いますが、イエス・キリストは今から約2千年前、現在のイスラエルのエルサレムにある丘の上で十字架にかかって刑死しました。

 

享年三十三歳。

 

ところが・・・・彼は何とその三日後に復活したのです。

 

そして、復活後、イエス・キリストは四十日にわたって弟子たちの前に現れました。

 

幻ではないか?といぶかる弟子たちに対し、十字架にかかった時に傷つけられた自分の手や脇腹の傷を触らせました。本当の肉体でした。

 

更には、弟子が焼き魚を彼に一切れ差し上げると、彼らの前でそれを取って召し上がった、と聖書に書いてあります。

 

この現実のイエス・キリストの身体の復活の出来事が弟子たちを驚かせ、彼らがその驚きを周りの人々に伝え始めたことがキリスト教伝道の始まりでした。

 

しかし、復活したイエス・キリストは、やがて弟子たちと別れて行かれます。

 

その次第を聖書の「使徒の働き」から引用させていただきます。(以下新改訳聖書第三版より)

第1章8節~11節
 

『1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
 1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
 1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
 1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」』

 

この11節は、やがてイエス・キリストが再度この世にやって来られること(再臨といいます)も語っていますが、今は、筆者が赤字で強調した部分に注目して下さい。

 

「イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。」

 

これをイエス・キリストの「昇天」と言います。

 

クリスチャンが亡くなることを「召天」と言いますが、読みは同じですが、意味は違います。

 

「昇天」は身体の死を伴いません。

 

身体が生きたまま、天に「昇った」のです。

 

そして、マルコの福音書第16章19節にはこう記されています。


『16:19 主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。

 

つまり、昇天後、イエス・キリストは今に至るまで、神様のお隣りに座っておられる、と言うのです。

 

・・・・今まで私はこれらの記述に何の疑問も持っていませんでした。

 

しかし、今日、突然こんな疑問が湧いてきたのです。

 

神様は目に見えない方であり、そのおられる場所である「天国」もまた人間の目には見えない。

 

イエス・キリストが天国で神のおそばにおられるというのなら、その姿もまた見えないはずだ。

 

神は見えないが、その右に座しているイエス・キリストの身体は見える、というのは如何にもおかしい。

 

とすると、神の右におられるイエス・キリストは目に見えない霊となっているに違いない。

 

それが、この地上に人間となって下る前のイエス・キリストの姿そのものだったから。

 

・・・・しかし、そうだとすると、昇天したイエス・キリストの身体、肉体は一体どこに行ったのだろう?

 

先の聖書箇所によると、その身体は「雲に包まれて見えなくなった」とあり、また、「弟子たちは天を見つめていた」とか、「天に」という言葉が頻出しています。

 

これを見ると、イエス・キリストの身体は、この空のかなたに去って行った・・・・

 

そんな印象を受けますよね。

 

空、つまり大気圏にその身体が留まっているなら、人間はすでにその姿を発見しているでしょう。

 

空をどんどん上ってゆくと、やがて大気圏を抜けて、真っ暗な宇宙空間に入ります。

 

これまでにイエス・キリストの身体が宇宙空間で発見された、というニュースも聞いたことが無いので、もし宇宙空間にあるとするなら、現代の天文学の観測装置でも観測できないほど遠い宇宙空間でなければなりません。

 

でも、それは何のために?

 

イエス・キリストの身体が宇宙に去る理由なんか何もありません。

 

何のために、アンドロメダ星雲か何か、光の速さで飛んで行っても何億年もかかるような遠い所までイエス・キリストの身体が飛んで行くのでしょう?

 

そんなことに何の意味もない・・・・

 

それなら、イエス・キリストの身体は地上に、この私たちが住んでいる空間にあるはずだ・・・・

 

・・・・さて、そこまで考えた時に、私は慄然としたのです!

 

・・・それは、私たちクリスチャンが良く行う教会礼拝での儀式、「聖餐式」(せいさんしき)のことを思い出したからです。

 

カトリックでは「聖体拝領」と呼んでいますが、この儀式は、クリスチャンが、「イエス・キリストの血と身体」をいただく儀式なのです。

 

その儀式の中では、下記のような式文が牧師さんによって読まれます。

 

『わたしたちは、今、主イエス・キリストの定められた聖餐にあずかろうとしています。主は、わたしたちの罪のために十字架にかかり、その死によって世をあがない、わたしたちを招いて、功のないままに神の子とし、永遠のいのちを約束されました。その測ることのできない愛と恵とをわたしたちの心に刻みつけるために、主は聖餐を制定されました。「ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。」また、「主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招く」と勧められています。かえりみて、おのおのの罪を深く悔い改めなければなりません。このようにして信仰と真実とをもって聖餐にあずかりましょう。キリストのからだと血とにあずかるとき、キリストはわたしたちのうちに親しく臨んでおられます。また、この恵のしるしは、わたしたちすべてを主において一つにします。いま、み霊の神に支えられて、この聖餐にあずかり、ひたすら主につかえ、その戒めを守り、互いに愛しあいながら主の再び来たりたもう日を待ち望みたいと思います。』(赤字は筆者による)

 

このあと、「イエス・キリストの身体」をあらわすとされる小型のパンと、「イエス・キリストの血」をあらわすとされるぶどう酒またはぶどうジュースを注いだ小さなグラスが信者一人ひとりに配られ(分餐といいます)ます。

 

そしてそれを一斉に口に入れていただくのです。

 

私は、今まで何の疑問も持たず、何百回も、この儀式に参加して来ましたが、今日改めて考えると、あの昇天でイエス・キリストの身体が宇宙のかなたに飛び去ったと言うのなら、この地球上で行われるキリスト教会の聖餐式で、そのイエス・キリストの血と身体をいただく、ということと話が合わない!

 

私は突然、そう気がついたのです。

 

もちろん、神の力によって、そのような遠距離を一瞬にして飛び越え、イエス・キリストの血と身体を地球上の教会の聖餐式に届けることは可能でしょうが、そんな無駄なエネルギーを使ってまで、イエス・キリストの身体を遠い宇宙に置いておく合理的な理由がないでしょう。

 

もちろん、この聖餐式でのパンとぶどう酒(ジュース)は、イエス・キリストの血と身体を「象徴」しているだけだ、と考える教派もあり、一方、儀式の中でそれらがイエス・キリストの血と身体に変わる、と考える教派もあります。

 

でも、一番自然なのは、そのパンとぶどう酒(ジュース)の中に、「本当のイエス・キリストの血と身体が入っている」、という考え方ではないでしょうか?

 

それ、信者にとって最高!ですよね。

 

そのためには、イエス・キリストの昇天後のその身体は、何らかの形で、この地上の空間に存在し続けている、と考えるのが自然ではないでしょうか。

 

しかし、イエス・キリストの昇天後、その身体を目撃した人は一人もいません。

 

弟子パウロだけは、イエス・キリストの昇天後に、その声を聞いていますが、姿は見ていません。

 

地上空間に存在していても、誰も見たことがない・・・・

 

とすれば、イエス・キリストの身体は、昇天後、透明になったか、あるいは、目で見えないほど小さな粒子に分割されたか、あるいは、地球や宇宙など簡単に飲み込むほど巨大化し、今、私たちは、実はイエス・キリストの身体の中にいるのか・・・・・

 

つまり、「完全透明化」、「微小化」、「巨大化」のどれかでしょう。

 

ここで私が、イエス・キリストの身体、と言う時、それは、物質を想定しています。つまり、復活後、弟子のトマスが触ることが出来た、その物質としての肉体のことです。

 

「完全透明化」というのは物質の存在の否定になるので、この場合はあり得ないでしょう。

ここで「完全」と言っているのは、ガラスなどの「目に見える不完全な透明性」と区別するためです。

 

人間の身体という物質が、そのままの大きさで、完全に目に見えない透明性を獲得することはあり得ない、という話です。

 

ですから「透明化」は不適当としましょう。

 

では、「巨大化」はどうでしょう。

 

イエス・キリストは受肉、つまり普通のサイズの人間の肉体という形を取ってこの地上に来られたのですから、昇天後と言えども、その身体が普通の人間の大きさを超えて膨張変化する、というのはしっくり来ません。

 

それに、もしそうだったら、弟子たちは、お別れする時に、「イエス・キリストの身体がだんだん膨らみ、天を覆い、そしていつの間にか見えなくなった」、と言い伝えたでしょう。

 

でも、現実の別れの場面は上記に引用した聖書の「使徒のはたらき」第1章のとおりで、これとは違います。

 

ですから、「巨大化」も不適当でしょう。

 

さて、そうなると、「微小化」しか残っていませんね。

 

ところで、どこまで微小化すると人間の目に見えなくなるでしょう。

 

今流行している新型コロナウィルス。

 

私たちの肉眼では見えませんね。

 

このウィルスの大きさは直径が10万分の1cm(0.1μm)くらいだそうです。

 

電子顕微鏡では、1億分の1cmまで見ることが出来るので、コロナウィルスも見ることが出来ます。

 

イエス・キリストの身体が分割されて微小化した粒子になり、その一つ一つがウィルス並みの大きさだったとすると、電子顕微鏡で見ることができます。

 

その粒子単体は、同時に極めて軽くなるので、空中に分散するはずです。

 

しかも、その総数は非常に多くなります。

 

人間一人の体積は、60kgの体重の人で約0.063(立方メートル)です。

 

一方、コロナウィルス1個の体積は球だとすると52×10のマイナス23乗くらいになります。

 

イエス・キリストの体重が60kgだったとして、その身体がコロナウィルス並の大きさの粒子に分割されたとすると、その粒子の総数は1.15×10の20乗個、すなわち、だいたい1兆の1億倍の個数になります。(=1垓=10000京=1億兆)

 

この数の粒子が空中に浮遊していることになります。

 

とすると、電子顕微鏡でウィルスの観察機会が大変多くなっている昨今、その顕微鏡視野に見たこともない物質として、イエス・キリストの身体が観察される確率が高いでしょう。

 

でも、今の所、世界のどこからもそういう発見の報告はありません。

 

ということは、イエス・キリストの身体はウィルスよりももっともっと、電子顕微鏡でも見ることができないほど小さな粒子に分割されている、ということです。

 

ところで、現在、物質を構成する最小単位と考えられているのがレプトンとかクオークという、素粒子と呼ばれる物質ですが、これらの大きさは、1億分の1の、そのまた1億分の1cmと言われています。

 

レプトンの一種にニュートリノという素粒子があり、これは電気的に中性なので、他のどんな物質でも通り抜けることが出来るそうです。

 

現に、ニュートリノは地上の空間にも大量に存在していて、光速で飛び回っており、私たち人間の身体をも、1秒間に100兆個ものニュートリノが通り抜けているそうです。

 

この大きさでは、もちろん電子顕微鏡でも見えないし、あまりに小さく、電気を帯びていないので、人間の身体を始めとして他の物質と化学反応を起こさないために、通り抜けられても何の害もなく、もちろん、何も感じませんよね。

 

電子顕微鏡でも見えないのですが、1956年、アメリカの二人の物理学者によって実験によってニュートリノの存在が確認されました。

 

私は、イエス・キリストの昇天後の身体は、このニュートリノ並みかまたはそれ以下(現在、そのような物質は発見されていませんが)の大きさのおびただしい数の粒子に分割、分散されて、この地上空間に浮遊しているのではないか、と思うのです。

 

コロナウィルス並みの大きさに分割された場合でも上記のとおり、1億兆個でしたから、それより遥かに小さなニュートリノ並の大きさに分割されたら、イエス・キリストの身体の粒子の総数たるや、とてもではありませんが計算するのも億劫です。

 

・・・こうして、私は昇天したイエス・キリストの身体は、具体的には下記のような過程を経て、現在もこの地上に存在している、という結論に達しました。

 

1.昇天したイエス・キリストの身体は、空中のどこかで、霊が離れた後、極めて小さな粒子に分割された。

 

2.その粒子のサイズはウイルスなどよりはるかに小さい。ニュートリノなどの素粒子レベルか、またはそれより小さい。

 

3.分解された後のおびただしい数のイエス・キリストの身体の粒子は、この地球上の人間の生活空間に分散して存在、浮遊している。

 

4.しかし極小なので、人間の目にはまったく見えない。

 

5.キリスト教会で聖餐式を行うとき、信者に配られたパンとぶどう酒(ジュース)の中に、その粒子が自動的に飛び込む。神の力によればそんなことは容易であろう。

 

6.こうして、聖餐をいただくクリスチャンは、二千年前に昇天された紛れもないイエス・キリストの血と身体の一部を口に入れ、吸収することが出来る。

 

7.粒子は極めて小さく、その数は天文学的数字なので、世界中の沢山の教会で、何度聖餐式をやろうと、何億人のクリスチャンがいただこうと、ほぼ無限に供給され得る。

 

・・・・面白いでしょう?この理論。

 

聖餐式でパンとぶどう酒(ジュース)をいただくと、信仰的に何か違って来るのは、やはりイエス・キリストの血と身体が私たちの身体に現実に入るからではないか、と思うのです。

 

ただの象徴、というようなあまり意味のない儀式を二千年も続けているはずがないのです。

 

その現実性をこの理論で疎明してみました。(「疎明」という言葉は、「証明」ほどの詳細な証拠材料が揃っていない場合に使います。)

 

なお、余談ですが、聖書には、復活されたイエス・キリストが、弟子たちが集まっている家のドアを通り抜けて部屋に入ってこられた、という記事があります。

 

新約聖書ヨハネの福音書第20章19節【新改訳聖書第3版より】

 

『 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」』

 

ユダヤ人を恐れていたのですから、当然カンヌキか何かの鍵が締めてあったはずです。

 

しかも、誰かがノックしたので開けてみたらイエス・キリストであった、というのではないのです。

 

この書き方は明らかに、鍵をかけてしめてあった戸をイエス・キリストがいつの間にか通り抜けて部屋の中に入って来られた、という書き方です。

 

もう一箇所、上の記事の八日後に同じようなことがあったことが同福音書同章の24節から29節に書かれています。同じく引用します。

『 20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
 20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。
 20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。
 20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
 20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
 20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」』

 

イエス・キリストの復活を信じなかった弟子トマスは、このとき、いつの間にかドアを通り抜けて入ってこられたイエス・キリストの十字架刑によって出来た手とわきの傷を確認したのです。

 

つまり、ドアを通り抜けたのは、イエス・キリストの幻のような実態の無いものではなくて、実際に触ることが出来る肉体であったことが書かれているのです。

 

この不思議な出来事も、実は上記したイエス・キリストの身体の分割が一瞬に出来て、しかも
一瞬にして元に戻せるなら、可能なのです。

 

ドアを通り抜ける瞬間にそれを起こせば、ニュートリノが物質を通り抜けるように、イエス・キリストの身体は簡単にドアを通り抜けることが出来ますから。

 

・・・こんな事を考えるたびに思うことは、

 

「聖書に書いてある奇跡や不思議な事がだんだん新しい科学によって解釈できるようになりつつあるなあ」、ということです。

 

それは、「聖書が科学に近づいている」という意味ではなくて、逆に、

 

「科学がだんだん聖書に近づいて来ている」、

 

という意味です。

 

前ブログのパケット通信による身体の復活のお話でも触れましたが、聖書こそ最先端の科学である、というのが私の持論です。

 

人間の科学ではまだまだわからないことが沢山あります。

 

聖書の内容を「非科学的だ」と即断して顧みないのはもったいないです。

 

聖書の内容には信じ難いことが多いですが、それを信じた上で、では、どうすれば、あるいはどう考えればそんなことが出来るのだろうか、と考えを煮詰めて行く方が、人間の科学は進歩すると信じます。

 

 

それでは、またお会い致しましょう。

お元気で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。

    

 私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。

  

 ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)

 

 https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be

  

 それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。

 

 その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、

 

「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画

(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!

   

 この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。

 

 また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。

 

 この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。

  

 これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。

 

  ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。

 

<本文> 「神様はパケット通信によって肉体を復活させる」

 

こんにちは。

 

寒い中、いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、いつもは「永遠のいのち」つまり「死者の霊の永遠性」についてお話していますが、

 

今日は「番外編」として、

 

「死者の身体の復活科学的に可能であること」

 

についてお話します。

 

実は、この「霊の永遠のいのち」「身体のよみがえり」のどちらも、キリスト教の重要教理なのです。

 

眼に見えない霊の存在ならまだ信じられそうですが、眼に見える肉体、骨となった肉体が元通りに復活する、などということは到底信じられませんよね。

 

「あり得ない!」 

 

「一宗教の非科学的な妄想だ!」

 

そう確信しておられるでしょうね。

 

でも、今日のこのブログを読まれた後は、きっとそれが信じられるようになると思います。

 

と言って、詭弁を使ったり、煙に巻くのではありません。

 

それをちゃんとした科学的根拠によってご説明するつもりですので、少々長いですが、お付き合い下さいませ。

 

しかも!

 

今日のブログを最後まで読んで頂くと、下記のメリットが得られます!

 

1.「イースター」(復活祭)はいつ行われて、どうしてお祝いされるのかが分かります。

 

2.クリスチャンでも分かりにくい「キリスト両性論」(イエス・キリストは神でもあり、人間でもあった)、という訳の分からない説が理解できるようになります。

 

3,「デジタル」という言葉の意味と、インターネットの通信の仕組み(パケット通信)が小学生にも分かるように解説されています。

 

さて、それには、まず、「人間の死者の復活」のお話の前に、「イエス・キリストの復活」のお話をしなければなりません。

 

1.イースター(復活祭)は何をお祝いするのか?

 

キリスト教においては、イエス・キリストの誕生を「クリスマス」(降誕祭)として祝い、イエス・キリストの復活を「イースター」(復活祭)として祝います。

 

これらは世界中のクリスチャン共通のお祝いです。

 

今年のクリスマスは昨日終わりましたが、クリスマスは、神の子イエス・キリストがこの世にお生まれになったことをお祝いする日ですね。

 

ではイースターは何をお祝いする日なのでしょうか?

 

もちろん、「復活」祭ですから、刑死したイエス・キリストが「復活」した、つまり、生き返ったことをお祝いするのですが、

 

なぜ、二千年も前にイエス・キリストが生き返ったことを、今更、世界中がお祝いするのでしょうか?

 

亡くなった方が生き返ったのを家族や知人が喜びお祝いするのは当然です。

 

ですから、当時イエス・キリストの弟子とか近親者がお祝いした、と言うなら分かりますが、それから二千年も経った現在、しかも復活の起こったエルサレムから遠く離れた世界各地でお祝いしているのには、何か特別な理由がありそうです。

 

それをお話しする前に、イースターの「日取り」についてお話します。

 

日本では、あまり馴染みのないイースターですが、世界では著名なお祝いです。

 

クリスマスは毎年12月25日と決まっていますが、実はイースターは日にちが毎年異なるのです。

 

イースターは、プロテスタントやカトリックでは、「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」と決められていて、来年2022年は4月17日です。(正教会は決め方が違い、来年は4月24日になります。)

 

ですから、クリスマスは曜日が決まっていませんが、イースターは必ず「日曜日」になります。

 

イエス・キリストは、13日の金曜日に十字架で磔(はりつけ)にされて死なれた後、三日目の「日曜日」に復活されたことを記念しているからです。

 

さらに、殆どのキリスト教会が毎週「日曜日」に礼拝を行うのも、このイエス・キリストが復活した曜日の記念なのです。

 

ちなみに、日本でも、明治9年から「日曜日」が休日となりましたが、それはキリスト教国である欧米諸国との交易上の都合であったようです。

 

というのは、欧米諸国では、日曜日はほとんどの人が教会礼拝に行くので休日になっているため、日本に貿易の仕事でやって来た欧米人も日曜日には休むわけです。

 

そうすると取引相手である日本人は日曜日には仕事にならず、といって、訪日した欧米人が仕事をする別の曜日には、休むわけに行かなくなってしまうわけです。

 

この不便を解消するために、明治政府が、明治9年に太政官布告という法律で日曜日を休日と決めたのです。

 

・・・・こういうわけですから、現在の私たちが、毎週日曜日が休日となっているのは、実は、「イエス・キリストの復活が日曜日だったから」なのです。

 

イエス・キリストの復活がもし水曜日だったら、現在の日本でも毎週水曜日が休日になっていたことでしょう。

 

日本人も、思わぬ身近な所で、イエス・キリストの復活の影響を受けていることに驚かれたことでしょう。

 

・・・・・さて、それはともかく、

 

このように日取りが定められている「イースター」(復活祭)は、その名のとおり、

 

「イエス・キリストの復活」をお祝いする日です。

 

イエス・キリストは、ユダヤ教の祭司長、律法学者たちによって非難され、西暦30年頃にエルサレムで死刑に処せられ、墓に葬られました。

 

しかし、イエス・キリストは三日目の日曜日に復活し、葬られていた墓から忽然といなくなりました。

 

その直後、弟子たちなど多くの人々の前に、元通りの身体で現れたのです。

 

「イエス・キリストの復活」というのは、もちろん、その「死んだ身体が蘇生した」、ということです。

 

「死人が生き返った」

 

ということです。

 

単にその「」が存続している、というのではなく、

 

その「肉体」も元通りになった、ということです。

 

実は、聖書には、イエス・キリストだけではなく、イエス・キリストやその弟子たちが、死んだ人間を生き返らせた奇跡が数多く書かれています。

 

しかし、「死者の復活」なんて、普通、信じられませんよね。

 

ですから、それを聞いた人は、

 

「その人は死んだように見えただけで、実は仮死状態だったのだろう、それが何かのきっかけで息を吹き返しただけに違いない」

 

とか、あるいは、

 

「まったくの作り話だろう」

 

と考えます。

 

また、イエス・キリストの場合は、「神であるイエス・キリストの身体は幻(まぼろし)のようなもので、実際の肉体ではなかった」、という「キリスト仮現論(かげんろん)」も現れました。

 

死んだのはイエス・キリストの身体の「幻」に過ぎないから、いくらでもまた現れることができる、と言う理論です。

 

この

 

「キリスト仮現論」

 

は、正統的なキリスト教では「否定」します。

 

それを唱える者は異端とされます。

 

正統的なキリスト教の教理では、

 

「イエス・キリストは、真正の神でもあり、また同時に、真正の人間でもあった(人間としての肉体を持っていた)」、

 

すなわち、

 

「イエス・キリストは神でもあり、人でもあった」

 

「イエス・キリストは神性と人性の両方を併せ持っていた」

 

という、一見、訳が分からない「キリスト両性論」が正しいとされています。

 

なぜかと言うと、この「キリスト両性論」を取り入れないと、キリスト教の重大教理である、

 

「イエス・キリストの贖(あがな)い」( ※贖いとは、代価を払って買い取ること。イエス・キリストがご自分のいのちを代価として神に差し出し、私達の神に対する不信の罪を赦してもらったことを指す。)、

 

すなわち、

 

「イエス・キリストの十字架上の死という身代わりによる人間の悩みの救い」

 

が達成されないからです。

 

それは以下の理由によります。

 

1.救い主は「神」でなければならない。

 

神でもないタダの一人の人間が、「他の人間の身代わりになる」、と言って死んだところで、他の人間の悩み苦しみが救われるわけがありませんよね。常識で分かります。

 

昔は日本でも、「人身御供」(ひとみごくう)という野蛮な風習がありました。

 

村に川の氾濫で洪水が起こるのを予防するために、洪水を起こすと考えられていた水神や龍神などへのお供えとして、若い娘などを選び、「人身御供」として殺したのです。

 

人間が一人殺されれば洪水が予防できる、なんてメチャクチャですよね。

 

人間を救うために身代わりとなって死ぬ救い主は、人間ではなくて、「神」でなければなりません。

 

従って、

 

救い主の条件1.イエス・キリストが救い主であるためには、真正の「神」でなければならない。

 

この条件を覚えておいて下さい。

 

2.救い主は自ら犠牲を払わなければならない。

 

一方、神様は、人間の犯す罪に対して眼をつぶる方ではありません。

 

旧約聖書をひもとけば、神様の命令を守れなかったユダヤの民が、神様の罰を受けて、のたうち回る様子が、これでもか、これでもか、というほど沢山書かれています。

 

しかし、あまりにご自分の命令を守れない人間を哀れに思われた神様は、ご自分の独り子、イエス・キリストに人間の肉体を与えて、この世に遣わされました。

 

それがキリスト降誕、クリスマスの出来事です。

 

しかし、ただ遣わしただけでは、人間を救うことは出来ません。

 

神は罪に対して厳罰を持って臨む方だからです。

 

神は死刑さえも容赦されません。

 

旧約聖書には、沢山の人間が神によって死刑にされたことが書かれています。

 

ですから、神様が、罪にまみれた人間を死刑にせずに赦すためには、それ相応の「犠牲」を要求するのは当然でしょう。

 

さて、ここに、もし、「キリスト仮現論」のように、神ではあるけれども人間の本当の肉体を持っていなくて、単に「人間の身体に見える「幻」(まぼろし)を持っている神」がいたとしましょう。

 

その「神の幻」を十字架で死刑にしたら、罪にまみれた人間を死刑にする代わりになりますか?

 

「幻」にとっては、死刑なんて痛くもかゆくもありませんよね。

 

ということは、何の「犠牲」も払っていないことになります。

 

一方、「人間の肉体を持たない神」の本体そのものを死刑にしたところで、スーパーパワーを持つ神にとって、人間が執行する死刑などやはり痛くもかゆくもありません。

 

ここでもやはり、「犠牲」は払われていません。

 

結局、神様にとって、人間の死刑の身代わりになる者は、「死ぬことを恐れ苦しむ」という「犠牲」を払える者、つまり本当の人間でなければなりません。

 

従って、

 

救い主の条件2.イエス・キリストが救い主であるためには、真正の「人間」でなければならない。

 

ちなみに、その身代わりになる真正の「人間」は、その者自身が罪を犯していないことが必要です。

 

刑務所の中で、すでに服役している囚人が、他の囚人の身代わりになることはできません。

 

人間の両親から生まれた人間は、残念ながら生まれつき「罪人」である、というのがキリスト教の教理です。

 

その「罪」とは、「神を信じない、神の言うことを聞かない」という罪です。

 

ですから、人間の身代わりとなる救い主は、「人間の両親から生まれた人間」、すなわち罪人ではダメなのです。

 

これが、人間としてのイエス・キリストが、神様の「聖霊」によって身ごもった処女マリアから生まれた理由です。

 

母親マリアは人間でしたが、父親はマリアの夫のヨセフではなく、「聖霊」だったのです。

 

その結果、イエス・キリストは人間でもありながら、「罪人」ではありませんでした。

 

・・・・さて、本題に戻ります。

 

上記の救い主の条件1と2は互いに明らかに矛盾していますね。

 

もう一度並べて書きます。

 

条件1.イエス・キリストが救い主であるためには、真正の「神」でなければならない。

 

条件2.イエス・キリストが救い主であるためには、真正の「人間」でなければならない。

 

条件1では、「救い主は人間ではダメだ、神でなければならない」、と言っておきながら、

 

条件2では、「救い主は神ではダメだ、人間でなければならない」、と言っているのですから、この二つの条件は論理的に矛盾しています。

 

ところが、条件1、2とも、その説明をお読みになったあなたは、その条件が確かに二つとも必要だ、ということはご納得されると思います。

 

ですから、矛盾はしていても、

 

イエス・キリストが十字架上で人間の罪の身代わりとなって死に、その死によって人間が究極的に救われるためには、どうしても、

 

イエス・キリストは真の神であり、かつ、「幻」ではない真の人間でもなければならないのです。

 

救い主イエス・キリストは「神であり、同時に人でもなければならない」のです。

 

そんな矛盾した存在は常識では考えられませんよね。

 

「これは木であり、同時に鉄でもある」

 

なんて言っているのと同じですものね。

 

しかし、神様の世界は人間の常識で測り切れるものではありません。

 

人間の理屈で反論することは控えるべきです。

 

それが「神を信じる」ということなのです。

 

自分が納得できる事だけを信じる、というのは、「自分を信じている」にすぎません。

 

・・・・・さて、ともかく、「真の人間」でもあったイエス・キリストが、死を恐れながら死刑になって死んだ後、その身体とともに生き返った、「復活」した、という事実は、

 

私たち同じ「真の人間」の「身体」も、死後に「復活」出来る、ということを証明してくれたのです。

 

「いや、イエス・キリストの父親は人間ではなくて「聖霊」で、イエス・キリストは特別な例外的な人間だったから復活できたのではないのか?」

 

「私達、普通の人間の両親から生まれた人間は復活できないのではないか?」

 

という疑問が湧くと思います。

 

この点についても、上記した「犠牲」の有無を考えるべきです。

 

つまり、特別な例外的な人間で、ただ一人だけ復活できる特典を持っているとするなら、その死は「犠牲」にはならない、ということです。

 

そうだとすると、イエス・キリストは救い主ではなくなってしまうのです。

 

さて、すでに私のブログで、人間の死後の「霊」の永遠の存続についてはお話して来ました。

 

しかし、「肉体の復活」についてはお話したことはこれまでありませんでした。

 

ところが、今日、最初にお話したように、この「肉体の復活、身体のよみがえり」は、キリスト教では「霊の永遠のいのち」と並んで、重要な教理の一つなのです。

 

それは「永遠のいのち」と同様に、「死の克服」、「死に対する勝利」になるからです。

 

イエス・キリストの復活によって、私たち人間も、死後に自分の肉体が復活することを初めて知ったのです。

 

それは必ずやって来る死の恐怖にさらされている私達人間にとって、とても嬉しいことですね。

 

私達の霊が永遠なだけではなく、私達の肉体もまた元通りに復活する!

 

そのことがイエス・キリストの復活によって証明された!

 

だから、イエス・キリストが復活されたことをお祝いするのです。

 

それがイースター、復活祭なのです。

 

2.「復活」の科学的根拠

 

さて、とは言うものの、人間でもあったイエス・キリストや他の人間が生き返った、復活した、という話は、やはり信じられませんよね。

 

確かに、「仮死状態」だったのでは?、と思いたくなります。

 

ところが、聖書には、仮死状態どころか、骨になった人間が生き返る場面が生き生きと詳しく書かれた箇所があります。やや長いですが、新改訳聖書第三版から引用させていただきます。引用文中の「私」というのは、この書の題名にもなっているエゼキエルという名の預言者のことです。

 

エゼキエル書第37章1~14節

『 37:1 【主】の御手が私の上にあり、【主】の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。
 37:2 主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。
 37:3 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」
 37:4 主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。【主】のことばを聞け。
 37:5 神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。
 37:6 わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが【主】であることを知ろう。」
 37:7 私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。
 37:8 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。
 37:9 そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」
 37:10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。』

 

・・・・・この中では、「肉体が骨から復活してゆく過程」が細かく描かれていますね。

 

もちろん、以前から私がご説明している通り、「生命は神がその息を人間の肉体に吹き入れなければ発生しない」、ということもこの聖書箇所の中に書かれていますが、

 

今日のブログの主題は、「神様は骨からでも人間の肉体を復活させることがお出来になる」、という話なので、その点に着目して今の聖書箇所を要約すると、

 

1.バラバラになった骨と骨とがつながる

 

2.骨の上に筋肉が付く

 

3.筋肉の上に皮膚が付く

 

ということが書いてあります。

 

もちろん、その過程で、腱や靭帯、内臓、血管、リンパ管、神経、脳、などなども次々に順番どおり出来ていったはずです。

 

こうして、生きていた時そのままの肉体が復元されたのです。

 

「そんなことあり得ない!」

 

誰でもそう思いますよね。

 

しかし、以下で、それが科学的にあり得る、という説明をして行きます。

 

また馬鹿なことを始めたぞ・・・・

 

・・・・そう思われると思います。

 

私も、あの母のお墓(教会の共同墓地)の中にある母の骨が、どうやって元の母の身体に戻れるのだろうか、と考え込んでしまいました。

 

私も、実は、上記のエゼキエル書の記述を心底からは信じられていなかったわけですね。

 

聖書に書かれているんだから、信じられないことも起こるはずだ、とは思うものの、やはり無理なんじゃないか、と思ってしまいます。

 

・・・・・しかし、

 

昨日、ふとこんなことを思ったのです。

 

「パケット通信の仕組みを使えば、神様なら容易にできるぞ」

 

ここで、ご存じない方のために、「パケット通信」というものについて、ちょっと説明させていただきます。

 

パケットというのは、「小包」のことです。

 

「パケット通信」という技術は、インターネットなどの「デジタル通信」で使われています。

 

そこで、まず、「デジタル通信」についてご説明しておきます。

 

デジタル通信とは

 

「デジタル通信」では、まず、送りたい文字、音声、画像、映像などの人間の眼や耳で捉えられる情報(これを「アナログ信号」といいます。たとえば、音声の波形、文字の形、画像や映像を構成する画素という粒の明暗や色など)を、

 

「0と1の複数桁(けた)の組み合わせ」だけからなる数字の列(これを「デジタル信号」といいます)に変えます。

 

「桁(けた)」のことを英語で「ディジットdigit」というので、「デジタルdigital」と言うのです。

 

例えば英字の「A」は、七桁の「1000001」で表します。

 

形を持ったアナログ信号の「A」は、形を持たないデジタル信号では「1000001」になるわけですね。

 

そして、デジタル信号で使われる数字は1と0の二種類しかないので、電気のスイッチのONとOFFで表せます。

 

電気を入れたり切ったりすれば、この数字の情報を電線で送れますね。

 

例えば、受信する方で電線に「電球」をつないでおいて、

 

電球が光ったら1、一定時間消えていると0を表すと決めておけば、

 

「光った、消えてる、消えてる、消えてる、消えてる、消えてる、光った」

 

という現象を見たら、それは「1000001」なので、「A」という文字を送ってきたんだな、と分かりますね。

 

実際には、パソコンの内部で、コンピューターがその電気の入り切り現象を確認して、受信者のパソコン画面に「A」と変換して表示してくれるわけです。

 

どの情報をどの数字列と決めるかは、国際的に「Unicode」という共通基準が定められています。

 

これがデジタル通信の仕組みです。

 

「A」は7桁で表せましたが、1と0の組み合わせの桁数をもっと増やせば、それだけ沢山の情報をダブらずに送れます。

 

一つの情報単位、例えば[A」という文字に対しては、ただ一つの1と0の組み合わせが対応していなければなりません。一対一でなければいけないのです。

 

二つの情報単位に対して、同じ1と0の組み合わせが対応したり、一つの情報単位に対して、二つの1と0の組み合わせが対応してしまうと、どちらの情報なのか分からなくなってしまったり、無駄が出てしまうからです。

 

現在のパソコンの主流は64ビット(ビットは二進数の一桁のこと)なので、あらゆるアナログ情報を1と0の「64桁」の数字で表して動いています。

 

たとえば、「1000100111000111110000・・・・・・000111」などのように64桁の1と0の組み合わせ(数学的に厳密に言えば順列)が使えるので、極めて多数の情報を一対一で定義して、ダブらせずに扱えるわけです。

 

この数は、すなわち2の64乗で、18446744073709551616になります。約1844京です。京は兆の上の単位です。

 

これだけ膨大な情報を扱えるようになったので、デジタル画像や映像は4Kとか8Kというような極めて高精細な表示が出来るようになったのです。

 

パケット通信の仕組み

 

さて、インターネットでは、このような「デジタル通信」が行われているのですが、さらに多数の利用者があまり待たずに同時にインターネットが使えるように、「パケット通信」という技術が使われています

 

「パケット通信」では、このようなデジタル信号、つまり1と0の数字で表された情報を、まず、情報単位ごとに細かく切り分けます。

 

この切り分けられた一つ一つを「パケット(packet)」(英語で「小包(こづつみ)」の意味です)と呼びます。

 

例えば、Aさんが「おはよう」という文字をインターネットやメールでBさんに送る場合のことを考えて見ましょう。

 

Aさんは、その情報を送るための機械、すなわち自分のパソコンやスマホに「おはよう」と入力し、相手先を「Bさん」と入力します。

 

Aさんのパソコンやスマホは、「おはよう」を「お」、「は」、「よ」、「う」の4つに切り分けます。そして、それぞれの文字の頭に下記のように記号を付けます。

 

「AB1お」、「AB2は」、「AB3よ」、「AB4う」

 

つまり、この情報の「送り主」はAさん、「お届け先」はBさんで、本文の「文字の並び順」は数字の1~4の順番です、という意味を表す記号を、全ての切り分けた文字にそれぞれ付けるのです。

 

「おはよう」は4つのパケットに切り分けられて、さらに送り主・お届け先・並び順の記号がその一つひとつに付けられました。

 

そして、これらの記号と文字すべてをデジタル信号(1と0からなる数字列)に変換し、さらに電気信号に変えて、有線または無線でインターネット会社のウェブサーバーという大型コンピュータに送ります。

 

ウェブサーバーは世界中の他のウェブサーバーと接続されていて、さらにそこから世界中のパソコンに「クモの巣」のようにつながっています。

 

もともと「ウェブ」というのは、「コブウェブcobweb」すなわち「クモの巣」から来ている用語です。

 

さて、インターネットの回線は有線でも無線でも、一人の人が専用で使えるわけではありません。

 

沢山の人が共同で使用していますね。

 

しかも、一人が使い終わってから次の人、というような順番待ちもしていません。

 

それをやっていたら、いつになっても自分の情報を送れないようなことが起きます。

 

それを避けるために、沢山の人が送る情報のパケット(小包)を全く順不同に混ぜてしまい、その混ざったまま、どんどん送ります。

 

例えば、Aさん以外の他の人、CさんがDさんに、「いえい」という文字情報を、Aさんとほぼ同時に、インターネットなりメールなりで送ったとします。

 

そのパケットは「CD1い」、「CD2え」、「CD3い」ですね。

 

すると、共同のインターネット回線上では、これらのAさんの送った情報もCさんの送った情報も、情け容赦無く勝手に混合されて、例えば、

 

「CD3いAB2はCD2えAB3よCD1いAB1おAB4う」

 

などとして送られます。

 

実際にはもっともっと多くの人が同時にインターネットやメールを使用して情報を送っていますから、回線上のパケットの混合はもっともっと込み入っています。

 

しかも、クモの巣状の回線が枝分かれしているところで、同じ人、例えばAさんが送った4つのパケットが互いに離れ離れになり、別のルートで、別の回線の方に混合して送られるということも起きます。

 

ところが、ところが・・・・

 

BさんもDさんも、しっかりと、それぞれAさんからとCさんからの情報を、「おはよう」と「いえい」として間違いなく受け取ることができます。

 

遅れも、他の要因がなければそれほどありません。

 

もう、お分かりだと思いますが、分けられた全てのパケットには「お届け先」と「文字の並び順」も付けられていますから、個々のパケットがどういう順番で、どういうルートで送られようと、しっかりと正しいお届け先に、最初に付けた順番通りに再構成されて届くわけです。

 

もちろん、その再構成作業はお届け先である受信者のパソコンやスマホがやっているのです。

 

電気の伝わる速度は1秒間に地球を七周半する秒速約30万キロメートルですから、地球の反対側にいる人にでも、一瞬で届くわけです。

 

実にうまく出来た仕組みですね。

 

でも、人間のこのような素晴らしい科学技術というものは、実は神様が元々持っておられる能力を少しづつ人間が後追いで発見しているにすぎません。

 

つまり、パケット通信も、神様が元々持っておられた技術で、神様が本家本元ということです。

 

上記のエゼキエル書の、「骨に筋肉、皮膚を付けて元の肉体に戻す」などという離れ業、あり得ない業も、このパケット通信の仕組みを使えば神様にとっては難しいことではありません。

 

その人間の身体の全ての細胞やエネルギーに、生前の段階で、「所有者名」と「身体の中の位置や重ねられる順番(復元順番)の記号」が神様によって付けられていたとしたら、その復元、再構成なんて、人間同士のパケット通信のように、実に簡単なことなのです。

 

皮膚や筋肉なども、火葬時に煙や熱に変わったとしても、その煙の粒子や熱エネルギーにも、その記号が継承されて付いている。

 

もちろん、お墓に埋葬された骨にも、その記号が付いている。

 

ですから、お骨を別のお墓にも分けて埋葬する「分骨」も、このことを考えれば、復活するときに何の問題も起こりません。

 

復活の時、お骨をお墓の石の蓋を通して通過させるには、神様が一旦、お骨を石の分子より小さく分割してパケット情報を付けてから、石を通過させて吸い上げ、その後に再構成すればいいだけの話です。

 

物質が他の物質を通り抜ける。

 

この奇跡も、神様なら、パケット通信方式で簡単に出来るのです。

 

この、私が今回勝手に考えた「人体に付いているパケット情報」という考えは、一見、人間の全ての細胞に存在するDNAや遺伝子情報と似ていますが、形態の変化後の煙粒子や熱エネルギーにまで情報が付いているという点で若干異なります。

 

さて、私の前のブログ「エネルギー保存の法則が証明する永遠のいのち」でお話しましたが、亡くなった人間の肉体を構成していた物質もエネルギーも、よほどの神様への意図的な反逆者でもない限り、この地上や宇宙空間から消えることはないだろう、と思います。

 

そして、「エネルギー保存の法則」は、霊だけではなく、もちろん肉体にも適用されますから、

 

亡くなった肉体が火葬され埋葬され、形は骨や煙の粒子や熱エネルギーに変わって、あちこちバラバラに散らばっていたとしても、それら肉体を構成していた全ての要素(パケット)は、この宇宙(地球上や空間)のどこかに存在し続けているわけです。

 

しかも、それら全てに「元の所有者名」(お届け先)と「復元順番」の情報(パケット情報)が付いている(もちろん、神様が付けたのですが)とするなら、

 

神様は、散らばったその人の肉体の要素(パケット)全てを、地上や空間から、瞬時に集めて来て、元のその人の身体に復元することなど、実に容易にお出来になるはずです。

 

現代、パケット通信によって、私たちは、地球の反対側に住んでいる人が発信した情報が細かく切り分けられ、必要な記号を付加された上で、他のおびただしい人々の発信情報と通信

 

ネットワーク上で混合され、多数のルートで別々に運ばれるにも関わらず、瞬時にその情報を、自分のパソコンやスマホの画面で完全に正しく再現して見ることが出来ています。

 

肉体の復活、身体のよみがえりも、この方法を使えば簡単だと思いませんか?

 

肉体の部分部分が形を変えて、地球上、あるいは宇宙空間のあちこちに散らばっていようとも、全てにパケット情報が付いているので、瞬時に元の身体に再構成される。

 

つまり、肉体が復活する。

 

一見不可能のように見えますが、今日のブログの題名のように、

 

神様はパケット通信によって肉体を復活させる

 

のです。

 

もちろん、それは神様だけがお出来になるのであって、人間には出来ません。

 

イエス・キリストの再臨の時には、それまでに亡くなった全ての人々の肉体がパケット通信によって復元され、永遠のいのちを持って生きているその人々の霊とが再合体されて、元通りの霊と肉を持って完全復活します。

 

神様のご意思によって宇宙外に追放された悪人の霊も、神様が宇宙内の地球上に呼び戻し、パケット通信によって復元した肉体と再合体させてから、「最後の審判」を受けさせられることになります。

 

イエス・キリストの再臨の時、私たちが生きていようと死んでいようと、私たちは亡くなった愛する家族や知人と、生きていた時と同じように、顔と姿を見ながら会うことができるのです。

 

抱きしめることも、頬ずりすることもできるのです!

 

何と嬉しいことではありませんか!

 

恵み深い神様によって創られた私たち。

 

その私たちの神様の御心に叶う切なる欲求が、いつまでも叶えられずに放置されることなどあり得ないのです。

 

でも、それはいつ?

 

待ち遠しいですが、いつとは聖書にも書いてありません。

 

しかし、新約聖書の最終章、ヨハネの黙示録第22章12節冒頭にはこういうイエス・キリストのお約束が明記されています。

 

『見よ。わたしはすぐに来る』

 

・・・・それは明日かもしれません。

 

 

それでは、またお会い致しましょう。

お元気で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。

    

 私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。

  

 ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)

 

 https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be

  

 それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。

 

 その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、

 

「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画

(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!

   

 この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。

 

 また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。

 

 この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。

  

 これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。

 

  ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。

 

<本文> 「言葉は愛を伝えるためのもの

 

もし、人間がこの世にたった一人しか存在していないとしたら、どういうことが起こるでしょうか?

 

子孫が出来ない。

 

人類は絶滅する。

 

・・・・・この心配は、聖書を信じるなら、必ずしも当たっていません。

 

というのは、神様は土地のチリから人間の肉体を創り、その鼻に神様の息を吹き入れることによって、人間を新たに創り出すことがお出来になるからです。

 

最初の人間、男性のアダムはそうして創られたのです。

 

ですから、この世に人間が一人しかいなくなったら、神様がさらに他の人間をお創りになるかもしれませんから、人類の絶滅が必ず起こるというわけではありません。

 

しかし、もしこの世にたった一人の人間しかいなければ、必ず起こることが一つあります。

 

それは、

 

「人間同士で使う言葉が要らなくなる」

 

ということです。

 

神様はご自身が、元から言葉を持って使っておられました。

 

この世に光が出来たのは、神様が

 

「光よ。あれ。」

 

と仰せられたからだ、と聖書創世記第1章3節に書いてあります。

 

その後に、植物や動物も、神様が「生ぜよ、芽生えさせよ、群がれ」などという言葉を使った命令によってお創りになられました。

 

眼に見えない神様は言葉というエネルギーそのものと言ってもよいでしょう。

 

イエス・キリストも言葉でもあったことがヨハネの福音書第1章1節に書いてあります。


『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』

 

キリスト教の聖書も「言葉」で書かれています。

 

新約聖書は今から1,900年前頃に、ギリシャ語(現代ギリシャ語とやや異なる)で書かれ、旧約聖書は今から3,500年前~2,400年前頃に、主にヘブライ語(ヘブル語ともいう)で書かれました。

 

それが、今では、私たちの日本語のみならず、世界の殆どの言語に翻訳され出版されています。

 

すでに、2,500を超える言語にその一部なりとも翻訳され、700を超える言語に聖書全巻(旧約聖書39巻、新約聖書27巻、合計66巻)が翻訳されています。

 

そして、聖書を所有している人は、世界中で8億人以上と言われています。

 

それは、世界人口の32%を占める24億人という膨大なクリスチャン人口から納得できます。

 

さて、元々、神様が話されていた言語は一つだけでした。

 

神様がアダムの肋骨からエバ(イブとも言う)を創られた後、アダムとその妻エバは、その神様の言語を、子が親の言葉を習うように習い覚えたでしょう。

 

そして、その言葉を使って神様や配偶者と、あれこれ会話をしています。

 

ところが、アダムとエバの子から生まれた人間の子孫たちが増えるにつれ、彼らは神様をないがしろにするようになりました。

 

そして、神様は、『地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧に』なり、『地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められ』(創世記第6章抜粋【新改訳聖書第三版】より)、

 

ついに、怒られて、地の全土に大洪水を起こし、唯一、神様と歩んでいた敬虔な人間ノアとその家族、および、あらゆる種類の動物ひとつがい(種類によっては七つがい)だけを巨大な「箱舟」に乗せて救い、他の人間や動物をすべて滅ぼしました。

 

これが「ノアの箱舟」の話です。

 

大洪水の後、ノアの子孫が沢山生まれ、繁栄しました。

 

しかし、やがてその子孫たちも神様をないがしろにし、自分たちの知恵や文化を誇り、天にも届くような高い塔を建築し出しました。(現代のどこかの国に似ているような・・・)

 

神様はこの人間の奢りと暴走を快く思われず、人間たちが一つの言葉で統一されているのがその原因だとお考えになり、

 

『彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう』(創世記第11章7節)

 

と仰って、言葉を混乱させて、人々を地の全面に散らしました。

 

有名な「バベルの塔」の話です。

 

これが、世界に沢山の種類の言葉が存在し、互いに翻訳しなければ通じなくなった理由なのです。

 

・・・・さて、それはともかく、当初、アダムだけしかいなければ、人間同士の言葉は要らなかったでしょう。

 

アダムに妻エバが創られて与えられたから、二人の間で意思を伝えるために言葉が必要となり、神様の言葉を習ったのでしょう。

 

神様との対話はともかくとして、人間が一人しかいないのなら、言葉は不要ですよね。

 

そう、言葉は「対話」、つまり、二人以上の人間の間での意思疎通のためにあるのです。

 

そして、「意思疎通」というのは、実は人間と人間の間の「霊の交流」なのです。

 

「意思」とひとくくりにすると分かりにくいですが、それは「心」、「理性」、「感情」などから成るもので、人間が持っている「霊」の機能の一部のことです。(霊の機能には、他にも超能力などもあるようです。)

 

言葉を交わす、ということは、実は人間が自分の心や理性や感情を相手に伝え合う、ということに他なりません。

 

人間の言葉というのは、自分の声帯を震わせて声という「音波」を発生させて、相手の耳の鼓膜を振動させる、という単なる物理現象ではないのです。

 

そういう単なる物理現象の奥に、人間の言葉には、互いの心や理性や感情という霊が不思議なことに自動的に織り込まれるのです。

 

言葉を交わすことは霊を交わすこと。

 

だからこそ、良くも悪くも、言葉には人を動かす力があるのです。

 

悪い言葉を吐かれると一生恨んだり、逆に優しい言葉をかけられると一生慕ったりするのです。

 

このように、言葉は霊の交流の手段なので、この世に一人しか存在しないなら、霊を交流する相手がいないので、言葉も不要になるのです。

 

しかし、二人以上の人間がいるなら、霊の交流のために、言葉が必要になります。

 

人間の幼児は成長とともに、徐々に言葉を覚えて行きますが、

 

言葉を覚えるということは、実は単語を覚えるとか文法を覚えるとか構文を覚えることではなくて霊の交流の「しかた」を学ぶということなのです。

 

子供が言葉を覚えるのは、たいていは両親がお互いに対話をして、霊の交流をしているのを傍で見聞きしているからです。

 

単に音声を意味にヒモ付けして覚えているのではなく、

 

「今、お父ちゃんはこういう思いをお母ちゃんに伝えたんだな」

 

という父母の霊の交流を観察しているのです。

 

そして、自分も同じような思いをお母ちゃんに伝える時は、

 

「今、お父ちゃんが出した声と同じを出せばいいんだな」

 

と覚えて行くわけです。

 

「思い」と「音声」をセットにして覚えるのです。

 

「意味」と「音声」のセットではありません。

 

「この言葉(音声)の意味は~だ」、という、普通に私たちが英語などの外国語を学ぶときにやっている方法ではなく、

 

「この言葉(音声)は、自分や他人が~の思いを伝えたいときに使うのだ」、と覚えて行く方法です。

 

意味を知れば、思いを伝えるときに使えるじゃないか、同じことではないか、と思われるかもしれません。

 

しかし、そうではありません。

 

「意味」というのは「思い」がからまなくても覚えられます。

 

例えば、あなたが中学生で、英語の授業を受けている時に、

 

I want to eat an apple.

 

という英文を先生が黒板に書いて、「アイワナイーランナッポ」と見事なアメリカ英語の口語発音で読み上げた(日本の実際の教育現場では多分あり得ないことでしょうが)としましょう。

 

そして、その英文は、「私はリンゴを食べたいです。」という「意味」だ、と先生が教えてくれたので、あなたは「そうか」、と、初めて、その「意味」を知りました。「初めて」、ですよ。

 

しかし、翌日には、あなたはその「意味」を忘れているでしょうし、ましてやその英文を自分の生活の中で使うことはできないでしょう。

 

もっとも、今のあなたなら、もう英語を十分学び、このくらいの簡単な単語で構成されている英文ならお使いになれるかもしれません。

 

でも、「まったく初めて」その意味を知ったとするなら、翌日には多分まだ使えませんし、覚えてもいません。

 

例えば、

 

indubitable(インデュービタボ)は「必要欠くべからざる」という意味の形容詞ですが、もしあなたが今日初めてそれを知ったとして、明日、意味を覚えていて発音できますでしょうか?

 

多分、お出来にはならないと思います。

 

それと同じように、たとえ、「want to」とか「apple」といった、今のあなたにとっては簡単な単語であっても、初めてその意味を知った直後には、なかなか覚えられなかったはずです。

 

特に、「apple」=リンゴ というのは、すでに「アップルパイ」などで日本語になっているので、すぐに覚えられそうな気がするだけです。

 

さて、一方、あるアメリカの家庭で、幼児が両親とテーブルを囲んで座っている場面で、父親が母親に向かって、

 

I want to eat an apple. 「アイワナイーランナッポ」

 

と言ったとします。

 

そしたら、母親は、

 

Ok, wait a moment. 「オウケイ、ウェイラモウマン」

 

と父親に答えて、席を立って台所に行きました。

 

しばらくすると、母親は、きれいにカットしたリンゴを3皿に分けてニコニコしながら持って来て、

 

Here you are. 「ヒアユウアー」

 

と言いました。

 

そして、3人で喜んでムシャムシャ食べました。

 

あー美味しかったあ!ごちそうさま。

 

・・・・さあ、この場面を見聞きし、自ら体験した幼児は、今の初めて聞いた言葉を、もう全部覚えました。

 

「お父ちゃんはリンゴが食べたい、って思ったんだ。

 

そういう時は、お母ちゃんに「アイワナイーランナッポ」って言えばいいんだ。フッフッフ、分かったぞ。」

 

幼児は次に自分がリンゴが食べたいなあ、と思った時には、迷わず母親に向かって、

 

「アイワナイーランナッポ!」

 

と大声で得意げに胸を張って叫ぶことでしょう。

 

母親は突然のことにビックリし、そして喜ぶことでしょう。

 

この子はもう「リンゴ食べたい」って独りで言えるようになった!

 

感動ですよね。

 

だって、母親は、リンゴは「アッポ」、~したいは「ワナ」、食べるは「イート」だけど、後にアンという不定冠詞が付いたらくっついて「イーラン」って言うのよ、なんて一度も教えたことはなかったのですから。

 

幼児は、この文の単語がどこで切れるのか、どういう綴なのか、どういう文法が適用されているのか、どの音とどの音がリンキング(つながって聞こえる)するのか、なんてことは一切知りません。

 

ただ、こう思ったときは、こう言えばいいんだ、願いが叶うんだ、ということだけを覚えています。

 

幼児は、今の他の英語も、以下のように覚えます。

 

「オウケイ、ウェイラモウマン」ていうのは、お母ちゃんは、お父ちゃんのお願いが分かったということと、だけど、それを叶えるには少し時間がかかるということ、その二つのことをお父ちゃんに伝えようと思って、今の言葉を言ったんだな。少し待ったからな。

 

「ヒアユウアー」っていうのは、食べていいわよ、とか、お待たせ、というお母ちゃんの思いなんだな。

 

・・・・幼児はこのように、今の英語を、父親や母親の意思や心の思い、つまり、霊と言葉を結びつけて覚えました。

 

霊と結びついた言葉は、強烈で切実で臨場感にあふれた記憶を与えてくれるのです。

 

そのために、すぐに覚え、しかも、自分にも同じ思いが湧いてきた時に、すぐに思い出して使えるようになるのです。

 

黒板に先生が書いてその意味を教えてくれたのを覚えるのとは全く違うのです。

 

・・・・このことは、外国語を大人になってから学ぶ効率的な方法について示唆を与えてくれます。

 

傍で見聞きして、どういう思いを相手に伝えようとしているのか、が分かる易しい外国語対話の場面集(外国語音声と画像または映像付き、または外国語音声と日本語音声付き)を教材として選ぶと良いのではないか、と思うのです。

 

もちろん、あくまで「対話」でなければならないということになります。

 

「幼児が両親の対話を見聞きする疑似体験を得る」ためですから。

 

つまり、外国語の学びの教材の中に、人間同士の霊の交流を見聞き出来なければなりません。

 

幼児は、両親の霊が言葉を介してポンポン飛び交って交流しているのを黙って見聞きしています。

 

そして、その間に、幼児は、いろいろなパターンの心や意思、感情と言葉の組み合わせの辞書を自分の中に蓄えて行きます。

 

自分の心や意思、感情が、自分の辞書の中にあるパターンに合致して湧き起こったときは、その辞書の中から、そのパターンに該当する言葉を取り出して来て、それを声に出します。

 

それで、親は、子供が突然しゃべり出した、とビックリするわけです。

 

講演とか発表などの、一方的な話をリスニングするのは、初期に言葉を覚えるという観点からは、非効率ではないかと思います。

 

そこには霊の交流がありませんから。

 

外国語学習に、この方法が良いかどうか、今私は自分で実験しようと考えています。

 

成果については、いずれ、このブログでもご報告しようと思っています。

 

・・・さて、ゴチャゴチャといろいろなことを書いてしまいました。

 

今日お話したいことの核心を述べましょう。(今頃?遅い!)

 

人間はこの世に一人でいるなら言葉は要りません。

 

しかし、神様は、アダムを創られた後、

 

「人がひとりでいるのは良くない。」(創世記第3章18節)

 

と仰って、エバを創り、アダムに妻として、助け手としてお与えになりました。

 

ですから、私たち人間は神様によって、一人では生きて行けないように創られていて、

 

神様のご意思によって、この世には必ず二人以上の人間がいるのです。

 

そして、人間同士がその霊、すなわち、心や意思、感情を相手に伝える時に伝えやすいようにと、神様は人間に「言葉」をお与えになりました。

 

そして、神様は、人間同士の関係の基本原則を「愛」に設定されていますから、

 

神様は、人間同士が言葉を使って「愛」の交流をすることを望んでおられます。

 

つまり、元々、言葉は「愛」を表現するためのものなのです。

 

従って、言葉というものは、相手を、

 

批判し、攻撃し、貶(おとし)め、バカにし、軽蔑し、怒り、蔑(さげす)み、責め、

 

叱りつけ、叩きのめし、抹殺し、傷つけ、悲しませ、泣かせ、ギャフンと言わせ、

 

「二度としません」と反省させ、支配し、搾取し、脅し、利益を吸い上げ、後悔させ、

 

懲(こ)りさせ、忠誠を誓わせ、強制し、・・・・などなど

 

するために使うものではありません。

 

両親同士がケンカが絶えず、その会話がこのような悪い言葉ばかりであったとしたら、それを見聞きする幼児は多分、あまり言葉を覚えないでしょう。

 

言葉を覚える目的は、ケンカをするためではなく、愛を伝えるためだからです。

 

言葉を覚えられなければ、多分、幼児の知能の発達にも悪影響を与えるでしょう。

 

赤ちゃんを育てる時に、親はどんな言葉をかけますか?

 

赤ちゃんを胸に抱いて、

 

「このバーカ!」

 

なんて言いますか?

 

まさか言わないでしょう?

 

「オー、よーしよし、よしよし、よしよし」

 

「いい子だ、いい子だ」

 

この上なく優しく、そう言いますよね。

 

これは、単に言葉、音声の違いの問題ではなくて、その言葉の奥に織り込まれた霊の問題です。

 

親の霊が、自分の「愛」を赤ちゃんの霊に伝えようとしているのか、「軽蔑」を赤ちゃんの霊に与えようとしているのかの違いです。

 

赤ちゃんはどちらを喜びますか?

 

当然、愛のこもった言葉をかけられたほうですね。

 

でも、赤ちゃんは「バーカ」が悪い言葉で、「よしよし」、とか「いい子」という言葉は良い言葉だ、なんて絶対知らないですよ。

 

それなのに、なぜ「いい子、いい子」と言われると嬉しいのでしょう?

 

その言葉にこもった親の愛を感じるからです。

 

毎回のこのブログの冒頭で死後の母の声、「けいじーっ」と叫んでいる母の声の録音の話をしていますが、他人様には、ただの鋭い絶叫のようにしか聞こえないと思いますが、この母の声には、私に対する「母の愛」がこもっているのです。

 

その「母の愛」を、母の赤ん坊だった私は感じることができるので、この録音を聞くと嬉しいわけです。

 

さて、一方、悪い言葉は、それを吐かれた人を深く傷つけるのですが、実は、吐かれた人ばかりではなく、それを吐いた人自身をも傷つけているのです。

 

多分、吐いた人はそれに気がついていません。

 

むしろ溜飲を下げた、とばかり、いい気持ちになるかもしれません。

 

しかし・・・・、実は、恐ろしいことに、水面下で、確実に、着実に、悪い言葉は、それを吐いた人の心や感情、理性、つまり霊を傷つけ、汚し、蝕(むしば)み、弱らせて行きます。

 

もちろん、霊と密接に結びついたその人の身体も徐々に蝕(むしば)まれ、破壊されて行きます。

 

やがて・・・・自滅します。

 

反対勢力に攻撃されなくても、抵抗されなくても、自ら滅んで行きます。

 

上記のような悪い言葉を吐き続け、悪い行動をし続けた人間、例え支配者であったとしても、そのような人間が極めて悲惨な末路をたどった例は、世界でも日本でも、歴史上、枚挙にいとまがありません。

 

会社や家庭、学校などでもそれは同じです。

 

それは、神のご意思なので、だれも変えられません。

 

神様は、人間同士が言葉を使って「愛」の交流をすることを望み、言葉によって傷つけ合うことを望んでおられない証拠です。

 

神様のご意思に反することを意図的に勝手気ままに実行し続け、嘘の言葉を吐き続け、他人を不幸に陥れ続け、そのまま、のうのうと生き長らえる事ができる人間などいるでしょうか?

 

聖書には、

 

「・・暴虐は、おのれの脳天に下る」

(詩篇第7篇16節)【新改訳改訂第3版】より

 

という言葉があります。

 

「他人に暴虐を振るうと、やがて、同じ暴虐が、その人自身を直撃する」

 

ということです。

 

暴力的行動だけではなく、上記したような暴力的な言葉を吐いても、同じことになります。

 

神様は言葉をそのような暴力の手段として使用することをお許しにならないからです。

 

もちろん、キリスト教では、そのような暴力的な言動に走る人についても、

 

「自分で何を言っているのかわかっていないのです」

 

というイエス・キリストの教えに従って赦し、愛の人に変わるように祈って差し上げることが必要です。

 

しかし、あなたご自身も、

 

「言葉は愛を伝えるためのもの」

 

「言葉は他人に暴力を振るうために使うものではない」

 

ということを、この機会に再認識し、上記のような悪い言葉や行動を極力慎み、愛の言葉を多用するようにされると、ご自身の生活がより楽しく、平安になられるでしょう。

 

・・・・しかし、ここまでのお話で終わると、世の中によくある「良いお話」、「良いお説教」、「立派な道徳」にすぎません。

 

そして、実は、旧約聖書の中にとどまっていることになります。

 

人間というのは罪深い存在なのです。

 

悪い言葉や行動を極力慎み、愛の言葉を多用しましょう、ということが良いことは分かっても、それをつい、破ってしまうのが人間なのです。

 

いや、そうしようと努力し始めた瞬間から、言いたいことが言えなくなった、したいことが出来なくなった、という不自由感に襲われます。

 

そして、だんだん息苦しくなって行きます。

 

やがて、

 

「こんな聖人君子みたいなことやっていられるか!」

 

という捨てゼリフとともに、元に戻ってしまいます。

 

すると、当然神様のご意思に反した生活になります。

 

・・・・どうすればいいの?

 

どうしようもないじゃん!

 

あ、そうか、神様なんて否定すればいいんじゃん!

 

神様なんていないんだ。

 

何が神様のご意思だ。

 

フン、そんなものクソくらえ!

 

この世はな、自分の知恵と腕力と金で生きて行くものなんだ。

 

無神論者で何が悪い!

 

・・・・・おっとっと。

 

早とちりしないで下さいね。

 

そういうあなたの神様のご意思に反する罪の身代わりとして、イエス・キリストは十字架という死刑台で死なれたのです。

 

そのことを信じるだけで、あなたが神様のご意思に反することをしてしまった時も、あなたが神様から罰を受けることはありません。

 

ですから、安心して、正しい方向に舵を取りましょう。

 

そのことを信じていれば、息苦しくなることもなく、意外と淡々と、無理なく、神様のご意思に近づいて行けるものなのです。

 

頑張らなくて大丈夫。

 

これが、新約聖書の世界なのです。

 

クリスチャンというのは、そういう人生を歩んでいます。

 

意図的ではありませんが、つい、神様のご意思に明らかに反することもしてしまいます。

 

でも、そのたびに、反省し、十字架を見つめて、イエス・キリストの身代わりの死に思いを馳せることによって、神様から赦された確信を持つことができるのです。

 

あなたも、もし気が向かれたら、この新約聖書の世界、イエス・キリストの救いの世界を探検してみて下さいね。

 

 

それでは、またお会い致しましょう。

お元気で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。

    

 私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。

  

 ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)

 

 https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be

  

 それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。

 

 その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、

 

「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画

(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!

   

 この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。

 

 また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。

 

 この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。

  

 これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。

 

  ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。

 

<本文> 「母と子は死後もテレパシーで通信できる」

 

テレパシー (英: telepathy) というのは、ウィキペディアによりますと、

 

「ある人の心の内容が、言語・表情・身振りなどによらずに、直接に他の人の心に伝達されること」

 

で、 超能力の一種だそうです。 日本語では「精神感応」と訳すようです。

 

今から7~8年前に、私は、このテレパシー体験と思われる母の体験談を聞いたことがあります。

 

私が乳飲み子だったときの母の実体験だそうです。

 

母はいかにも不思議そうに、私にこう語りました。

 

「私のお乳がタラーッと漏れ出すのと、けいじ(私の名)が、オギャーッと泣き出すのがいつもいっしょなの」

 

多分、乳飲み子の私はふとんで寝かされていたのでしょう。

 

突然、母のお乳が乳首から漏れ出すのと同時に、寝ていた私が、お乳を求めて泣き出した・・・・

 

私が泣き出した後に、その泣き声を聞いた母の身体が反応してお乳が漏れだした、というタイミングだったら、母はそれを不思議な体験とは思わなかったでしょう。

 

その二つの出来事が全く同時に起こり、しかもしょっちゅうだったので、母は不思議を感じたのだと思います。

 

また、母の乳房に母乳が満タンに貯まる時間の間隔と、乳飲み子の私がお腹が空く時間の間隔が大体一致しているために起こったとするなら、母が「いっしょ」と表現するほどピッタリ同時にはならず、少なくとも2~3分とかの時間差があったはずです。

 

・・・・こう考えると、やはり、この母の体験は、不思議なことですが、私のお乳を求める「心」が、お乳を与える母の「心」に、「声や表情や身振りによらずに」、つまり、「テレパシー」によって伝達されたとしか思えません。

 

一方、子がまだ母の胎内にいて、へその緒で母の身体と結ばれている間なら、この種の心の伝達が起こるのは納得できる話で、あまり不思議は感じません。

 

たとえば、私が母のお腹にいる時、母は街を歩いていて、大福餅とかの甘い食べ物を売っているお店の前を通ると、いてもたってもいられなくなり、大量に買い込んで、その場でムシャムシャ食べたそうです。

 

やがて生まれた私は、甘い物が大好き。

 

私がそれは一番良く知っています。

 

本人ですから。(笑)

 

私は、今でも、甘い物を大量に食べるのを我慢するのが大変なのです。

 

食べだすとキリがなくなり、その場にあるだけ、あっという間に全部食べてしまいます。

 

でも、甘い食品に必ずといっていいほど入っている砂糖には習慣性があるようで、一切食べないで我慢していると、かなり我慢出来るようになります。

 

私の場合は、砂糖が多い食品をあまり食べないようにしたほうが体調も良く、精神も落ち着くので、マスターズ陸上で良いタイムを出すために、基本的に砂糖を自分に禁じていますが、それでも、時々破ってしまいます。

 

そのたびに、母の話を思い出し、「生まれる前から好きなんだから、しょうがないよな」、と自分に言い訳したりしています。

 

私の妹が母の胎内にいる時は、母は「そばかき」(蕎麦粉を熱湯でこねて餅状にした食べ物ーウィキペディア)が無性に食べたくなって、大量に食べたそうです。

 

生まれた妹はやはり、「そば」が大好き。

 

このように、胎内の子が欲しい食べ物を母親が食べたくなるようですね。

 

それはへその緒でつながっているから、あまり不思議には感じませんね。

 

でも、生まれて、へその緒を切られて、母親の身体から分離したあとに、上記したようなお乳を求める子の心が母親の心に伝わる、というのは実に不思議です。

 

母親は子の声も聞かず、表情も身振りも見ていないのに、子がお乳を求めていることが分かり、乳首が反応する。

 

まさにテレパシーです。

 

超能力ですね。

 

また、詳細は省略しますが、母が亡くなる少し前にも、「あっ、今、母は別室にいるのに、私が何をしているか見なくても分かっているんだ・・・」と思う体験がありました。

 

これも多分、「テレパシー」なのだと思います。

 

母と子の間には、このテレパシーが強く働いているような気がします。

 

動物でも親子間のテレパシーがあるようです。

 

随分前のことですが、我が家の玄関の軒先にツバメが巣を作ったことがありました。

 

5羽のヒナを育てるために、親ツバメが頻繁に餌を口にくわえて運んで来ました。

 

それを眺めているときに私は気がついたのですが、5羽のヒナたちは、まだ親の姿が見えているはずがないのに、一斉にくちばしを大きく開けて、叫び出すのです。

 

しばらくすると、ちゃんと親ツバメがスイーっと飛んできて、餌を口渡しでヒナに与えるのです。

 

親ツバメの飛行速度は非常に速いので、ヒナの視界に親ツバメが入ってから叫び出したのなら、親ツバメはほとんど同時に巣に到着したはずです。

 

ところが実際には、ヒナが口を開けて叫びだしてから、数十秒経過後に親ツバメが巣に到着したのを私は目撃したのです。

 

つまり、ヒナたちは、目で見なくても、親ツバメが餌をくわえて、まもなく到着することが分かったのです。

 

これも「テレパシー」ではないか、と思うのです。

 

ウィキペディアの「テレパシー」の記事には、このテレパシーの存在を実験で確かめた二人の科学者の話が載っています。

 

その結果は、科学的に理由を説明できないものの、テレパシーという不思議な現象が実在することが確認されたそうです。

 

そして、それは必ずしも親子とか親類とかの間だけではなく、赤の他人との間にも存在する、という結果でした。

 

さて、それでは、どうもこの世の人間の間に存在しているらしいこの「テレパシー」は、肉体の死後にはどうなるのでしょうか。

 

肉体の死と同時に、消滅してしまうのでしょうか。

 

それは考えにくいのです。

 

なぜかというと、テレパシーは、人間の肉体に備わった感覚器官、目や耳や鼻という器官の存在を必要としていないからです。

 

上記ウィキペディアの記事の実験では、互いに隔離されている二人の「脳波」を計測して、その変化の同期性によってテレパシーの存在を確認しました。

 

それでは、テレパシーは人間の「脳」という「脳波」を発生する肉体の存在は必要とするのでしょうか?

 

以前の私のブログ「脳はコンピューターにすぎない」を読んでいただくと分かるのですが、「脳」は目に見えない人間の「霊」の指令によって動いているただのコンピューターにすぎません。

 

コンピューターというのは、自分で「意思」を持っているわけではなく、人間の意思を入力することで初めて、電線という「配線」を通じて、いろいろな機械を動かします。

 

「脳」もコンピューターと同じで、「脳自体」が「意思」を持っているのではなく、「意思を持った他の存在」の指令に従って、手足を動かしたり、顔の表情筋を動かして、喜怒哀楽を表したりしているだけです。

 

そのために、脳から脊髄神経を通って、身体の各部位に神経という「配線」があるわけです。

 

では、その「意思を持った他の存在」とは何のことでしょうか?

 

それが人間が皆持っている、眼に見えない「霊」なのです。

 

「意思」というのは「脳」の中に存在するものではなく、脳の外にあって眼には見えない「霊」が持っている機能の一つです。

 

「霊」の機能には「心」、「感情」、「意思」、「理性」などいろいろあり、超能力的なものも含まれます。

 

人間が行動する時には、眼に見えないその人の「霊」が、自分の「脳」をコンピューターのような道具として使い、神経配線を通じて、自分の肉体の各部位を動かしているのです。

 

私たちは、他人のその動かされた肉体の各部位の動き、すなわち、他人の声の調子や言葉、顔の表情、手や頭の動きなどを見たり聞いたりすることによって、相手が今、どういう「心」を持っているかを判断します。

 

ところが、テレパシーは、「心」を他人の「心」に直接伝達するものですから、声とか表情とか手足とかの肉体を動かす必要がありません。

 

ということは、テレパシーによる伝達には、肉体を動かす役割を持った「脳」も必要がない、ということになります。

 

ウィキペディアの上記のテレパシーの実験では、「脳波」をテレパシーの検出道具として使ったのですが、それは「脳」がテレパシーの「発生源」であることを必ずしも意味しません。

 

たとえば、ある地点で地震を検知したからと言って、必ずしもその地点が地震の震源地であるとは限らないのと同じです。

 

霊によってテレパシーが発生したときに、脳もそれを感知して、脳波が影響を受ける、と考えるべきでしょう。

 

とすれば、テレパシーは、人間の感覚器官や脳という肉体を必要としない、ということになります。

 

従って、当然の事として、人間のテレパシーは、その人が亡くなって肉体が死んだ後でも存在し得るはずです。

 

母の死後に、私が夜遅く、ネットサーフィンに耽っている内に眠たくなってパソコンの前で居眠りをしていると、「トン、トン」というノックの音がハッキリと聞こえたことが、今までに4~5回ありました。

 

いつも、実際の訪問者はいなかったので、これは、母の霊が私に「早く寝なさい」、と言っているのだな、と思い、母に「ハイ、ハイ、今、寝るよう」と返事をして、パソコンを止めて寝ました。

 

・・・・このような亡くなった家族との「心」の交流は、「テレパシー」によって行われているのかもしれません。

 

上記のウィキペディアの実験では、親子でなくてもテレパシーは存在した、というのですが、

私は、親子の間のテレパシー、特に母と子の間のテレパシーの強さは比類ないものだろうと思っています。

 

何と言ったって、子の身体は、元々、母親の身体と、へその緒を通してつながっていたのですからね。

 

そして、テレパシーが肉体を必要としない以上、亡くなった母と生きている子との間でも、最高に強力なテレパシー通信が行なえるはずなのです。

 

でも、子の「心」が、死後の母のテレパシーの存在を疑い、否定しているなら、それを受けることはできません。

 

テレパシーは「心」で受けるものだからです。

 

受ける側の「受信機」のスイッチが切ってあったら、受信はできません。

 

母と子の間だけでなく、亡くなった家族や友人、知人との間においても、テレパシーは存在するようですから、私たちは、その存在を信じて疑わず、私たちの「心」のスイッチをいつもONにしておきましょう。

 

そうすれば、きっと、亡くなったあなたの愛する方のテレパシーを受信することがお出来になります。

 

新約聖書ヨハネの福音書第20章27節の中で、イエス・キリストはおっしゃいました。

【新改訳改訂第3版より】

 

「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」

(私の陰の声)(その方があなたは幸せになれるからですよ!)

 

それでは、またお会い致しましょう。

お元気で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。

    

 私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。

  

 ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)

 

 https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be

  

 それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。

 

 その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、

 

「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画

(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!

   

 この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。

 

 また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。

 

 この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。

  

 これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。

 

  ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。

 

<本文> 「エネルギー保存の法則が証明する永遠のいのち」

 

今日は、最初に、今日のブログの内容が良く分かるために必要な知識、すなわち、この「宇宙」や「地球」や「人間」がどうやって存在するようになったのかを、キリスト教の聖書に基づいてお話しします。

 

それを分かりやすく図にしたものを下に掲載しますので、それを先にご覧になっても結構です。

 

まず、宇宙は神のエネルギーによって創造されました。

 

聖書には、神が言葉を発して、天と地を創造された、と書いてあります。

 

言葉を発することはエネルギーそのものですね。

 

もちろん、この宇宙の中には地球を含んでいます。

 

目に見えないエネルギーが物質を作る?

 

昔は考えられなかったこの事は、アインシュタインの特殊相対性理論によって提唱され、その後の核反応などの事実によって証明されました。

 

エネルギーと物質(質量を持っている物)とは、相互に変換可能、という驚くべきことが証明されたのです。

 

そして、その変換公式も明らかになりました。

 

E=m²  (エネルギーは物質の質量×光速度×光速度)

 

というものです。

 

この計算式によると、僅かな量の物質でも、すべてエネルギーに変わったとすると、莫大なエネルギーになりますが、逆に、僅かな物質を作るのにも莫大なエネルギーが必要ということです。

 

神でもなければ、宇宙のような巨大な物質を作るエネルギーは持っていないでしょう。

 

さて、こうして宇宙そして地球をも創り出された神は、次に人間を創ろうと決めました。

 

そして、まず、地球の表面の土地のチリから人間の肉体を創りました。

 

人間の肉体を構成している元素は、すべて人間の肉体以外の地球表面の物質内に存在している、という事実を見れば、このことが信じられます。

 

しかし、そのままでは、それはただの物質にすぎません。

 

そこで、神は、ご自分の息、つまり神のエネルギーを、創った人間の鼻から吹き込みました。

 

こうして、最初の人間、アダムは生き物となったのです。

 

 

吹き込まれた神のエネルギーは、アダムの「霊」となって、肉体とともに生きました。

 

アダムばかりではなく、私たちもまた、神からエネルギーを頂いて、それが私たちの肉体の内に有って、霊として働いているのです。

 

つまり、私たち人間の生命の本質が、霊と呼ばれる神のエネルギーなのです。

 

私たちの肉体は両親からもらったものですが、そのままでは、生命ではありません。

 

ただの物質です。

 

私たちが人間として生命を持って生きているのは、その内に神のエネルギーが宿っているからなのです。

 

・・・・さて、ここまで理解していただいた上で、今日の本題に入ります。

 

「エネルギー保存の法則」というのをご存知でしょうか?

 

物理学の法則なのですが、定義すると、

 

「孤立系のエネルギーの総量は変化しない」

 

というものです。

 

ここで、「孤立系」というのは、ある世界があって、その世界の外の世界(外界)とは、「物質」も「エネルギー」も一切出入りしない、そういう孤立した世界のことです。

 

これに対し、「閉鎖系」というのが有って、それは外界と「物質」は出入りしないが、「エネルギー」は出入りする世界です。

 

例えば、缶詰は「閉鎖系」です。

 

缶を開けなければ、中身が外に出ることはありませんが、缶を開けなくても、冷やしたり、温めたりすれば、中身の温度が変わりますね。

 

つまり、エネルギーの出入りは可能なわけです。

 

それに対して、「孤立系」は、中身が出ないばかりか、中の温度も変えられないのです。

 

魔法瓶などは、孤立系に近いのですが、長時間置くと中身の温度が変わるので、完全な「孤立系」ではありません。

 

しかし、完全な孤立系であれば、中身の「形態」がどのように変わろうとも、その孤立系の中でのエネルギーの総量は変わらない、というのが「エネルギー保存の法則」です。

 

例えば、「800g(大体1リットル)の灯油」が「孤立系」の中にあったとします。

 

その灯油に火をつけて燃やしたとします。

 

燃え尽きると、灯油は無くなりますね。

 

この時、灯油はどこに消えたのでしょう?

 

そう、「液体」だった灯油は、ススや水蒸気、そして、熱、光、燃える音などに「形態」が変わったのです。

 

ススのような固体、水蒸気のような気体、そして、熱、光、音などのエネルギーに変わりました。

 

このとき、「孤立系」の中にある、という前提なので、エネルギー保存の法則によって、それら燃焼中や燃焼後に残った物質と、エネルギーをすべて上記のアインシュタインの公式で物質に換算したものを合計すると、燃やす前の灯油の重さと同じ800gになる、というわけです。

 

灯油は消えたのではなく、実は、他の物質とエネルギーに形態を変えただけなのです。

 

重量はまったく減っていないのです。

 

・・・さて、私は、もちろん私見ですが、この宇宙は、神のエネルギーだけが出入りできる世界ではないか、と思っています。

 

ということは、つまり、この宇宙は、神のエネルギーだけを例外とした「孤立系」ではないか、ということです。

 

例外があるので、それを「準孤立系」と勝手に名前を付けました。

 

上図でお分かりのように、神だけは、宇宙の外から、新たに生まれた人間に、神のエネルギーつまり、霊を入れることが出来ます。

 

しかし、神がその霊を宇宙の外に出そうとしない限り、だれも人間の霊を宇宙の外に出すことはできません。

 

いや、霊だけではなく、人間の肉体も、死後には形態は変わりますが、神以外には、この宇宙から無くすことはできません。

 

亡くなった方の埋葬の形が何であれ、埋葬された身体(お骨など)の重さと、火葬などによって身体から発したエネルギーをすべてアインシュタインの公式で物質に換算して合計すれば、埋葬前の体重と同じになります。

 

しかも、この宇宙が私の仮定のように「準孤立系」であるならば、それらのエネルギーと物質は例えあちこちに拡散したとしても、エネルギー保存法則によって、この地上や宇宙空間の中のどこかに存在し続けているはずです。

 

地球を含めたこの宇宙から無くならない、ということです。

 

つまり、亡くなった方の肉体も、単に「形態」が変わっただけで、決して消えること無く、この世に存在し続けているということです。

 

一方、亡くなった方の「霊」は、元から「エネルギー」という「形態」なので、肉体の死後、埋葬後と言えど、その「形態」を変える必要はなく、「そのままのエネルギーとしてこの世に存在し続けている」はずでしょう。

 

エネルギーは保存されるのですから。

 

つまり、私がお証ししている「永遠のいのち」の存在、すなわち「死後の霊の存続」は、宇宙が「準孤立系」であるという前提を置きさえすれば、「エネルギー保存の法則」によって証明できるのです。

 

「死後の霊」が、この世つまり宇宙に存在しなくなるのは、神がそれをご自分の意思で宇宙外に吸い上げてしまう処分を行なわれた場合だけです。

 

それは本人にとっても、遺された家族にとっても、とても寂しいことです。

 

キリスト教聖書に出てくる「第二の死」とは、この処分のことかもしれません。

 

神は、どういう人についてそういう処分をされるのだろうか?

 

それは、単にクリスチャンであったかどうかとか、品行方正であったかどうかとか、そういう単純な基準ではないだろうと思います。

 

私にも良くわかりません。

 

それは神のご判断にお任せするしかありません。

 

ただ、言えることは、神様の恵み深さを知っている私としては、そういう処分を受ける人はめったにいないだろう、ということです。

 

ですから、私たちは、基本、死後に「永遠のいのち」を頂ける、と考えて良いのではないでしょうか。

 

特に、このブログを読んで下さっている方は。(笑)

 

そして、「永遠のいのち」は、上記したように、「エネルギー保存の法則」によって証明できるのです。

 

この証明が成り立たないのは、この宇宙が「準孤立系」でなかった場合だけです。

 

すなわち、この宇宙が、物質は出入りしなくても、エネルギーは出入りする「閉鎖系」であったり、物質もエネルギーも自由に出入りできる「開放系」であった場合だけです。

 

その場合は、亡くなった方の霊も身体のエネルギー化した部分も宇宙外に去ってしまいかねないからです。

 

しかし、現代の科学では、宇宙がどの「系」なのかは分かっていません。

 

そもそも、「宇宙のはて」は有るのかどうか、有ったとしたら、その向こうは何なのか?

 

それさえ分かっていません。

 

宇宙の外側が分かって初めて、宇宙の「系」が何なのか決められるわけです。

 

宇宙の「系」は、「宇宙の外側との出入りの有無の議論」なのですから。

 

多分、人類は、神を否定しては、この結論は永遠に出せないでしょう。

 

神の存在の否定から出てくるのは「永遠の謎」でしかありません。

 

私がキリスト教信仰者として確信していることの一つは、聖書はいつの時代でも、「最も科学的な書物」である、ということです。

 

あっ、母の霊が「お腹へったよう!」と叫んでいます。

 

夕飯作って食べさせなきゃ。

 

8時過ぎちゃった。

 

「はい、はい、今作るよう、ごめんね、かあちゃん、遅くなっちゃって!」

 

それでは、今日はこの辺で。

 

 

またお会い致しましょう。

お元気で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。

    

 私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。

  

 ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)

 

 https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be

  

 それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。

 

 その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、

 

「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画

(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!

   

 この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。

 

 また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。

 

 この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。

  

 これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。

 

  ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。

 

<本文> 「街で偶然出会った元彼が突然肩に手を・・・」

 

あなたがお若い女性だったとします。

 

いや、別に、今お若くなくてもいいです(笑)。

 

とにかく、あなたには過去に、熱愛した彼がいたとします。

 

熱愛中、彼はあなたと並んで街を歩きながら、あなたの肩にそっと手を置いてくれました。

 

その時のあなたの心は、これ以上無い安心感と幸福に包まれましたね?

 

ところが・・・・・交際中に、あるいは熱愛が実って結婚した後に、その彼の欠点や、あなたに対する批判的で高圧的な言動にどうしても我慢が出来なくなって、ケンカが耐えなくなり、ついに心の底から嫌いになって別れたとします。

 

・・・・まあ、よくある話です。

 

さて、別れてしばらくしてから、あなたはその元彼と、偶然、街で出会いました。

 

元彼が向こうから歩いて来て、すれ違う時に、あなたは元彼であることに気が付きました。

 

あなたも元彼も帽子を被ってマスクをしていたので、それまで気が付かなかったのです。

 

あなたの彼に対する嫌いな思いは変わっていなかったので、知らんぷりをして通り過ぎたら、彼もあなたに気が付き、振り向きざま、あなたを昔のように「〇〇子!」と大声で呼び止めました。

 

あなたは、心の中で、昔のように名前を呼び捨てにされたことにムカつきながらも、黙ってそのまま歩いていました。

 

すると、小走りに戻ってあなたに近寄って来た彼は、あなたと並んで歩きながら、何か話しかけ、そのうち、突然、あなたの肩に手を置きました。

 

その瞬間、あなたは、身体を激しくよじって彼の手を肩から振りほどきながら、彼を睨みつけ、

 

「何するの!」

 

と、周りの通行人がびっくりして振り向くほどの大声で叫びました。

 

・・・・とまあ、こんな話はよく有りそうですよね?

 

いえいえ、これは別に私の元彼としての体験談ではありません。

 

全くの私の創作です。

 

私にはそんな熱愛の経験も残念ながら有りませんのでね・・・・(苦笑)

 

もっとも、クリスチャンである私には、イエス・キリストに対する熱愛はあります。

 

でも、このイエス・キリストは、私がどんなに悪いことをしても決して私を嫌いにならず、見捨てず、生涯、私の肩に優しく手を置いて慰め、私が歩き疲れて倒れそうになったら、私を背中におんぶして歩いて下さいます。

 

私の心が一時イエス・キリストから離れ、彼に毒舌を吐いて去った後、やはり、よりを戻そうと彼を追って後ろから手を伸ばしたら、振り向いて、「おお、よく戻ってきたね。」とだっこして歓迎して下さる方なのです。

 

ただし、申し上げておきますが、今から21年前にキリスト教信仰を持った後、私の心は、実際には、イエス・キリストから離れたことも、毒舌を吐いたことも今日まで一度もありません。もし、そういうことをしたとしても、という仮定の話です。

 

・・・・おっと、話がそれてしまいました。

 

私がこの男女の小話を創作したのは、実は、ある事を知っていただきたいからなのです。

 

ただし、

 

「女性は男性に対して、イエス・キリストのような広い心を持つべきだ」

 

という「道徳」を語ろうとしているわけではありませんので、最後までお読み下さいね。

 

もちろん、「相手を490回、赦(ゆる)しなさい※」という聖書の言葉を実践できれば、とても実りある人生を得られますから、素晴らしいことです。

 

 ※新約聖書マタイの福音書第18章21節~22節
『 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦(ゆる)すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。』

(新改訳聖書改訂第3版より)

 

ところが、キリスト教信仰を持たず、イエス・キリストを知らずに、それを実践しようとすると、早晩、精神的に行き詰まります。苦しくなって逆に反動の大攻撃を相手にしてしまうでしょう。予告して置きますね。

 

もし、それがお嫌なら、キリスト信仰というものに関心をお寄せ下さるしかありません。

 

それには、やはりお近くの正統的なキリスト教会、特にプロテスタント教会を訪ねるのが時短です。(コメント欄に大体のご住所か最寄り駅をお書きくだされば、良いプロテスタントキリスト教会をご紹介出来ます。カルト教会、異端教会に引っかかると大変ですから。)

 

・・・・さて、またまた話がそれてしまい、申し訳有りません。

 

本題に戻ります。

 

さて、この話で、「男性が女性の肩に手を置く」、という場面が二ヶ所ありましたね。

 

一ヶ所は、熱愛中、デートで街を並んで歩きながら。

 

もう一ヶ所は、嫌いになって別れた後、偶然街で出会ったとき。

 

このどちらの場合も、

 

「同じ男性が、並んで歩いている同じ女性の肩に手を置いた」

 

という点では何も違いがありませんね。

 

登場人物の身体(肉体)とその身体の動きは物理的に全く同じです。

 

でも、それをされた女性の反応、特に、女性の心の反応は正反対でしたね。

 

同じ人に同じ行動をされたのに、一方は「幸福」に満たされ、一方は「激怒」に満たされたのです!

 

なぜですか?

 

不思議ですね。

 

なぜ、こんなに違うのですか?

 

そう、あなたもお分かりのとおり、その理由は、

 

「心が離れたから」

 

ですよね。

 

・・・・・そう、私があなたに知っていただきたいことは、

 

人間の心と肉体は別物になることがある、

 

ということです。

 

全く同じ肉体を持った相手に対し、全く同じ肉体を持った自分が、まったく違う心を持つ場合がある、ということです。

 

心は肉体と関係なく独り歩きをすることがある、

 

と言い換えてもいいでしょう。

 

もちろん、肉体が病んでいるために心も沈む、とか、心がウキウキしていると肉体の調子もいい、というように、密接に連動することも多いものです。

 

実は、現代の医学でも判明していることですが、心の状態が肉体の健康を左右していることが意外に多いのです。

 

患者の心の状態を無視した医療には適用限界があります。

 

意気消沈したときに、なぜ身体が前屈みになり、首がガックリと前に倒れるのか?

 

理由は分かりませんが、大体そうなりますよね。

 

身体が前屈みになれば胸椎の後弯が激しくなり、腰椎の前弯が少なくなり、骨盤が後傾する。

 

首がガックリと前に倒れると、頸椎が根本から前に折れる。

 

胸椎、腰椎、頸椎が適度な弯曲でなくなれば、各椎骨から出ている神経が圧迫され、その神経の末端の臓器や手足などに痛みやしびれが出てくる。

 

このような心因性の患者を治すには、心が意気消沈しているのを治す必要がある・・・・・

 

こういう視点も求められるわけです。

 

一方、逆に、肉体の動かし方の意識が間違っているために、関節が良く動かず、筋肉が固まって緊張したままになっているために、心も固まり、その結果、社会生活の中で、良い人間関係や異性関係を構築できず、そのために元気を失い、意気消沈しがち、というルートもあります。

 

このルートの改善は、なかなか西洋医学では実現できず、民間の体操療法の方が優秀な成果を上げているようです。(実は、最近、私はそのような体操療法のトレーナーの勉強を始めました。)

 

・・・・・このように、心と肉体は相互に密接に関係してはいるのですが、一方で、今の創作小話のように、心だけが肉体と関係なく変化することも多いのです。

 

特に、自分の心と自分の肉体の相互関係でなく、自分と他人との相互関係においては、心と肉体は独立した関係になることが多いようです。

 

他人との愛情関係においてそれは顕著です。

 

たとえば、私が生前の母を愛した時、母の顔とか、姿とかの肉体は全く関係ありませんでした。

 

97歳を越えた母の顔はもちろんシワだらけ、シミも沢山あったし、髪の毛は真っ白でした。

 

他人が見れば、超高齢のシワだらけの老婆の汚らしい顔に過ぎません。

 

でも、私にとっては、その顔は、どんな宝石、黄金より価値のあるものでした。

 

いや、地球より重い存在でした。

 

毎日オムツを外して排尿してしまうので、全身が尿でびっしょり。それを40分くらいかけて着替えさせ、それが一日3~4回。夜中だけで3回やったこともあります。全身が尿で濡れて寒いために母が大声で叫ぶので、私の目が覚めるのです。

 

私が仕事から帰ってきたら、排便をしていて、その便を頭や身体、布団、ベッドになすりつけていたことも、稀ですがありました。その始末には1回5時間かかりました。

 

毎日、母の介護を終えて私が寝るのはいつも夜中の12時から1時頃。

 

それでも翌朝5時半には起きて、朝ごはんを作り、尿失禁の始末をしてから仕事に行きました。

 

日中は訪問ヘルパーさんをお願いしていました。

 

でも、仕事から帰って来ると、また全身尿でびっしょり。40分かけて着替えさせ、夕飯を作り、1時間かけて食べさせ、自分も夕食を摂り、食器を洗って、洗濯して、明日のご飯を仕掛け、最後にベッドサイズの使い捨てシーツを1枚づつ強力なガムテープでずれないように5重にセットしてようやく寝る・・・・

 

でも、そんな母の介護に当たっていても、私の母に対する愛には何の変わりもありませんでした。

 

愛想をつかす、とか、「早く死んでくれないか」、などと思ったことなど本当に一度もありませんでした。

 

それどころか、なんとか105歳くらいまではこのまま生きていて欲しい、と切実に願っていました。

 

私が60歳代後半でありながら、肉体的にも精神的にも全く疲れることなく、こんな介護が出来たのは、キリスト教信仰のおかげだったと思っています。

 

キリスト教信仰によって自我がほとんど無くなって、母のことだけ考えて、自分のことを全然考えていないから、別に介護が辛い、なんて本当に思ったことがありませんでした。

 

さて、それはともかく、このように、母の肉体の外見や、肉体の生理現象の始末などは、私にとって、母への愛を変える要因にはなりませんでした。

 

つまり、私にとって、母の存在は、その肉体の存在によるのではなく、母が私を認識してくれている、その目に見えない心、愛、意識の存在によっていたのです。

 

美人のお母さんなら好きだけど、美人じゃないお母さんは嫌いですか?

 

顔の良し悪しなんて関係ないですよね。

 

どんな顔していようが、あなたのお母さんは世界中の女の人の中で一番大切でしょう?

 

つまり、肉体はどうでもいいのですよね。

 

だったら、お母さんが死んで肉体が骨になっても、もし、そのお母さんの心がこの世に存在していさえすれば、あなたはそれで100%満足できるのですよ。

 

母との愛情関係において、母の肉体の存在は必須条件ではないのです。

 

私の場合は、母の心、愛を含んだ母の霊が、母の肉体の死後もこの世に存在していて、私とコミュニケーションを取れることが、例のYOUTUBE動画の母の死後の声の録音で分かったので、とても恵まれています。

 

それは、なかなか信じられませんからね。

 

クリスチャンでも難しいと思います。

 

でも、

 

心は、愛は、霊は、肉体を離れても存在し得るのだ、

 

ということ、

 

そして、

 

人間にとって重要なのは、肉体ではなく霊であり、その霊を構成する心であり、愛である、

 

ということを、どうか、あなたもいつか信じられますように心からお祈りいたします。

 

 

それではまたお会い致しましょう。

お元気で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。

    

 私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。

  

 ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)

 

 https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be

  

 それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。

 

 その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、

 

「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画

(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!

   

 この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。

 

 また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。

 

 この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。

  

 これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。

 

  ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。

 

<本文> 「等身大の人体骨格模型を買いました!」

 

「ん? 突然、何のこっちゃ?」、と思われたでしょうね。

 

申し訳ありません。m( _ _ )m

 

実は、最近、健康体操に凝っています。

 

特に病気とか症状があるわけではなく、心身ともに至って健康なのですが、一つにはマスターズ陸上での短距離走のタイムを上げるため、一つにはもう少し骨格を整えたい、という思いからです。骨盤が少し後傾しているようだし、頸椎は前傾しているような気がするものですから。

 

世の中にはいろいろな健康体操がありますね。

 

YOUTUBEにも沢山の動画がアップされています。

 

また、書籍も沢山出版されています。

 

そういうYOUTUBE動画を見たり、書籍を買って読んでみたりして、その中から、現在、「これは本物だ!、間違いない!」、という体操法を二つ選び、今それを実践しながら研究しています。

 

どちらも、少し実践してみただけで、一瞬にして、非常に大きな効果が体験できたものです。

横から見て、頸椎、すなわち首の形もかなり良くなりました。

 

ただ、健康法というのは、人によって合う、合わないがあるのと、まだそれほど深く知ってはいないので、今回は残念ながら、私の選んだ健康体操をご紹介するのは差し控えさせていただきます。

 

健康法は間違った方法で実践すると危険を伴うからです。

 

ただ、その代わり、その特徴をご紹介しておきますね。それを知るだけでもとても役に立つからです。

 

この二つのどちらも「骨格を重視する」、という特徴があります。

 

姿勢、立ち方、歩き方、スポーツ、音楽演奏、歌唱・・・・・いろいろな人間の活動局面で、人間の「骨格」が重要な役割を果たしている、というのです。

 

筋肉や体力ではなく、骨格の方が重要。

 

特に「骨格の使い方が間違っているために不健康や姿勢の悪さを起こす」、という理論です。

 

そして、「骨格の使い方を間違える原因」は、「人間の骨格の構造と動きに関して、間違った意識を持ったまま生活をしているため」、というのです。

 

・・・・・そこで、私は、この二つの健康体操をより深く学ぶために、人間の骨格の構造について詳しく知りたくなったのです。

 

それで、少し前に、コンピューターで見る3D画像の解剖ソフトを購入しました。

 

意外に安く、確か3千円くらいだったと思います。

 

これは値段の割に、すごいソフトなのですが、そのうち、やはり実際の骨格模型が欲しくなりました。

 

それで、価格が安めの、等身大の人体の骨格模型を昨日インターネットで注文しました。

 

インターネットショップの写真を見ると、かなり精巧に出来ています。

 

もっとも、非常にお手軽な値段なので、背骨や肩甲骨は動かないのですが、観察には支障無く、十分に役に立ちます。

 

明日には届くと思いますが、私はふと、それが届いてつくづく眺めた時のことを想像しました。

 

もちろん模型なので、本物の骨ではなく、プラスチックで出来ているのですが、もし、それが「亡くなった母の本物の骨だったらどうだろう?」と考えたのです。

 

それは「母」だろうか?

 

間違いなく、母の骨だったとしても、それが「母」だとは到底思えそうにありません。

 

「これは、ただの物質だよな・・・・・」

 

・・・・そうとしか思えないだろうと想像するのです。

 

いや、仮に、その骨格に、靭帯が付き、筋肉が付き、内臓が付き、脳が、神経が、眼が、耳が、皮膚が、髪の毛が付いたとしても、それはやはり、「ただの物質」に過ぎない・・・・・

 

たとえ、それが喋りだしたとしても、そのおしゃべりの内容が、私を愛し、そして私も妹も孫たちも愛した、あの母の心、愛を持っていないのだったら、とても「母」とは思えないでしょう。

 

「これは精巧に出来た、話すロボットだ」・・・・・

 

そうとしか思えないでしょう。

 

確かに母の骨格、肉体、姿に違いなくても、やはりそれは「母」ではない・・・・・

 

・・・・つまり、私が、それは「母である」、と認める条件は、「眼で見える母の骨格や肉体の存在」ではなく、「目で見えない母の心や愛がそこに存在しているかどうか」、なのです。

 

毎回の私のブログの冒頭で母の死後の声のYOUTUBEをご紹介していますが、私はあの声を聞くたびに、母の私に対する心、愛を感じるのです。

 

それらを広く「意識」と呼ぶなら、私にとって、「母」とは「母の意識」なのです。

 

それは眼では見えません。

 

・・・・さて、ところで、人間の「肉体の死」は、その人のこのような心とか愛という「意識」までも消し去るのでしょうか?

 

母の肉体の死によって、母の意識もこの世から永遠に消え去ってしまったのでしょうか?

 

これに対する私の答えは、いや、肉体の死後も、その人の「意識」は存続するはずだ、です。

 

そして、それを証明してくれたのが、例のYOUTUBE動画の死後の母の声です。

 

それはロボットのような感情のない声ではなく、間違いなく母の感情がこもった声です。

 

つまり、「母の意識ー心も愛も」が肉体の死後も存在している証拠だったのです。

 

その声は、本当に、本当に、本当~~~に!母の子である私と妹が聞いて、間違いなく母の声以外の何物でも無いのです。

 

ウソでも、私や妹の思い込みでも無いのです。

 

今このブログを読んで下さっている皆様は、多分、私の母の声をご存知ないでしょう。

 

しかし、もし、皆様も私と同じような体験をし、そして録音された声が、皆様の亡くなられたご家族の声そのもの、絶対に聞き間違えようがない声であったら、きっと私のように、肉体の死後のご家族の意識が存在していることをお信じになれると思います。

 

・・・・・しかし、そのようなご体験が無い場合、一般的には、

 

「肉体が無ければ意識もない」

 

「肉体と意識は切り離せない一心同体、表裏一体」

 

と思うのが常識でしょう。

 

しかし、私は母の声の録音以外にも、更に下記のような理由と根拠で、その常識に反論したいのです。

 

その常識に対する私の反論1.

 

夜、寝ているとき、意識はどうなっていますか?

 

肉体はあるのに、意識はありませんよね?

 

明らかに肉体と意識は、一心同体ではありません。

 

とすれば、意識が肉体から独立して、肉体が無くても存在する「可能性」がありますよね?

 

もちろん、「肉体があっても意識が無いことがある、だから肉体が無くても意識はあるのだ」、と「断定」はできませんが、その「可能性」はある。

 

少なくとも両者が「紙の表と裏」のように不即不離の関係には無いことは、この睡眠の例から分かりますよね。

 

「裏が無い紙」って見たことがありますか?無いでしょう?

 

それはあり得ないですよね。

 

紙の裏をどんなに薄く剥ぎ取ったところで、そこには、新たな紙の裏が出来ますから、紙の表と裏は絶対に「分離不可能」なのです。

 

でも、肉体と意識の関係はそこまで「分離不可能」ではない。「表裏一体」ではない。

 

だって、私たちは「裏のない紙」を見ることは出来ませんが、「肉体はあるのに意識がない睡眠中の人」を見ることが出来ますからね。

 

常識に対する私の反論2.

 

亡くなった直後とその直前において、短い時間であれば、その人の身体の細胞はほとんど変化していません。

 

脳死、心停止、呼吸停止した状態であっても、直後には酸素も栄養分も、まだ細胞に残っています。

 

呼吸とか心臓の拍動とか血流とか脳の活動とかの「肉体の機能」は停止という変化をしたとしても、肉体の構成物質には何の変化もない時間というのが有るわけです。

 

肉体の構成物質には変化が無いのに、医学的に「死」と判定されるのは、上に挙げたような「肉体の機能」が停止し回復不能だ、と判断されるからです。

 

でも、死に瀕している家族の肉体の、その「機能が停止し回復することはない」、とお医者さんに言われたからといって、私たち家族は諦め切れないですよね?

 

「ひょっとしたら、突然、パッと意識を取り戻すかもしれない・・・・・」

 

そう思うからです。

 

そう、「意識を取り戻すかもしれない」!

 

「意識を」!

 

ね、「意識」にこだわるでしょう?

 

「肉体はもう機能回復しません」、とお医者さんから言われたのにね。

 

「いや、でもひょっとしたら、眼をさまして、意識が戻るかも・・・・」

 

・・・・諦め切れない。

 

・・・・ところが、もし、お医者さんから、それらの肉体機能の停止のために、「もう意識を取り戻すことは絶対にありません」と言われたら、そのときこそ、私たちは諦めるでしょう。

 

いや、実際には、お医者さんはそんなことはおっしゃらず、私たちはお医者さんから「肉体的機能停止」を宣告された時点で、もはや「家族は意識を取り戻すことは永遠に無いのだ」と勝手に納得して諦めるのです。

 

つまり、私たち人間にとって、死の問題は、実は「肉体」の問題ではなく、「意識」があるかどうか、だけの問題なのです。

 

私たちが自分自身の死も怖いのは、「自分の肉体が無くなる」からではなく、「自分の意識が永遠に無くなる」と思うからです。

 

ほら、ここでも、私たちは、「肉体」と「意識」を切り離して考えているでしょう?

 

これが反論2になります。

 

・・・・・以上の二つの反論と、骨格模型を眺めた時に湧いて来そうな想像とを合わせて考えてみれば、

 

「肉体」は無くても、「意識」は存在出来るかも・・・・・

 

と思えて来ませんか?

 

・・・・・もしそう思えないとすれば、そこには人間に宿命的な、二つの大きな理由があります。

 

一つ目の宿命的な理由は、私たち今生きている人間の「意識」というものは、私たちが誕生する時に、「肉体」と同時に、または「肉体」よりやや遅れて与えられたからなのです。

 

私たちの「意識」が芽生えた時には、すでに「肉体」を持っていて、生きている間の「意識」は、ずっと「肉体」を持ち続け、「肉体」と共同生活をしているからです。

 

つまり、私たち今生きている人間の「意識」は、「肉体を持っていない時間を経験したことが一度もない」ために、肉体からの分離独立を信じることが難しいのです。

 

さて、信じ難い宿命的な理由の二つ目は、私たち人間は、「死」は「睡眠中の無意識状態が永遠に続くものだ」と思っているからです。

 

睡眠時は、意識が無い状態であっても、肉体はそのまま存在しています。

 

そして、睡眠中の無意識状態から目覚めて意識が戻ったときに、私たちの意識は、ふとんの中で自分の肉体が存在していることを確認します。

 

ああ、頭が動く、手足が動く、眼が動く・・・・

 

そして肉体を動かしてあくびをしたり、伸びをしたり・・・・

 

それを毎日体験しています。

 

つまり、朝、眠りから覚めて意識が戻った時には、必ず肉体が同居していて、自分の意志のとおりに動かせるのを発見する。

 

「自分の意識が今、眠りから覚めたが、それはこうして自分の肉体が生きてあるからこそだ。

 

もし眠っている間に自分の肉体が死んでしまったとしたら、自分の意識はこうして目覚めることはなかったに違いない。」

 

全く科学的根拠は無いのに、かつ、誰も証明できないのに、なぜか、そう思う。

 

そして、そのために、肉体が無くなったら、意識も無くなる、つまり、「死ねば、睡眠中と同じ無意識状態が永遠に続くのだ」、と誤解してしまう。

 

その結果、肉体が無くなった時に、意識だけが独立して存在している状態を頭の中で、どうやっても想像できないのです。

 

だから「死」のことを「永眠」と誤って表現する文化が現れたのです。

 

人間の宿命的な誤解です。

 

でも、私は、多分、「肉体の死後の意識」は、ずっと眠っているのではなくて、目覚めたり眠ったりしている、と思います。

 

つまり、「永眠」ではなくて、生きている私たちと同じ様に、「眠る時もあるが、起きている時もある」、ということではないかと思うのです。

 

(ですから、私は毎日、母の霊に向かって、夜になると「かあちゃん、もう寝る時間だよ」と声をかけ、朝になると「かあちゃん、おはよう、もう起きたかい?」と声をかけています。すると母はちゃんと答えてくれます。)

 

要するに、「死」は「永眠」、すなわち「永遠の無意識」ではないのに、「永眠だ、永遠の無意識だ」と、科学的根拠も無いのに勝手に思い込んでいるために、肉体と意識の分離を信じ難くなってしまうのです。

 

なお、私がいつも「霊」と呼んでいるのは、上記のような心や愛を伴う「意識」を含んでいますが、実際には更にもっと測り知れないエネルギーをも持った眼に見えない存在のことです。

 

たとえば、どこにいてもいつでも語りかけると返事をしてくれたり、離れて暮らしている複数の家族の所に同時に存在したり、というような能力をも持っている存在です。

 

そして、肉体の死の瞬間に、その「意識」を含んだ「霊」が、自分史上初めて、自分の肉体から独立します。

 

ですから、私は肉体の死んだ日を「霊の独立記念日」と呼んでいます。

 

あなたの亡くなられたお母様、お父様、その他のご家族様も、肉体は無くても、その霊は肉体から独立し、「永遠のいのち」を持ち、そして「意識」を持って、今もあなたの周りにおられます。

 

ですから、どうぞ、一粒のご飯で十分(※)ですから、毎日ご飯を差し上げて下さい。

(※この理由については、私の以前のブログ「霊は食事をするの?」をご覧下さい。)

 

どうぞ朝晩の挨拶を欠かさないで下さい。

 

その存在を疑わないで下さい。

 

その存在を信じられるようにお祈りしてみましょう。

 

新約聖書 マタイの福音書
 第21章21節ー22節

『 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、(中略)たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。

「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」』


新約聖書 ヨハネの福音書
第20章27節-29節

『それからトマスに言われた。「(中略)信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」』
(新改訳聖書改訂第3版より)

 

 

それではまたお会い致しましょう。

お元気で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。

    

 私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。

  

 ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)

 

 https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be

  

 それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。

 

 その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、

 

「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画

(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!

   

 この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。

 

 また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。

 

 この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。

  

 これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。

 

  ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。

 

<本文> 「めまいがして気持ち悪いとき、亡くなった家族のことは考えない」

 

今日、YOUTUBEのある動画を見ていた時、急にめまいがして、吐き気がし、全身が脂汗をかき出しました。

 

肌着は汗でびっしょり。

 

あわてて着替えました。

 

・・・・これは時々経験します。

 

別に私が何か病気を持っているわけではありません。

 

動画の録画が、手でスマホを持って撮影されていて、手ブレが激しく、そのために画面がグラグラ動くために、見ているとめまいを起こすからです。

 

手ブレを補正する器具を使って撮影しないと、こういう動画になってしまいます。

 

すぐに動画を音だけにするか、視聴を止めれば回復します。

 

皆様もご経験がお有りかもしれません。

 

しかし、めまいで吐き気がしている状態というのは、本当に辛いですね。

 

何も考えられなくなってしまいます。

 

私がこれだけ愛している母の霊のことも考える余裕はありません。

 

お昼時でも、母の霊にご飯をあげることも忘れてしまいます。

 

ひょっとしたら、ちょっと前に急に家族が亡くなったとしても、自分がめまいで気持が悪い状態では、それを悲しむこともできないだろう、とさえ思います。

 

・・・・人間というのは、やはり、究極はエゴイストなのだなあ、と思います。

 

自分の身体が耐えられないような苦しみにあるときは、どんなに愛する家族が亡くなろうと、それを悲しんだり、考えている余裕はない・・・・・

 

人間は、結局、自分が第一なんだなあ、と思います。

 

もちろん、それはそれで良いのです。

 

悪いことではありません。

 

ただ、亡くなった家族の霊としては、私たちがそのような苦しみに陥って、その結果、霊となった自分を忘れ、考えてくれず、話しかけてもくれなければ、寂しいわけです。

 

ご飯をくれなければお腹も空いてしまうわけです。

 

まずい野の草を食べなければならなくなります。

 

そのため、霊のエゴとして、私たちがそうならないことを望むわけですね。

 

もちろん、そのような霊のエゴも悪いことではありません。

 

お互いさまですよね。

 

でも、そうすると、亡くなった家族の霊は、いつでも私たちが心身ともに健康でいて欲しいわけです。

 

そうでないと、自分に関心を寄せてくれず、忘れ去り、ご飯もくれないからです。

 

もちろん、家族の霊が私たちの健康を望むのは、自分のエゴだけではなく、深い愛のためでもあるのですが、根底にはそのようなエゴもあるのです。

 

どんなに愛情深い親だって、自分がめまいで吐き気がある時だけは、子供の世話も忘れてしまうでしょう。

 

それを責めることは出来ませんよね。

 

いずれにせよ、亡くなった家族の霊は、私たちが心身ともに健康で生活してくれることを切に望んでいる、ということに変わりはありません。

 

私たちが、大事な家族を失ったことの悲嘆にくれ、食べ物も喉を通らず、寝付いてしまい、毎日泣いて過ごす・・・・

 

亡くなった家族の霊は、そういうことをまったく望んでいない、ということです。

 

なんたって、美味しいご飯が食べられるかどうかの瀬戸際ですからね。(笑)

 

そしてまた、私たちが亡くなった家族のことを悲しみながらも考えていられるのは、自分の心身が健康だからなのです。

 

それは実は感謝すべきことです。

 

自分にとっても、亡くなった家族の霊にとっても。

 

・・・・実はキリスト教の父なる神様が人間を創造されたのは、神様のエゴからでした。

 

人間が自分の自由意志で神様を崇め、いつも考えていて欲しい。忘れないで欲しい。

 

神様はそう望み、自由意志を持った人間を創られたのです。

 

もちろん創られてからは、人間を愛しておられます。

 

その愛の故に、「神などいない」、と、神様から与えられた自由意志を悪用して神の存在を否定する人間の罪の身代わりとして、独り子イエス・キリストを死刑にして、人間を救う道を開かれたのです。

 

しかし、神様が、わざわざ人間を創られた根本には、神様の上記のエゴ、人間から崇められたい、という望みがあったのです。

 

でも、私たちは、それを責められません。

 

神様を批判は出来ません。

 

なぜなら、私たちは神様によって創られた被造物だからです。

 

神様が何を考え、どう行動されようが、私たちはそれに対して異議を申し立てる立場にはないのです。

 

創られた者は創った方に従うしかありません。

 

「信仰」とは、「仰いで信じる」ことです。

 

「仰ぐ」という言葉は、「上を見る」ことです。

 

「神様を上にする」

 

「神様を批判する」のは「神様を見下す」ことであって、「神様を上に」していません。

 

あなたの方が神様より偉い、優れている、と思っているから神様を批判するわけですよね。

 

神様は私たちに奉仕する召使いではありません。

 

神様は私たちより上にいる方で、絶対的に正しい方である。

 

それが信仰です。

 

自分を一番上に置くのは「信仰」ではありません。

 

逆に言えば、人間以外の高い存在より「下に自分を位置させる」ことが「信仰」です。

 

「ふーん、それじゃあ、その人間以外の高い存在って、どんな存在?」

 

それを詳しく書いてあるのが、キリスト教の聖書なのです。

 

「人間以外の高い存在、つまり神様って、こういう方だよ。こういう考え方をされて、こういう行動をする方だよ。この方に服従して生きて行くと、とっても素晴らしい人生になるよ。」

 

ということを書いてあるのが聖書なのです。

 

そして、それを解説し、教えてくれるのがキリスト教会なのです。

 

・・・・さて、話がそれてしまいましたが、もう気が付かれた方もお有りかと思いますが、この神様と人間の関係って、上に書いた家族の霊と私たちとの関係になんとなく似ていませんか?

 

それは、当然のことなのです。

 

実は、神様はご自分に「似せて」人間を創られたからです。

 

創世記第1章26節
『神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」』
【新改訳聖書改訂第3版より】

 

・・・・さあ、あなたも、今日も明日もあさっても、ずっと健康でいましょう。

 

ずっと、亡くなった家族の霊に思いを寄せ、話しかけ、ご飯を差し上げることが出来るように。

 

あなたが肉体を卒業するまでは心身ともに健康でいられるように、そして肉体を卒業してからは、あなたの心と霊が永遠に健康であるように願いましょう。

 

永遠のいのちを持って生きている、あなたの亡くなったご家族の霊も、それを心から望んでおられます。

 

あなたが健康を害し、苦しみに遭って、亡くなった家族のことを忘れてしまわないように、そのためにも、あなたの健康を本当に望んでおられるのです。

 

そのような望みを持ちながらいつもあなたを見つめていてくれる、「永遠のいのち」を持ったご家族の霊の存在を信じましょう!

 

今日も、あなたは独りぼっちではありませんよ!

 

 

それではまたお会い致しましょう。

お元気で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。

    

 私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。

  

 ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)

 

 https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be

  

 それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。

 

 その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、

 

「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画

(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!

   

 この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。

 

 また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。

 

 この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。

  

 これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。

 

  ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。

 

<本文> 「我愛す、ゆえに我あり」

 

 「我思う、ゆえに我あり」(日本語)

 Je pense, donc je suis.(フランス語)

 I think therefore I am.(英語)

 cogito, ergo sum コギト・エルゴ・スム(ラテン語)

 

これは、有名なフランスの17世紀の哲学者、ルネ・デカルトの言葉です。

おっと、今日の本文の題とは微妙に違っていますから、ご注意下さいね。(笑)

 

ご本人がこのとおりの単語を使用したかどうかは分からないようですが、彼が考えた内容は正しく表している文章のようです。

 

で、ご本人はフランス人なので、彼の言いたい内容は、上記のフランス語、

 

Je pense, donc je suis. (ジュパンス ドン ジュスイ)

 

が原典、オリジナルな言葉のわけです。

 

ところが、その日本語訳が、昔から伝統的に、「我思う・・・」と訳されていることには下記のように、かなり問題があります。

 

このフランス語に使われている動詞penseの原形はpenserと書きます。

 

フランス語は主語によってその後の動詞の形が少し変わります。

 

penseは主語が「Je」(ジュ、私は)という一人称単数現在形のときのpenserの変化形です。

 

それから派生した名詞のpensée「パンセ」は、同じフランス人でデカルトより27歳ほど若かったブレーズ・パスカルの遺稿集の書名『パンセ』として有名ですね。

 

名詞penséeパンセは、「考えられたこと」、「考え」、「思考」、「思想」の意味です。

 

この名詞の意味からも分かるように、フランス語動詞penserは、論理的な要素が濃い単語です。

 

そこには、感情的な要素が含まれていません。

 

上記のパスカルの『パンセ』には、有名な

 

「人間は考える葦である」という言葉が載っています。

 

「人間は高度の思考力を持った存在である」、という意味でしょう。

 

penserは、そのように人間が理性を働かせて「考える」「思考する」「思想を持つ」という意味の動詞なのです。

 

ところが、一方、日本語の「思う」という単語は、沢山の意味を持つ曖昧な単語で、「考える」という意味だけでなく、「感じる」という意味もあるのです。

 

「悲しく思う」、「嬉しく思う」、「恋しく思う」などで私たちが使っている「思う」には、「考える」という意味はなく、感情を表しているだけです。

 

「悲しく感じる」、「嬉しく感じる」、「恋しく感じる」と言い換えられますよね。

 

つまり、日本語の「思う」は、英語で言うなら、「think」(考える)だけではなく、「feel」(感じる)という意味も持っているわけです。

 

フランス語では「penser」という単語はあくまで「考える」であり、「感じる」という単語は別に

「sentir」とか「se sentir」とか「ressentir」とか「trouver」とか「éprouver」とか、いろいろあります。

 

しかし、デカルトは「Je pense」と言ったのですから、彼の意図するところを曖昧さを残さない日本語に訳すなら、「我思う、ゆえに我あり」ではなくて、

 

「我考える、ゆえに我あり」

 

とすべきなのです。

 

・・・・というわけで前置きが長くなりすぎて申し訳有りませんが、以下の文章では、このデカルトの言葉を「我考える、ゆえに我あり」と訳す方針で書いて行きます。

 

さて、私は哲学には疎いので、このデカルトの言葉が何を表しているのか詳しくは知りませんが、一般的な解説を読むと、

 

『この世のすべてを疑ったとしても、「考えている自分」が存在していることは疑えない』、という意味のようです。

 

「この世はすべて幻想ではないか」、と考えたとしても、「そう考えている自分」の存在は幻想ではなく、実在している、という主張のようです。

 

そして、その「考えている自分」を出発点として、その上に、自分が真理と考える事だけを積み上げていって、世の中を理解しようとしたのです。

 

それは、それまでの欧州社会でキリスト教によって与えられた真理に対抗し、「自分の思考」でこの世の真理を追求しようという姿勢です。

 

デカルトは、数学的な考えを規範にして、以下の4つの思考規則を定めたそうです。(出典ウィキペディア)

  1. 明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れないこと。(明証)
  2. 考える問題をできるだけ小さい部分にわけること。(分析)
  3. 最も単純なものから始めて複雑なものに達すること。(総合)
  4. 何も見落とさなかったか、全てを見直すこと。(枚挙 / 吟味)

これはまさに「科学」です。

 

デカルトはキリスト教の神を信仰していたのですが、この科学的方法によって、「神の存在証明」をしよう、とさえしました。

 

(実はそれは元々無理な話でした。・・・・不肖この私が毎回のブログで母の死後の声を科学によって産み出されたコンピュータと動画配信技術の成果であるYOUTUBU動画の紹介によって証明するまでは・・・・。そう、毎回の私のブログの冒頭は、実は人類が初めて実現できた科学による神の存在証明なのです!)

 

さて、いずれにせよ、こうして、デカルトは「近代哲学の父」と呼ばれ、その哲学は非常に科学的で、それまでの神中心のキリスト教哲学に取って代わりました。

 

もともとデカルトは数学者でもあり、現在も数学の「xy平面」のことを「デカルト平面」と呼んでいます。

 

一方、デカルトよりはるか昔、古代ギリシャ哲学も数学や物理学のような「科学」を含んでいました。

 

数学のピタゴラスの定理とか、物理学のアルキメデスの原理とかで有名ですね。

 

もともと「哲学」という言葉、「フィロソフィア」というギリシャ語(英語のphilosophyの語源)は、「知恵を愛する」、「愛知」という意味なので、人間の知恵、すなわち、思考や理性という分野を重視するものです。

 

こうしたギリシャ哲学やデカルトなどの近代哲学の「科学的」基盤の上に近代・現代の高度な科学が発展して来ました。

 

従って、現代の科学社会の基盤を成しているのが、このデカルトの「我考える、ゆえに我あり」という思想だ、とも言えます。

 

「人間の考える力、思考力を至高のもの、最良のものと考える思想」です。

 

確かに、この思想をベースとした人類の科学的な思考は、数々の病気を克服する薬剤やワクチン、医療機器、手術法などを通して人類の健康と長寿に貢献して来ました。

 

また、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、自動車やコンピュータ、携帯電話など、あらゆる種類の機械や道具が人類の生活を楽に、スピーディに、便利にしてくれました。

 

「我考える、故に我あり」

 

この言葉は、人類の歴史を通じて証明された、人類の「考える」能力の賛美、その勝利宣言であるといっても良いでしょう。

 

現代日本社会も、まさにこの「考える力の賛美社会」そのものです。

 

学歴重視、業績重視、効率重視、利益重視、スピード重視・・・・

 

すべて「考える力」が優秀であることが必要とされます。

 

・・・・・しかし、ここで、ちょっと冷静になって、まさにその「考える力」を使って、考えてみましょう。

 

果たして、それは良いことばかりなのでしょうか?

 

デカルトがすべてを疑うことから始めたように、思考とか科学というものは、「疑う」ことが前提です。

 

人間が自分の頭脳で周囲の出来事をまず「疑って」、経験と照らし合わせたり、実験をしてみて、自分で納得できたら初めて真理として受け入れる、これが科学的態度だからです。

 

「我考える、故に我あり」という思想は、従って「疑う思想」なのです。

 

「まず疑ってみよう、そして良く調べて、真理だったら受け入れよう、でも間違っていたら断固拒否だ!排除だ!」

 

・・・・そういう思想です。

 

確かに、科学はそういう態度でなければ成り立ちません。

 

・・・・ところが、その思想が自然界や事物ではなく、他人という「人間」に向かったら一体どうなるでしょう?

 

それは、その他人に対する「批判」・「反感」・「憎しみ」を引き起こしかねません。

 

なぜかと言いますと、

 

他人も自分と同じ「考え」を持っているかどうか「疑って」、その人の考えを探ってみたところ、「自分が考えている」真理を真理と考えず、自分と真逆のことを真理と考えている、ということを発見した、とします。

 

そうすると、当然その人に対して「批判」・「反感」・「憎しみ」を持ちますよね。

 

「「我が考える」真理をアイツは信じないどころか反対のことを信じている。」

 

「アイツは間違っている。」

 

「けしからん!」

 

「このまま放ってはおけん!」

 

そう考えた「我」は、アイツを憎み出し、批判し、攻撃し出します。

 

その「我の考え」をブログやSNSで世間に公開する人も出てきます。

 

もちろん、憎いアイツをやっつけ、ギャフンと言わせ、改心させ、謝らせるためです

 

そうすると「ウン、我もそう考える」、という賛同者がぞくぞくと現れ、一斉攻撃の様相を呈します。

 

「炎上」

 

「憎しみの渦」・・・・・・

 

社会が憎しみで染まってしまう。

 

それをマスコミが煽ります。

 

その方が視聴率が稼げて広告収入が上がるから。

 

・・・・・でも、そんな攻撃と憎しみに満ちた社会って悲しいな。

 

私はそう思います。

 

「我考える、故に我あり」という思想、つまり自分の「考え」を他人という「人間」に適用するのは止めておいたほうが良いように思います。

 

自分の「考え」を適用するのは、自然や事物に限定しておいたほうが良いと思うのです。

 

他人が「我の考え」と違う考えを持っていたって、それを「我が」批判するのはお門違い。

 

何と考えようとそれはその人の自由。

 

もし、あなたが他人から、「あなたは間違っている!」と指摘されたら、

 

あなたは「へへー、そのとおりでございます。私が悪うございました。」と心の底から謙虚に認めて、すぐに自分を変えますか?

 

多分、あなたは、そう言った相手に反感と敵意を持ち、仮に自分の間違いを認めざるを得なかったとしても、逆に相手の欠点やミスを必死で探して反撃の言葉を返すのではないでしょうか?

 

「何を言ってんの!アンタだって、こんな間違いをしたじゃないの!人のこと言えるの?」

 

・・・・・「戦争」はこうして始まるのです。

 

これは、家庭内戦争だけではなく、会社の中でも、近隣関係でも、あるいはグループ間や国家間でも同じです。

 

今からたかだか70年ほど前の日本。(700年前、7,000年前じゃありません!たった70年前ですよ!)

 

「アメリカやイギリスは鬼畜だ!」

 

太平洋戦争当時、日本の軍部の支配層は米国や英国の行為は間違っている。鬼畜に等しい。

 

そう「考え」ました。

 

その「考え」をラジオや新聞や回覧板を使って国民に拡散し、広めました。

 

「鬼畜米英を打倒せよ!」

「全国民は竹ヤリを持って戦え!」

「1億総玉砕!」

 

国民の憎しみを煽り、大学生も含む若者を最前線に送り込み戦死させました。

 

彼らを片道の燃料しか積み込まず爆弾を装着した戦闘機ゼロ戦に乗せて、敵の艦船に上空から体当たりするように命令しました。

 

「神風特別攻撃隊」です。

 

ゲームの世界じゃないですよ。

 

今からたった70年前に、日本人は本気で実際にこんなことをやっていたんですよ!

 

・・・・・この太平洋戦争と日中戦争を合わせて、軍人や民間の日本人合計310万人以上(63年の厚生省発表)が意図しない死を迎えました。

 

無理やり将来の人生を、抱いていた夢を奪い取られました。

 

その中のただの一人も、死にたい人なんかいなかったでしょうに・・・・。

 

そして、その亡くなった人の生き残った家族、父・母・兄弟・妻・夫・子たち、それは合計1千万人以上に上るでしょうが、その人達はそれこそ血の涙を流して愛する家族の死を嘆き悲しんだのです。

 

自分が抱いてお乳を与えて大事に大事に育てた息子を戦争で殺された母親。

 

「あの子を返してえええー!私のこの腕の中に戻してえええー!」

 

・・・・それが偽らざる母親の心境でしょう。

 

この文明の進んだ世の中で、人と人とが殺し合う・・・・・

 

殺した敵の人数を数えて、多かったら国民がみんなで手を挙げて「ばんざーい!」と叫ぶ・・・・

 

おおっ!何という恐ろしく、そして愚かなことでしょう!

 

こうした悲惨な戦争の原因はもちろん、その時々でいろいろな事情があるのですが、根本的には上記の様に、「我考える、故に我あり」という思想を、他人という「人間」と、その人々が構成する「他国」に適用し過ぎた結果だろうと思うのです。

 

その思想の結果として、「我の考えと違う」他人や、「我が国の考えと違う」他国を批判する社会は「疑い社会」、「憎悪社会」、「戦争推進社会」となります。

 

私は、人間が他人や他国に対して抱くべき思想は、「我考える、故に我あり」つまり「科学的思考」、「合理的思考」ではなく、

 

「我愛す、故に我あり」という思想であるべきだ、と思うのです。

 

キリスト教は「愛」の宗教です。

 

信仰の書であるはずの聖書が、

 

『信仰よりも「愛」を優先させなさい』

 

とまで言うのです。

 

私は母が亡くなってから、このブログを書いているのですが、このブログを書く私を駆り立てているエネルギーは一体どこから来るのだろうかと考えました。

 

死後にも霊が生きていることをお証ししたい、というのが直接の契機なのですが、そのさらに奥に、私の母に対する「愛」というエネルギーがあって、それが背景としてあるのだ、と気づきました。

 

そして、今の私にとって、この霊となった母に対する愛を取り去ってしまったら、何も残らない、と思うのです。

 

知恵とか知識とかはどうでもいい、とさえ思います。

 

このブログもこんなに書き続けることは無かったでしょう。

 

私がここに在るのは母に対する愛があるから。

 

その愛が無くなれば、私はもはや抜け殻。

 

存在していないのと同じ。

 

どなたでも、そのように感じるお相手をお持ちのことと思います。

 

親御さんであったり、恋人であったり、妻、夫であったり、子であったり、兄弟であったり・・・・・・

 

その人に対する愛を全く失ったら、肉体は呼吸をしていても、もう存在していないのと同じ。

 

それでも、ご飯を食べたい、水を飲みたい、という生理的欲求には従いますが、

 

「ここに我あり」、とはとても思えない。

 

つまり、人間は他人に対する愛を持たなければ自分の本当の存在感を持てないのでしょう。

 

神が人間をそのように創られた。

 

だから、聖書が「愛」を最優先するように命令しているのです。

 

人間が人間に対するときに、最も大切なことは、「考える」ことではなく「愛する」ことだ。

 

人間を相手にするときは、「知恵」とか「知識」とか「思考」とか「理性」とか、つまり「科学」ではなく、「愛」という人間が持っている不思議な感情を最優先しなさい、というのです。

 

人間に対しては、「愛する」ことをないがしろにして「考え」てはいけない。

 

家族や他人に対して愛を自覚したとき、初めて人間は自分が確かに存在していることを実感する。

 

「我愛す、ゆえに我あり」

 

そう思える。

 

他人や他国民も、同じ人間なので、この同じ真理の中に生きているのですから、

 

私たちが他人や他国民に対する時には、「我考える、故に我あり」という科学的・理性的・合理的思想ではなく、

 

「我愛す、故に我あり」という、非科学的で、時として不合理でさえある「愛」の思想をもって対するべきなのです。

 

そうであって初めて相手を正しく扱えたことになる。

 

それは、逆に私たちが他人から扱われる時のことを想像すればすぐにわかります。

 

私たちは他人から科学的・理性的・合理的にのみ扱われたいですか?

 

愛がまったくなく、情もなく、憐れみもなく、血も涙もなく、温かみもなく、例外もなく、個別の事情も考慮せずに扱って欲しいですか?

 

家庭で、職場で、学校で、地域社会で、そう扱われたいですか?

 

『何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。』

 

新約聖書マタイの福音書第7章12節【新改訳聖書改訂第3版より】

この言葉はキリスト教のゴールデンルール(黄金律)として有名です。

 

キリスト教の聖書は全巻「愛」を優先する考え方で貫かれています。

 

ですから、聖書の中では、社会的に劣った人、身分の低い人、貧しい人と社会的に優越した人、地位の高い人、裕福な人を区別しません。

 

いや、区別しないどころか、むしろ、後者の方が「愛」をないがしろにする傾向があるから注意しなさい、とさえ語っているように思います。

 

「我愛す、故に我あり」

 

この思想が行き渡った社会は、

 

「我考える、故に我あり」の思想が作り出す「疑い社会」、「憎悪社会」、「戦争促進社会」と反対の、

 

「信じる社会」、「愛にあふれた社会」、「平和促進社会」になります。

 

今、日本のみならず、世界も前者の社会になっています。

 

全世界が「疑い社会」、「憎悪社会」、「攻撃社会」、「戦争促進社会」になっているのです。

 

それは、「我考える、ゆえに我あり」という思想を他人に適用しすぎた結果です。

 

家庭を始めとして、職場でも学校でも地域社会も皆そういう社会になっています。

 

マスコミやSNSを見れば毎日、他人に対する「批判」、「憎悪」、「攻撃」のオンパレードではありませんか。

 

日本もこのまま進めば、必ずまた「戦争」を起こします。

 

政府や特定の組織が起こす、というのではありません。

 

日本を構成する国民一人ひとりが「考える」ことを他人に適用しすぎ、まず「愛」を他人に適用することを忘れてしまっているために、「批判」、「憎悪」、「攻撃」の意識が日本社会に蔓延し、

 

その荒んだ国民意識が、将来の些細な他国の侵害行為などをきっかけとしてその他国に対して燃え上がり、やがて「戦争」へと、いつの間にか導いて行ってしまうのです。

 

将来のいつか、「〇〇国の〇〇という人間あるいは集団が、我が国あるいは日本人に対してこんな悪いことをした」、という事実を告げるニュースが流れたとします。

 

それが些細なことであっても、荒んだ国民意識の蔓延する社会の中では、あっという間にSNSが炎上します。

 

〇〇はけしからん、とんでもない国だ、放ってはおけん、制裁だ、復讐だ、攻撃だ、政府は何をやってるんだ!・・・・

 

そういう投稿が毎日数百万回もされるようになる・・・・・

 

日本人の中には、日本在住の〇〇国の人に対して復讐の危害を加える者まで出てくる・・・・

 

こうして両国の国民感情が取り返しのつかないほど悪化し、政府もそれを抑え切れず、やがて戦争になってしまうのです。

 

そして、あなたの子供さんやお孫さんが無理やり戦地に送られて戦死します。

 

他人事ではありません。

 

過去のことでもありません。

 

こういう悲劇を起こさないためには・・・・・

 

日本人一人ひとりが、他人に対して「愛」を優先し、他人について「考える」ことは後回し、あるいは補足的にすること。

 

そのために、こと人間を相手にするときには、

 

「我考える、ゆえに我あり」ではなく、

 

「我愛する、ゆえに我あり」を基本精神とすること。

 

これしかありません。

 

・・・・さて、私がこう書いたことは、今そうしていない方を批判し、憎み、攻撃しているのでしょうか?

 

だとしたら、私自身が言っていることを守っていないことになりますね。

 

愛せよ、と言いながら憎んでいるわけですから。

 

でも、それは違います。

 

私がこう書いたのは、読まれる方が、他人に対する愛を理性よりも優先し、それによって、より心も身体も平安に保ち、家庭生活を始めとする日常生活で幸せになり、将来も平和な日本で子孫が戦争に巻き込まれずに繁栄していただきたい、という老爺心からです。

 

憎み、攻撃しているのではなく、愛しているからだということをご理解下さいね。

 

 

それではまたお会い致しましょう。

お元気で!