(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。
私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。
ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです!下記のその動画のURLをクリックするとご確認いただけます。(動画の20~26秒付近です)
https://www.youtube.com/watch?v=kFaODoW-qjU&feature=youtu.be
それが起きたのは、母の死後1ヶ月と2日経った、2018年7月29日のことでした。
その日、私は千葉市稲毛区の県総合運動場で開催された第37回千葉マスターズ陸上競技選手権大会に参加し、支部別年代別4×100mリレーで第2支部の第1走(4レーン)を走りましたが、スタートのピストルの音のやや後、若い女性アナウンスが「スターッ(ト)」と叫んだ直後、
「けいじーっ」と、私の名を絶叫している、まぎれもない母の声が録音されている上記の動画
(多分、このリレーで優勝した第三支部第三走の廣貴久氏のご家族の撮影)が、翌日か翌々日か、そのt.hiro氏によって、YOUTUBEにアップロードされたのです!
この日、他には「けいじ」という選手は一人も参加していませんでしたし、何度聞いても亡くなった母の声に間違いありません。
また、この動画は第三者のアップロードなので、私が編集したり、合成したりすることはできません。
この奇跡というか、不思議というか、私自身、現実とは信じられないくらいなのですが、どなたに聴いていただいても、確かに聴こえる、と言われますし、妹も母の声に間違いない、と言っています。
これは、聖書で約束されている「永遠のいのち」を母がいただいて、目には見えないけれど、今も生きている証拠に違いない、と確信し、肉体の死後に永遠の生命が存続し得るのだということを、私がこれから死ぬまで、一人でも多くの方に、この動かぬ証拠を示して証ししたい、という願いから、「永遠のいのちの証し人」と名乗ることにしたのです。
ただし、プロフィールでも述べていますが、だからと言って自殺をしたり、人を殺したりすることは神が聖書において明確に禁止している行為ですから、絶対にしてはいけません。)
<本文> 「神様はパケット通信によって肉体を復活させる」
こんにちは。
寒い中、いかがお過ごしでしょうか。
さて、いつもは「永遠のいのち」つまり「死者の霊の永遠性」についてお話していますが、
今日は「番外編」として、
「死者の身体の復活が科学的に可能であること」
についてお話します。
実は、この「霊の永遠のいのち」と「身体のよみがえり」のどちらも、キリスト教の重要教理なのです。
眼に見えない霊の存在ならまだ信じられそうですが、眼に見える肉体、骨となった肉体が元通りに復活する、などということは到底信じられませんよね。
「あり得ない!」
「一宗教の非科学的な妄想だ!」
そう確信しておられるでしょうね。
でも、今日のこのブログを読まれた後は、きっとそれが信じられるようになると思います。
と言って、詭弁を使ったり、煙に巻くのではありません。
それをちゃんとした科学的根拠によってご説明するつもりですので、少々長いですが、お付き合い下さいませ。
しかも!
今日のブログを最後まで読んで頂くと、下記のメリットが得られます!
1.「イースター」(復活祭)はいつ行われて、どうしてお祝いされるのかが分かります。
2.クリスチャンでも分かりにくい「キリスト両性論」(イエス・キリストは神でもあり、人間でもあった)、という訳の分からない説が理解できるようになります。
3,「デジタル」という言葉の意味と、インターネットの通信の仕組み(パケット通信)が小学生にも分かるように解説されています。
さて、それには、まず、「人間の死者の復活」のお話の前に、「イエス・キリストの復活」のお話をしなければなりません。
1.イースター(復活祭)は何をお祝いするのか?
キリスト教においては、イエス・キリストの誕生を「クリスマス」(降誕祭)として祝い、イエス・キリストの復活を「イースター」(復活祭)として祝います。
これらは世界中のクリスチャン共通のお祝いです。
今年のクリスマスは昨日終わりましたが、クリスマスは、神の子イエス・キリストがこの世にお生まれになったことをお祝いする日ですね。
ではイースターは何をお祝いする日なのでしょうか?
もちろん、「復活」祭ですから、刑死したイエス・キリストが「復活」した、つまり、生き返ったことをお祝いするのですが、
なぜ、二千年も前にイエス・キリストが生き返ったことを、今更、世界中がお祝いするのでしょうか?
亡くなった方が生き返ったのを家族や知人が喜びお祝いするのは当然です。
ですから、当時イエス・キリストの弟子とか近親者がお祝いした、と言うなら分かりますが、それから二千年も経った現在、しかも復活の起こったエルサレムから遠く離れた世界各地でお祝いしているのには、何か特別な理由がありそうです。
それをお話しする前に、イースターの「日取り」についてお話します。
日本では、あまり馴染みのないイースターですが、世界では著名なお祝いです。
クリスマスは毎年12月25日と決まっていますが、実はイースターは日にちが毎年異なるのです。
イースターは、プロテスタントやカトリックでは、「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」と決められていて、来年2022年は4月17日です。(正教会は決め方が違い、来年は4月24日になります。)
ですから、クリスマスは曜日が決まっていませんが、イースターは必ず「日曜日」になります。
イエス・キリストは、13日の金曜日に十字架で磔(はりつけ)にされて死なれた後、三日目の「日曜日」に復活されたことを記念しているからです。
さらに、殆どのキリスト教会が毎週「日曜日」に礼拝を行うのも、このイエス・キリストが復活した曜日の記念なのです。
ちなみに、日本でも、明治9年から「日曜日」が休日となりましたが、それはキリスト教国である欧米諸国との交易上の都合であったようです。
というのは、欧米諸国では、日曜日はほとんどの人が教会礼拝に行くので休日になっているため、日本に貿易の仕事でやって来た欧米人も日曜日には休むわけです。
そうすると取引相手である日本人は日曜日には仕事にならず、といって、訪日した欧米人が仕事をする別の曜日には、休むわけに行かなくなってしまうわけです。
この不便を解消するために、明治政府が、明治9年に太政官布告という法律で日曜日を休日と決めたのです。
・・・・こういうわけですから、現在の私たちが、毎週日曜日が休日となっているのは、実は、「イエス・キリストの復活が日曜日だったから」なのです。
イエス・キリストの復活がもし水曜日だったら、現在の日本でも毎週水曜日が休日になっていたことでしょう。
日本人も、思わぬ身近な所で、イエス・キリストの復活の影響を受けていることに驚かれたことでしょう。
・・・・・さて、それはともかく、
このように日取りが定められている「イースター」(復活祭)は、その名のとおり、
「イエス・キリストの復活」をお祝いする日です。
イエス・キリストは、ユダヤ教の祭司長、律法学者たちによって非難され、西暦30年頃にエルサレムで死刑に処せられ、墓に葬られました。
しかし、イエス・キリストは三日目の日曜日に復活し、葬られていた墓から忽然といなくなりました。
その直後、弟子たちなど多くの人々の前に、元通りの身体で現れたのです。
「イエス・キリストの復活」というのは、もちろん、その「死んだ身体が蘇生した」、ということです。
「死人が生き返った」
ということです。
単にその「霊」が存続している、というのではなく、
その「肉体」も元通りになった、ということです。
実は、聖書には、イエス・キリストだけではなく、イエス・キリストやその弟子たちが、死んだ人間を生き返らせた奇跡が数多く書かれています。
しかし、「死者の復活」なんて、普通、信じられませんよね。
ですから、それを聞いた人は、
「その人は死んだように見えただけで、実は仮死状態だったのだろう、それが何かのきっかけで息を吹き返しただけに違いない」
とか、あるいは、
「まったくの作り話だろう」
と考えます。
また、イエス・キリストの場合は、「神であるイエス・キリストの身体は幻(まぼろし)のようなもので、実際の肉体ではなかった」、という「キリスト仮現論(かげんろん)」も現れました。
死んだのはイエス・キリストの身体の「幻」に過ぎないから、いくらでもまた現れることができる、と言う理論です。
この
「キリスト仮現論」
は、正統的なキリスト教では「否定」します。
それを唱える者は異端とされます。
正統的なキリスト教の教理では、
「イエス・キリストは、真正の神でもあり、また同時に、真正の人間でもあった(人間としての肉体を持っていた)」、
すなわち、
「イエス・キリストは神でもあり、人でもあった」
「イエス・キリストは神性と人性の両方を併せ持っていた」
という、一見、訳が分からない「キリスト両性論」が正しいとされています。
なぜかと言うと、この「キリスト両性論」を取り入れないと、キリスト教の重大教理である、
「イエス・キリストの贖(あがな)い」( ※贖いとは、代価を払って買い取ること。イエス・キリストがご自分のいのちを代価として神に差し出し、私達の神に対する不信の罪を赦してもらったことを指す。)、
すなわち、
「イエス・キリストの十字架上の死という身代わりによる人間の悩みの救い」
が達成されないからです。
それは以下の理由によります。
1.救い主は「神」でなければならない。
神でもないタダの一人の人間が、「他の人間の身代わりになる」、と言って死んだところで、他の人間の悩み苦しみが救われるわけがありませんよね。常識で分かります。
昔は日本でも、「人身御供」(ひとみごくう)という野蛮な風習がありました。
村に川の氾濫で洪水が起こるのを予防するために、洪水を起こすと考えられていた水神や龍神などへのお供えとして、若い娘などを選び、「人身御供」として殺したのです。
人間が一人殺されれば洪水が予防できる、なんてメチャクチャですよね。
人間を救うために身代わりとなって死ぬ救い主は、人間ではなくて、「神」でなければなりません。
従って、
救い主の条件1.イエス・キリストが救い主であるためには、真正の「神」でなければならない。
この条件を覚えておいて下さい。
2.救い主は自ら犠牲を払わなければならない。
一方、神様は、人間の犯す罪に対して眼をつぶる方ではありません。
旧約聖書をひもとけば、神様の命令を守れなかったユダヤの民が、神様の罰を受けて、のたうち回る様子が、これでもか、これでもか、というほど沢山書かれています。
しかし、あまりにご自分の命令を守れない人間を哀れに思われた神様は、ご自分の独り子、イエス・キリストに人間の肉体を与えて、この世に遣わされました。
それがキリスト降誕、クリスマスの出来事です。
しかし、ただ遣わしただけでは、人間を救うことは出来ません。
神は罪に対して厳罰を持って臨む方だからです。
神は死刑さえも容赦されません。
旧約聖書には、沢山の人間が神によって死刑にされたことが書かれています。
ですから、神様が、罪にまみれた人間を死刑にせずに赦すためには、それ相応の「犠牲」を要求するのは当然でしょう。
さて、ここに、もし、「キリスト仮現論」のように、神ではあるけれども人間の本当の肉体を持っていなくて、単に「人間の身体に見える「幻」(まぼろし)を持っている神」がいたとしましょう。
その「神の幻」を十字架で死刑にしたら、罪にまみれた人間を死刑にする代わりになりますか?
「幻」にとっては、死刑なんて痛くもかゆくもありませんよね。
ということは、何の「犠牲」も払っていないことになります。
一方、「人間の肉体を持たない神」の本体そのものを死刑にしたところで、スーパーパワーを持つ神にとって、人間が執行する死刑などやはり痛くもかゆくもありません。
ここでもやはり、「犠牲」は払われていません。
結局、神様にとって、人間の死刑の身代わりになる者は、「死ぬことを恐れ苦しむ」という「犠牲」を払える者、つまり本当の人間でなければなりません。
従って、
救い主の条件2.イエス・キリストが救い主であるためには、真正の「人間」でなければならない。
ちなみに、その身代わりになる真正の「人間」は、その者自身が罪を犯していないことが必要です。
刑務所の中で、すでに服役している囚人が、他の囚人の身代わりになることはできません。
人間の両親から生まれた人間は、残念ながら生まれつき「罪人」である、というのがキリスト教の教理です。
その「罪」とは、「神を信じない、神の言うことを聞かない」という罪です。
ですから、人間の身代わりとなる救い主は、「人間の両親から生まれた人間」、すなわち罪人ではダメなのです。
これが、人間としてのイエス・キリストが、神様の「聖霊」によって身ごもった処女マリアから生まれた理由です。
母親マリアは人間でしたが、父親はマリアの夫のヨセフではなく、「聖霊」だったのです。
その結果、イエス・キリストは人間でもありながら、「罪人」ではありませんでした。
・・・・さて、本題に戻ります。
上記の救い主の条件1と2は互いに明らかに矛盾していますね。
もう一度並べて書きます。
条件1.イエス・キリストが救い主であるためには、真正の「神」でなければならない。
条件2.イエス・キリストが救い主であるためには、真正の「人間」でなければならない。
条件1では、「救い主は人間ではダメだ、神でなければならない」、と言っておきながら、
条件2では、「救い主は神ではダメだ、人間でなければならない」、と言っているのですから、この二つの条件は論理的に矛盾しています。
ところが、条件1、2とも、その説明をお読みになったあなたは、その条件が確かに二つとも必要だ、ということはご納得されると思います。
ですから、矛盾はしていても、
イエス・キリストが十字架上で人間の罪の身代わりとなって死に、その死によって人間が究極的に救われるためには、どうしても、
イエス・キリストは真の神であり、かつ、「幻」ではない真の人間でもなければならないのです。
救い主イエス・キリストは「神であり、同時に人でもなければならない」のです。
そんな矛盾した存在は常識では考えられませんよね。
「これは木であり、同時に鉄でもある」
なんて言っているのと同じですものね。
しかし、神様の世界は人間の常識で測り切れるものではありません。
人間の理屈で反論することは控えるべきです。
それが「神を信じる」ということなのです。
自分が納得できる事だけを信じる、というのは、「自分を信じている」にすぎません。
・・・・・さて、ともかく、「真の人間」でもあったイエス・キリストが、死を恐れながら死刑になって死んだ後、その身体とともに生き返った、「復活」した、という事実は、
私たち同じ「真の人間」の「身体」も、死後に「復活」出来る、ということを証明してくれたのです。
「いや、イエス・キリストの父親は人間ではなくて「聖霊」で、イエス・キリストは特別な例外的な人間だったから復活できたのではないのか?」
「私達、普通の人間の両親から生まれた人間は復活できないのではないか?」
という疑問が湧くと思います。
この点についても、上記した「犠牲」の有無を考えるべきです。
つまり、特別な例外的な人間で、ただ一人だけ復活できる特典を持っているとするなら、その死は「犠牲」にはならない、ということです。
そうだとすると、イエス・キリストは救い主ではなくなってしまうのです。
さて、すでに私のブログで、人間の死後の「霊」の永遠の存続についてはお話して来ました。
しかし、「肉体の復活」についてはお話したことはこれまでありませんでした。
ところが、今日、最初にお話したように、この「肉体の復活、身体のよみがえり」は、キリスト教では「霊の永遠のいのち」と並んで、重要な教理の一つなのです。
それは「永遠のいのち」と同様に、「死の克服」、「死に対する勝利」になるからです。
イエス・キリストの復活によって、私たち人間も、死後に自分の肉体が復活することを初めて知ったのです。
それは必ずやって来る死の恐怖にさらされている私達人間にとって、とても嬉しいことですね。
私達の霊が永遠なだけではなく、私達の肉体もまた元通りに復活する!
そのことがイエス・キリストの復活によって証明された!
だから、イエス・キリストが復活されたことをお祝いするのです。
それがイースター、復活祭なのです。
2.「復活」の科学的根拠
さて、とは言うものの、人間でもあったイエス・キリストや他の人間が生き返った、復活した、という話は、やはり信じられませんよね。
確かに、「仮死状態」だったのでは?、と思いたくなります。
ところが、聖書には、仮死状態どころか、骨になった人間が生き返る場面が生き生きと詳しく書かれた箇所があります。やや長いですが、新改訳聖書第三版から引用させていただきます。引用文中の「私」というのは、この書の題名にもなっているエゼキエルという名の預言者のことです。
エゼキエル書第37章1~14節
『 37:1 【主】の御手が私の上にあり、【主】の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。
37:2 主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。
37:3 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」
37:4 主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。【主】のことばを聞け。
37:5 神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。
37:6 わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが【主】であることを知ろう。」
37:7 私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。
37:8 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。
37:9 そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」
37:10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。』
・・・・・この中では、「肉体が骨から復活してゆく過程」が細かく描かれていますね。
もちろん、以前から私がご説明している通り、「生命は神がその息を人間の肉体に吹き入れなければ発生しない」、ということもこの聖書箇所の中に書かれていますが、
今日のブログの主題は、「神様は骨からでも人間の肉体を復活させることがお出来になる」、という話なので、その点に着目して今の聖書箇所を要約すると、
1.バラバラになった骨と骨とがつながる
2.骨の上に筋肉が付く
3.筋肉の上に皮膚が付く
ということが書いてあります。
もちろん、その過程で、腱や靭帯、内臓、血管、リンパ管、神経、脳、などなども次々に順番どおり出来ていったはずです。
こうして、生きていた時そのままの肉体が復元されたのです。
「そんなことあり得ない!」
誰でもそう思いますよね。
しかし、以下で、それが科学的にあり得る、という説明をして行きます。
また馬鹿なことを始めたぞ・・・・
・・・・そう思われると思います。
私も、あの母のお墓(教会の共同墓地)の中にある母の骨が、どうやって元の母の身体に戻れるのだろうか、と考え込んでしまいました。
私も、実は、上記のエゼキエル書の記述を心底からは信じられていなかったわけですね。
聖書に書かれているんだから、信じられないことも起こるはずだ、とは思うものの、やはり無理なんじゃないか、と思ってしまいます。
・・・・・しかし、
昨日、ふとこんなことを思ったのです。
「パケット通信の仕組みを使えば、神様なら容易にできるぞ」
ここで、ご存じない方のために、「パケット通信」というものについて、ちょっと説明させていただきます。
パケットというのは、「小包」のことです。
「パケット通信」という技術は、インターネットなどの「デジタル通信」で使われています。
そこで、まず、「デジタル通信」についてご説明しておきます。
デジタル通信とは
「デジタル通信」では、まず、送りたい文字、音声、画像、映像などの人間の眼や耳で捉えられる情報(これを「アナログ信号」といいます。たとえば、音声の波形、文字の形、画像や映像を構成する画素という粒の明暗や色など)を、
「0と1の複数桁(けた)の組み合わせ」だけからなる数字の列(これを「デジタル信号」といいます)に変えます。
「桁(けた)」のことを英語で「ディジットdigit」というので、「デジタルdigital」と言うのです。
例えば英字の「A」は、七桁の「1000001」で表します。
形を持ったアナログ信号の「A」は、形を持たないデジタル信号では「1000001」になるわけですね。
そして、デジタル信号で使われる数字は1と0の二種類しかないので、電気のスイッチのONとOFFで表せます。
電気を入れたり切ったりすれば、この数字の情報を電線で送れますね。
例えば、受信する方で電線に「電球」をつないでおいて、
電球が光ったら1、一定時間消えていると0を表すと決めておけば、
「光った、消えてる、消えてる、消えてる、消えてる、消えてる、光った」
という現象を見たら、それは「1000001」なので、「A」という文字を送ってきたんだな、と分かりますね。
実際には、パソコンの内部で、コンピューターがその電気の入り切り現象を確認して、受信者のパソコン画面に「A」と変換して表示してくれるわけです。
どの情報をどの数字列と決めるかは、国際的に「Unicode」という共通基準が定められています。
これがデジタル通信の仕組みです。
「A」は7桁で表せましたが、1と0の組み合わせの桁数をもっと増やせば、それだけ沢山の情報をダブらずに送れます。
一つの情報単位、例えば[A」という文字に対しては、ただ一つの1と0の組み合わせが対応していなければなりません。一対一でなければいけないのです。
二つの情報単位に対して、同じ1と0の組み合わせが対応したり、一つの情報単位に対して、二つの1と0の組み合わせが対応してしまうと、どちらの情報なのか分からなくなってしまったり、無駄が出てしまうからです。
現在のパソコンの主流は64ビット(ビットは二進数の一桁のこと)なので、あらゆるアナログ情報を1と0の「64桁」の数字で表して動いています。
たとえば、「1000100111000111110000・・・・・・000111」などのように64桁の1と0の組み合わせ(数学的に厳密に言えば順列)が使えるので、極めて多数の情報を一対一で定義して、ダブらせずに扱えるわけです。
この数は、すなわち2の64乗で、18446744073709551616になります。約1844京です。京は兆の上の単位です。
これだけ膨大な情報を扱えるようになったので、デジタル画像や映像は4Kとか8Kというような極めて高精細な表示が出来るようになったのです。
パケット通信の仕組み
さて、インターネットでは、このような「デジタル通信」が行われているのですが、さらに多数の利用者があまり待たずに同時にインターネットが使えるように、「パケット通信」という技術が使われています
「パケット通信」では、このようなデジタル信号、つまり1と0の数字で表された情報を、まず、情報単位ごとに細かく切り分けます。
この切り分けられた一つ一つを「パケット(packet)」(英語で「小包(こづつみ)」の意味です)と呼びます。
例えば、Aさんが「おはよう」という文字をインターネットやメールでBさんに送る場合のことを考えて見ましょう。
Aさんは、その情報を送るための機械、すなわち自分のパソコンやスマホに「おはよう」と入力し、相手先を「Bさん」と入力します。
Aさんのパソコンやスマホは、「おはよう」を「お」、「は」、「よ」、「う」の4つに切り分けます。そして、それぞれの文字の頭に下記のように記号を付けます。
「AB1お」、「AB2は」、「AB3よ」、「AB4う」
つまり、この情報の「送り主」はAさん、「お届け先」はBさんで、本文の「文字の並び順」は数字の1~4の順番です、という意味を表す記号を、全ての切り分けた文字にそれぞれ付けるのです。
「おはよう」は4つのパケットに切り分けられて、さらに送り主・お届け先・並び順の記号がその一つひとつに付けられました。
そして、これらの記号と文字すべてをデジタル信号(1と0からなる数字列)に変換し、さらに電気信号に変えて、有線または無線でインターネット会社のウェブサーバーという大型コンピュータに送ります。
ウェブサーバーは世界中の他のウェブサーバーと接続されていて、さらにそこから世界中のパソコンに「クモの巣」のようにつながっています。
もともと「ウェブ」というのは、「コブウェブcobweb」すなわち「クモの巣」から来ている用語です。
さて、インターネットの回線は有線でも無線でも、一人の人が専用で使えるわけではありません。
沢山の人が共同で使用していますね。
しかも、一人が使い終わってから次の人、というような順番待ちもしていません。
それをやっていたら、いつになっても自分の情報を送れないようなことが起きます。
それを避けるために、沢山の人が送る情報のパケット(小包)を全く順不同に混ぜてしまい、その混ざったまま、どんどん送ります。
例えば、Aさん以外の他の人、CさんがDさんに、「いえい」という文字情報を、Aさんとほぼ同時に、インターネットなりメールなりで送ったとします。
そのパケットは「CD1い」、「CD2え」、「CD3い」ですね。
すると、共同のインターネット回線上では、これらのAさんの送った情報もCさんの送った情報も、情け容赦無く勝手に混合されて、例えば、
「CD3いAB2はCD2えAB3よCD1いAB1おAB4う」
などとして送られます。
実際にはもっともっと多くの人が同時にインターネットやメールを使用して情報を送っていますから、回線上のパケットの混合はもっともっと込み入っています。
しかも、クモの巣状の回線が枝分かれしているところで、同じ人、例えばAさんが送った4つのパケットが互いに離れ離れになり、別のルートで、別の回線の方に混合して送られるということも起きます。
ところが、ところが・・・・
BさんもDさんも、しっかりと、それぞれAさんからとCさんからの情報を、「おはよう」と「いえい」として間違いなく受け取ることができます。
遅れも、他の要因がなければそれほどありません。
もう、お分かりだと思いますが、分けられた全てのパケットには「お届け先」と「文字の並び順」も付けられていますから、個々のパケットがどういう順番で、どういうルートで送られようと、しっかりと正しいお届け先に、最初に付けた順番通りに再構成されて届くわけです。
もちろん、その再構成作業はお届け先である受信者のパソコンやスマホがやっているのです。
電気の伝わる速度は1秒間に地球を七周半する秒速約30万キロメートルですから、地球の反対側にいる人にでも、一瞬で届くわけです。
実にうまく出来た仕組みですね。
でも、人間のこのような素晴らしい科学技術というものは、実は神様が元々持っておられる能力を少しづつ人間が後追いで発見しているにすぎません。
つまり、パケット通信も、神様が元々持っておられた技術で、神様が本家本元ということです。
上記のエゼキエル書の、「骨に筋肉、皮膚を付けて元の肉体に戻す」などという離れ業、あり得ない業も、このパケット通信の仕組みを使えば神様にとっては難しいことではありません。
その人間の身体の全ての細胞やエネルギーに、生前の段階で、「所有者名」と「身体の中の位置や重ねられる順番(復元順番)の記号」が神様によって付けられていたとしたら、その復元、再構成なんて、人間同士のパケット通信のように、実に簡単なことなのです。
皮膚や筋肉なども、火葬時に煙や熱に変わったとしても、その煙の粒子や熱エネルギーにも、その記号が継承されて付いている。
もちろん、お墓に埋葬された骨にも、その記号が付いている。
ですから、お骨を別のお墓にも分けて埋葬する「分骨」も、このことを考えれば、復活するときに何の問題も起こりません。
復活の時、お骨をお墓の石の蓋を通して通過させるには、神様が一旦、お骨を石の分子より小さく分割してパケット情報を付けてから、石を通過させて吸い上げ、その後に再構成すればいいだけの話です。
物質が他の物質を通り抜ける。
この奇跡も、神様なら、パケット通信方式で簡単に出来るのです。
この、私が今回勝手に考えた「人体に付いているパケット情報」という考えは、一見、人間の全ての細胞に存在するDNAや遺伝子情報と似ていますが、形態の変化後の煙粒子や熱エネルギーにまで情報が付いているという点で若干異なります。
さて、私の前のブログ「エネルギー保存の法則が証明する永遠のいのち」でお話しましたが、亡くなった人間の肉体を構成していた物質もエネルギーも、よほどの神様への意図的な反逆者でもない限り、この地上や宇宙空間から消えることはないだろう、と思います。
そして、「エネルギー保存の法則」は、霊だけではなく、もちろん肉体にも適用されますから、
亡くなった肉体が火葬され埋葬され、形は骨や煙の粒子や熱エネルギーに変わって、あちこちバラバラに散らばっていたとしても、それら肉体を構成していた全ての要素(パケット)は、この宇宙(地球上や空間)のどこかに存在し続けているわけです。
しかも、それら全てに「元の所有者名」(お届け先)と「復元順番」の情報(パケット情報)が付いている(もちろん、神様が付けたのですが)とするなら、
神様は、散らばったその人の肉体の要素(パケット)全てを、地上や空間から、瞬時に集めて来て、元のその人の身体に復元することなど、実に容易にお出来になるはずです。
現代、パケット通信によって、私たちは、地球の反対側に住んでいる人が発信した情報が細かく切り分けられ、必要な記号を付加された上で、他のおびただしい人々の発信情報と通信
ネットワーク上で混合され、多数のルートで別々に運ばれるにも関わらず、瞬時にその情報を、自分のパソコンやスマホの画面で完全に正しく再現して見ることが出来ています。
肉体の復活、身体のよみがえりも、この方法を使えば簡単だと思いませんか?
肉体の部分部分が形を変えて、地球上、あるいは宇宙空間のあちこちに散らばっていようとも、全てにパケット情報が付いているので、瞬時に元の身体に再構成される。
つまり、肉体が復活する。
一見不可能のように見えますが、今日のブログの題名のように、
神様はパケット通信によって肉体を復活させる
のです。
もちろん、それは神様だけがお出来になるのであって、人間には出来ません。
イエス・キリストの再臨の時には、それまでに亡くなった全ての人々の肉体がパケット通信によって復元され、永遠のいのちを持って生きているその人々の霊とが再合体されて、元通りの霊と肉を持って完全復活します。
神様のご意思によって宇宙外に追放された悪人の霊も、神様が宇宙内の地球上に呼び戻し、パケット通信によって復元した肉体と再合体させてから、「最後の審判」を受けさせられることになります。
イエス・キリストの再臨の時、私たちが生きていようと死んでいようと、私たちは亡くなった愛する家族や知人と、生きていた時と同じように、顔と姿を見ながら会うことができるのです。
抱きしめることも、頬ずりすることもできるのです!
何と嬉しいことではありませんか!
恵み深い神様によって創られた私たち。
その私たちの神様の御心に叶う切なる欲求が、いつまでも叶えられずに放置されることなどあり得ないのです。
でも、それはいつ?
待ち遠しいですが、いつとは聖書にも書いてありません。
しかし、新約聖書の最終章、ヨハネの黙示録第22章12節冒頭にはこういうイエス・キリストのお約束が明記されています。
『見よ。わたしはすぐに来る』
・・・・それは明日かもしれません。
それでは、またお会い致しましょう。
お元気で!