ぜひこの稀なご縁に、触れていただきたいですキラキラ


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なにも図らなくても、いいようになっているんです。

いや、必要ないんですよ。

見分や解釈や理由、理屈じゃないんです。

考え方から事実は観れないんですショック

なのにまた、考え方のほうから事実を認めようとするわけです。

理解したら、もう終わりですよ笑

図らずとも触れている事実に用があるわけです。

なにが起きているのかも、いつ生じているのかも、いつ滅してるのかも、なにもわからないんですよほっこり

 …ゆみさんのブログより
ウインク





‘自分の’無相実相ではなくて、

実相無相のみ。。。ですね。。^^


知るモノの事実、かたちになれば、
考えであり、自我感であり、また留まりますね。。

また握りしめている。。また自分、自分、自分があると、それに舵を握らせている。。また幻想に、迷ってしまう。。また考えの、自分とまわり、何かの対象の輪廻に入る。。。ぐるぐるえー?


真実を手にし、かたちに、ものにし、
定義でき、知れる何かなど、
自分などがはなからない。。。真顔

事実を知った’自分’などがどこにもない。。


事実までも、 ‘自分’ のものにしてしまう。。と。。。先日も書いたのだけど、

ノンデュアリティーなどのメッセンジャーが講義するように、’知ったモノ’として、また対象に、考えになってしまいますねキョロキョロ

講義、説明、解析、分析、
言葉、認識、名称、個人、対象、、などをただ持ってない、ついてない、、のに、またつける。

実相そのもの、一体同時活動ではなくなり、また、誰かの何かになる。

側、が、でき、
名前が生まれ、かたちになり、
決める。
知ることに、用ができてしまう。。


事実、本性には、よい、悪いはついていないけれど、それがまた自分の、考えの、執着になったら、、本性からはズレてしまいますね。


物にしよう、とする、自分というヤツ、、感じ、、についまた捕まってしまうショック

‘そヤツ’の無相なる事実は無いんですね。。

そヤツがはなからまったくもってどこにも跡形無い無相な事実。。そのもの。。止まらない一気なる千手観音の手みたいな、知り得ない、理解できない、分析きかない、捉えられない働きそれそのもの、、動き。。

しかないわけですねm(_ _)m

相手も、名前も、実相と認識するのも、
知ったものがないですね。

自分がないから、対象がない。

対象がないから、自分が、生死が、
自他が、境目がない。。

何も無く、同時にすべてがあります。
ニコ

映し出される。。空寂に、事実だけ。。

事実をわかった人、知っている人なんかが、はなから無いんですよね。。

事実しか、ないわけです。。(^^)





触れていると言う事は、相手が無い、と言う事ですよ。

事実の本性を、観る事が出来るように成ると、

一切の対象が、無い事が、自ずと観えて来る。キラキラ

総ては、認識上に、映し出されて、消えているんです。

生涯、この必然の心身上の事なんですよ。


誰かや、何かの上で、起きている事ではありませんよ。音譜



…九八さんのブログより照れ


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