無声の詩
  • 09Nov
    • 木星、シェイクスピア劇、宇宙とのダンス

      (the picture is borrowed)12年ぶりに木星が本拠射手座入りし、新月、そして立冬。木星は最大サイズなだけあって、パワーもすごい。12年間ずっと培ってきたというか、始まりと終わりが一つになり、ぐるっと廻ってくるストーリーが、このタイミング、この秋に通り過ぎました。木星射手座入り前後から、まわりの皆さんはとにかく体調を壊されている人や、鬱っぽい人ばかりのよう。指圧ワーク「慈恩」を受けたいと仰ってくださる方々も、元から持っていた持病ではなくて、つながっている要素を持つ新たな支障や病が出てきた方や、心がどうにも重たくて、無意識に元気がなく鬱になっている方が多いこの頃です。夏に放出したものが、今度は折り返しで秋に内に戻ってくるような感じで、冬に入ると今度はさらにためこんでいくような流れになります。冬は腎臓と関連しており、様々な流れとストーリーをついすぐに恐れ、悪とみなしてしまいがちな季節。過剰な恐れから思考ばかりが先走り、振り回され、神経質になって胃が硬くなってしまいます。年配の方々は、間違えとかではなく、ただ流れとしてどうしてもずっと信じてきた社会的なもの、植え付けられた概念からしか世界を見れないため、今この宇宙の氣の流れと細やかな光の粒の変動には、やはり苦しい抵抗についなりがちなことを見受けます。若い子も、最近の子供達も、あっという間に純粋さや軽やかさは重さと引き換えになる。宇宙は容赦なしに物質性から精神性へと天秤のバランスをまた取ろうとしていますが、過度な情報や、ブラック禅のような「なんでもあり」の傾向に、またも中道ではなくただの極端な「偏り」になってしまいがちです。物質性から精神性へと階段を上がる流れは、今とても顕著に表れています。「スピリチュアル」という名などで、精神性が語られる機会が増えている。けれど、これはただの「偏り」であり、一方通行であることに、多くの人は盲目です。霊性、本質への叡智、もしくは禅とも言えるのは、下から上への道と同時に、上から下への道があります。地のエネルギー、陰、性のエネルギー、物質性の氣は、天へと、無限性へと上がります。天のエネルギー、陽、虚空の力、精神性の氣は、同じ根元からできたものですが、コインの裏表のように全く別の側面でできている。だから天から地への道、流れ、叡智とは、全く別なのです。その同時進行、いわゆる陰陽があってこそ、宇宙の科学と本質、真理である禅が繋がっていき、一つを超えて、0、でもない0になり、振動していき続けます。みんな上ばかりを見ているけれど、下も無限にあります。どちらの無限性を知り尽くし、扉が全部開き、ぐるっと回って蛇の頭と尻尾が一つになると、いわゆるアセンションとか、次元の体験とか、アルケミーであり、宇宙科学からの真理との結びであります。

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    • 影なし

      止まることのない力がありながら流れ続けている型になってしまわない影にならない

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  • 06Nov
    • 変容への憧れのループ

      (the picture is borrowed)指圧ワーク「慈恩」のサイトにて別ブログもたまに更新中です。イギリス在住の方へは出張ワークもいたします「変わりたい」「自分らしく生きたい」「魂の求めるようにありたい」という声をよく耳にします。このままでは嫌だ、こんなんじゃない、これではいけない。そういう葛藤は誰にも時としてあり、また必要な過程であったりもちろんします。ただ、多くの人がはまってしまうループがある。例えば何か「変わることができた」ら、それがポジティブなものとして感じられる限り、記号がAからBへと変換されただけで、新たな自分のアイデンティティーを固めてしまいます。逆説的なのは、変わることができたことで、何かが溶け、凝り固まっていたものが動き、元気になり健康になったり、願いが叶う実現力がついたりするのだけれど、まだ実は無意識の苦しいループの中にいてしまっていること。どれだけ自己肯定ができるようになり、前できなかったことができるようになったり、「使命」のようなものを確立したり、仕事としてものすごく成功したとしても。「変容」にいちいち感激したり、提示したり、今は仕事としてそういうことを教えていたり、シェアしたりする人が増えているけれど、いつまでも「個人のアイデンティティーと名誉」のカラーがついている限り、どうしてもいつかはまた苦しくなってしまうのです。むしろ逆説的で冷酷的なのだけど、個人の「変容」なんて生きていればエネルギーであって当たり前で、ふと内面で知っていくだけですぐ通り過ぎて、無感動になるくらい、気にならないくらいじゃないと、本物の変化は起こりえない。結局はいたって、「個人が自分の変容」のことを話しているのか、「個人がないものの変容」のことを話しているのか、違うからです。才能や好きなことをどんどん開花してこうという声がありますが、これもまた「個人の中での才能など」である限り、いずれかは環境が盛りを過ぎ、ターニングポイントを迎えた時に、どうしても「終わり」がまた「苦しみ」となってしまう。自己肯定的な、自己愛的な表面の要素が強い変容のブームは、もちろん自然でただ必要な流れではあるのですが、「永遠性」はありません。それはただの一部分であり、過程であるからです。いずれにせよ、「私のアイデンティティー、立ち位置や名誉や名声」を持っている限り、それは個人のプライドと防御になり、いつかは手放す必要が出てくる。そんな中には実は安定はないし、幸せもないから、ずっと何かしらで不安を抱えていることが、いつかうんざりする。いつか「個人」から「永遠」へと手放していくことになる。変わっていっている自分が楽しい、変わっている自分が嬉しいと思っているうちは、いずれかは何かがどうしても不幸せになってしまう。何があっても大丈夫とは、絶対に個人があるうちは言えないのです。いろいろなことが壊れていき、変わっていくのは当たり前。自然界を見れば一目瞭然です。どうして人間だけが、すべてにおいて提示したがるのでしょう。固定したアイデンティティーにしなければ、それはただ自然の一部です。

  • 05Nov
    • 死の黄金の秋

      冬の前、緑の葉が黄金のオーラに包まれる。ゴールドがかった発色になり、枝から、母から落ちる前に、これでもかと命の輝きと美しさを見せつける。緑のときとは全く異なる、成熟したエネルギーを放ち切り、独りで孤高に飄々と落ち、死を迎える。なんでこんなに美しいのだろう。あと数日で落ち去る命。最期にどうしてこんなに輝くのか。命は死を迎えるとき、家へと帰る。家は光の束で包まれている。だから死の間際の人間や動物も、植物と同様に、半分家に足を踏み入れているから、やたら光輝いて見えるのだ。不思議な孤独な美がある。家はいつでも開いているし、光を放っているのだ。死は、ただのサイクルでしかない。落ち葉も、また同じではない型で、来年再び葉となるだろう。枯葉は息吹をなくし、呼気が消え、黒くなり、腐敗する。地となり、死と生が同時に存在し、腐敗と力の香りを放つ。

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  • 02Nov
    • 光の戦士

      (the picture is borrowed)ネイティヴアメリカンの智慧は、日本の神道と武士道に通じるものがある。同じエネルギー、匂い、種族のような感じがする。言葉にするなら、「光の戦士」「虹の戦士」というような感じの人間だ。霊性と物性を融合して、天地同一な命の種族だ。こういう種族は、人は人でないことを知りながら、同時に人であり続ける。霊と地のどちらも包括できるからこそ、どちらにも自然とただ偏らない。目に見えないものと、目に見えるものを瞬時につなぐ。どちらでもあり、どちらでもない。どうして命の無限大さを知りながら、あえて人として地に足をつけ、地の平和を守り続けるのか。どうしてあえて人以上の人なのか。それは、垂直に伸び上がる天の無限さと、垂直に伸び下がる地の無限さのどちらもただあることを知っているから。こういう種族は聖でありながら、聖にとどまらない。俗にありながら、俗にもとどまらない。禅を体現した一休や良寛、白隠なんかもそうだった。例えば日本の剣聖の勝海舟や山岡鉄舟、政治家の西郷隆盛なんかもある意味そんなエネルギーを持つ種族だった。天の眩いほどの平和の光と、軽やかな非二元の無限性を完全に生きながら、そこにもとどまることがない。それは「ただそうなのだ」という智慧と同時に、あえてそうする必要を知っていたから。天は「悪」と「善」を知らないけれど、地にはどうしても腐敗した、がん細胞のような質のエネルギーがある。天にありながら、地にあえて足をつけた「光の戦士」は、聖者として非ずに、あえて戦士として、地の平和を守るのだ。それはある意味、特定の種族、ブリード、役割、タイプ、特質の人間であり、個人をはるかに超えたスピリットを使えるものだ。武士道の肚、無心、本来無一物と共通している。生死は本来は無一物だが、愛するもののため、地の平和のために、生死にあえて真っ向から飄々と向かっていく種族は、今これから色々な場面と形で必要となってくると思う。戦うことを自分から始めるのではない。戦士とは戦うことを目的にしていない。ただ、守るためにあるのだ。ネイティヴアメリカンや武士道などがあえて言葉で掲げた美徳というものを、言葉で理解はできない。それを生きることでしか意味がない。天の軽やかな無限大の智慧と同時に、スピリットは強く凛とし、また軽やかでないとならない。スピリットは上ではなく、真ん中でつないでいる。

  • 31Oct
    • そこにあってそこにない、そこになくてそこにある

      今年の🎃右がアン、左がウーの。アンのは「変なおじさん」のようなテーマらしい(笑)仮想は、ウーは毎年恒例の死神、アンは呪い人形。ようやくここまで来たって、どこから来た?やっとわかったって、何を?何かがなくなるから何かが現れるのではないよ全部はそのままなんだよただ「あなた」が影と光に、見えるものと見えていないもの、に分けて信じているだけさ

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  • 30Oct
    • 思春期の娘へ

      来月13歳になる娘アン。うーん…とにかくティーンは難しい!子供への性の教え女の子は初潮を迎えると、毎月のサイクルとともに、性のエネルギー(陰、地の氣)が爆発的な勢いで上へと押し上げていきます。男の子も思春期のエネルギーの科学は同じなのだけれど、タオの陰陽のマークに表現されているように、女と男の氣のエッセンスは対照的。女は子宮と二つの卵巣、乳房を持ち、月の満ち欠けと同様に満ちては放ち、放っては満ちる。女は異性の男の赤ちゃんすら胎内に宿し、育てることができ、生み落とすことができる。女はなんでも受けることができる。そしてまた出す。複雑。男は正反対。単純明快、一定。シンプル。突き進み続ける。だから一気に何億の精子をつくることができる。思春期の性のエネルギーの大爆発期に、女の子は男の子よりもベースのチャクラに複雑にブロックを無意識にかけがちです。12、3歳ではすでに「人間社会」で「人間的概念と人間的感情の世界」ですっかり「人間」になってしまっている子がほとんどなので(笑)、ベースチャクラのブロックから、ハートチャクラの浅い部分でだけジャッジし(どのチャクラにも深みの層がある)、固定して味付けをするため、ハートが重くなります。完全にお母さん、お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん、それ以前の祖先の上部の遺伝子的なエッセンスだけをコピーして、社会的にはみ出ないようなオリジナリティーが光らない、どこどこのなになにさん家のなになにくん、ちゃん、という名札、レッテルを胸に張って、年齢だけを重ねていくことになる。家族というものが似たような、同じ匂い、色、雰囲気みたいなのを放っていがちなのは、そのためです。日本でも、イギリスでも、今では国はそんなに変わらない。多くの家庭を見ていると、みんなまだ12歳くらいなのに、お母さんみたいになってる。姉妹のよう。もしくはお父さんのようになってる。みんな同じような周波数のようなものでできている。本当は、例えばアンは、たまたま私の胎内から出てきただけであって、まったくの他者なので、血のつながりとは表面的な遺伝子の話であり、エネルギーの深みと宇宙の叡智のエリアでは、そんな遺伝子は小さなこと。人間世界、社会で在るにあたって、いかに小さな遺伝子だけの話でまとまる人間にならないか!例えば目覚めるためには、学校なども含めて、社会も全部、赤ん坊のように無知で野放しにすることが答えではないのです。逆に、まずは毒というか、必要じゃないけれどいるものを与えることから。赤ちゃんは目覚めていません。毒を持ってして、初めて無知から出るのです。同じ点から同じ点へといつかぐるっと回る。二元性の世界に完全にありながら、その中で非二元性を生きていく。しかないからです。十代は、エネルギーは待ったなしに成熟していこうとするのに、個人的にはまったく未熟です。まして、成熟したいのは列記とした「性のエネルギー」であるのに、用意ができていない個人にはただオープンに受け止められません。幼い頃は何に対してもオープンハート、マインドだったのに。ティーンはそんなエネルギーに翻弄されて、イライラしたり、孤立したり、表現することを抑圧します。未熟であるのに、社会的に成熟していくことを過度に親や学校、社会から期待され、押し付けられるため、素直にあっけらかんとあることを許されません。世間でいう「大人になりなさい」は、18歳前の子供にはただの標語です。まったく意味を持ちません。二元性な世界にありながら、非二元である事実を常にリマンドし、学校では教えてくれないことをオープンにし、もう一つの目を失わないように、眠ったまま夢の中で苦しみの命に潰されないように。目覚めていなさい。自由でありなさい。性のエネルギーを許しなさい。命の性の力にオープンでありなさい。触れて、感じることをただ許しなさい。エネルギーに正直にありなさい。笑いなさい。怠けるのではなく、厳しくもありながら、小さな己の声とのおしゃべりはやめなさい。対極ではなく、真ん中にいなさい。そうしたら、この世界は勝手にちゃんとピースフルに機能していく。できること、できないこと、個の性格や質が恩寵の中勝手に生かされていく。口が酸っぱくなるまで、いつかは手を離すのだからと、今は毎日娘を見守り、伝える日々です。そして娘がわたしのように将来生きなくても、伝わらなくても、それはそれで彼女の命であり、パーフェクトなのです。ただ今できることは、ということだけです。

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  • 29Oct
    • 禅もタントラも指圧も

      ( the picture is borrowed )先日、指圧ワーク「慈恩」を受けてくれたイギリス人の男性は、左肩や腕、背中などの痛みや、首、ひじの痛みなどがよくある方でした。たどっていくと、胆嚢が過剰になっているようでした。胆嚢は肝臓とリンクがあり、感情でいうと怒りと関連しています。怒りを抑圧することを無意識にしてしまう人はとても多いです。完全にリラックスすることは、実は難しい。力を抜くことは理性ではないからです。呼吸を腹から深く吐き出してから吸うことができないこと、そしてあらゆる固定概念と癖と幻想により常に心身ともに緊張していること。頭はパンパン、体も心もカチカチになってしまい、抑圧された怒りは火に油をそそぐようなものです。日常会話をあえてしてしまうような、そんな「箱」を離れて初めて、自然と言葉が出てこなくなる。自然と無口、無言になってしまう。もう「考える」ことができなくなってしまう。任せることしか、委ねて、ダイブすることしかできなくなる。そのときエネルギー、氣はオープニングをそっと、時にダイナミックに見せます。男でも女でも、何歳でもどんな背景でも、それは全く変わらない層です。とにかく力で押す、テクニックで操る、触る、ということが無意識に機械的になると、ただの「指圧」で終わってしまいます。変なデタラメではなくて、武道とタントラもなんでも実は同じ原理であり、相手と自分が消えたとき、世界が消えたとき、囲いが外れたとき、そこに何もなく、誰もいないとき、静寂な動きと動きの静寂だけのとき、ワークもセックスも武道も日常の全て全部が同じ、であることが明らかになります。女性であれ、男性であれ、ポイントは「相手」でないから。タントラはそこにあえてダイレクトに導くことで、「自分」と「誰か」の境界線を自然に取り払ってしまう。「誰か」しか愛せない、動けない、ケアできないのではなく、「誰も」が同じであること、真なるワンネスしかないことをただあるがまま知っていく。全てはエネルギーの「交尾」それそのもの。だから「誰か」だけではない絶対的なピュアな愛を発散できるようになる。それは「そうしよう」と意気込むから出るものではなくて、自然と身に付けていく、なっていくだけのもの。セッション後、その方はとても脱力して、すごく疲れたと言っていました。あれだけカチカチだったのが緩めば、まるで激しい運動をしたように、力が抜けてどっときます。「なんだかぼーっとして、変な感じだ。言葉がでない」と言っていましたが、それこそが「慈恩」。タントラも禅も「慈恩」も全部同じものです。イギリス在ですが、受けてみたいという方はいつでもメールでお知らせくださいね。また近いうちにスカイプの対話セッションも改めて募集しようと思っています。もうなんか、待っているというか、足踏みをしているときではなくて、どんどん「箱」から出るときなのです。たったひとりでも、少しでも。もうカチカチでは通用できない流れです。窮屈で窮屈で。今5、60歳以上の年配の方々までが持っている「社会や世界とは」は、その人達のものです。それを丸ごと引き継いでいくときじゃ、もうないです。古き良きものはもちろん、新しいものと同じくらいある。全てを否定するのでも、肯定するのでもなく、よいものはただ当たり前に残っていく。ただ本当に、命のピュアさがこれから「何があっても大丈夫」のときを生きる世代の鍵です。もう窮屈で、頭を固めている場合じゃない。禅は頭を切ります。ピュアなその直感だけがものを言う、生きるのです。「自我」「個人のわたし」はもう窮屈でリミットだらけです。社会と世界を平和に作っていきたいなら、そこから出る、頭を切る、真剣に。が鍵です。自然な宇宙のサイエンスが、そしたら勝手にルートを作っていくし、ある人にはいろいろな啓示というか、情報ややり方が勝手につながっていきます。もうそろそろそんな切羽詰ったというか、さて本腰、という感じです。

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    • 命のメロディー

      ときに命は無残でフェアに見えない。選んだわけではない突然訪れる死や悲劇などは、どうしてなのか理解できない。いつだって命は死を含んでいる。悲しみや、離別や、苦しみという名の出来事も。憎しみや疑いも。常に儚さと紙一重。希望を持ち続けることも、生きていることにひたすら感謝することも、その儚さを消してしまうことはできない。儚さを何かで理解して納得することはできない。命の永遠性は納得できない。儚さを、危うさを含めたそのものを、逃げることも、分かろうと受け入れようともしないなら、丸ごとの命そのままが広がる。死という終わりのない広がりが奏でるメロディーこそが命という止まらない流れである。そう知ったとき初めてあなたを安眠させる。永遠の安眠と目覚めを手にする。

  • 26Oct
    • ケルトの火

      冬の足音がする。カラフルな色彩から簡素な墨画の景色になっていく。夏に放出し、出し切れるまで出し切ったものが、折り返し再び質を変えて戻ってくる。この季節はしみじみとそれを感じる。外側に色がないから、内側で色を足そうとしてしまうため、悲しみやメランコリーや切なさの味付けをしてしまいがちになる。肺は防御のために鎧をつけていく。木枯らしと共にそんなあなたの隙を見て、深い夜の光を嫌うものが忍び寄る。秋冬は内なる灯火をさらに燃やし、忍び寄る闇達を追い払わねばならない。凛とし、気にしないように、全く何も違いはないという知性を灯火にする。だからケルトは火を使った。ハロウィンは、光で闇を追い払う。11月は新しい始まり、なのだ。真冬は凍りつかない流れる水であれ。恐れで氷にならないように、火で温めて、闇と暮らすのだ。恐れはいらない。恐れを敵にする必要はない。ただただ、恐れるものなど、はなからないだけだ。

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  • 25Oct
    • 真剣を知る

      ドラマチックじゃないとつまらない?分かりやすさに頼っていても行き止まりはいつかやってくるよどうしてかって分かろうとすることはただの雑音だからさ雑音はあれこれおしゃべりばかりで全然真剣じゃないのさ雑音を止めることからしか真剣にはなれないんだよシリアスさと真剣さは全く違うシリアスさはただの雑音真剣ではなく木剣真剣は切る切れる、という可能性を確実に知ってるから雑音のない唯一無為と一体が間違いなく完璧に切る切る、は真剣だ真剣は切る微塵も雑音があっては切れない真剣は自分がないもういないんだよだから真剣そのものが生きてくるんだ無心は真剣だよボーっとしてなんでもいいが無心じゃないよただ勝手に真剣だと無心なんだ全てに息吹が吹き込まれるんだ雑音の無心や無我は切れないよ木剣さドラマチックさを求めていないが、紛れもなく格好よくドラマチックで、レジェンド、神秘で、品格があるのはシリアスじゃなく真剣の方だよ無駄がないのさ真剣はいつだって切るのさ礼儀を持って魂を空へ帰すだろう真剣とシリアスをごちゃ混ぜにしないことだよ雑音が消えていくと真剣になるんだよ何をしてても全てがただドラマチックに真剣になるんだ

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  • 21Oct
    • 天の衣

      マインドを清め声を清めハートを清めスピリットを清め体を清め地を清めよ天の衣を纏い唄い 踊り生き 死に笑い 泣きながら

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  • 17Oct
    • 勇気は理性では養えない

      (the picture is borrowed)昨日の記事⇩の続きになります。強がりであることと真なる強さを持っていることの違い。強がりは、物質の世界の理性で創り上げた幻想です。真なる強さ勇気とは、精神の知性からの贈り物。だから勇気とは、目に見える世界でリミットを知らず、状態や状況に振り回されず、創造的な柔軟性と同一です。なりふり構わずの受容と突進の結びです。第一チャクラは性と生のベースなので、幼い頃、そして大人になってからも、スムーズにいかない、限定化され、抑圧され、また固定化された「生」と「性」の出来事や感情はブロックになります。「私は大丈夫」「こんなの平気」「私は悲しくない」「私は寂しくない」「私は傷ついていない」「私は恐くない」と洗脳と保護のために理性を使って肯定しても、ブロックはさらに重くなるだけです。大人になるとそういう子供の頃にできたブロックを、社会性や立場や年齢のために見てみぬふりをして、あえて目を背け、幻想の中で「こんなことくらいで」と強がります。本当は傷ついていたり、辛かったり、悲しかったり、恐れていたりするのに、これくらいで、と勝手に理論的に片付けてしまうのです。作り上げた個性でさらに隠して、目に見える成功や達成などでさらに隠して、実は裸になるとボロボロと崩れてしまう。とくに女性は、性質上何でも受け入れることができてしまうため、自分で作った架空の「大丈夫」で何でもやり過ごしてしまう。強い自分が好きだとか、独りで平気とか、分かり合えなくてもいいとか、しまいには弱い他人を全く感じてあげることができなくなる。真なる勇気は、思い切りついている傷を、重荷を、真っ向から立ち向かって見て、さらけ出すことからしか始まらない。これだけこう感じているのだ、これだけ辛く、傷が痛く、心が張り裂けそうで、恐くてどうしようもないのだと、幻想の自分で幻想の自分に真っ向から向き合うこと。こんなにも持っていたのだと愕然と絶望し、苦しむこと。それをしないで、どうして誰か他の人が助けることなどできるでしょう。素直になるとはそういうことです。素直であれば、自然といつか、勇気を知っていくから。理性での強がり、強気は、じゃあ裸になれと言われたら、絶対になれないのです。幻想の自分があまりに重すぎて、厚すぎて、本来の透明な裸の自分なんて知らないからです。勇気は叡智から、真理からやってくる。誰もが持っている魂の素晴らしい意志、スピリットです。それは理性では全くわからないものです。

  • 16Oct
    • 強がりと真の強さの違い

      サルディニアの海。魂の底から懐かしく、またすぐにでも帰りたいところ。ロンドンでの「慈恩」の個人セッションは、この度は人数が集まらなかったためお流れとなりました。日本人の方とのつながりがないため、集客や宣伝などを自分から積極的にしないならないようですが。地元でこの仕事をしていて思ったのは、ロンドンで予定していた少ない時間の中で、休みなしに「慈恩」のセッションをすることは厳しかっただろうということ。なのでこの結果で今は良かったと感じます。またあらためていつかプランしてみたいと思いますし、「慈恩」の指圧の個人セッションもいいけれど、全く別のカタチでもむしろいい。特に女性、十代の娘などに対しても、性のエネルギー、タントラ、チャクラの智慧などももっとまとめて伝えていくことをしていきたいです。もちろん「慈恩」のセッションを受けてみたいという方は、いつでも出張できますので、ご一報をくださいね。先日「慈恩」の個人セッションを受けてくださったイギリス人女性は、今年は色々なストレスが重なり、慢性化した脚の痛みや痺れがあったり、最近では腰とお腹の痛みがありと、安眠できずにいました。人の体に触れさせてもらい、目を閉じ、呼吸を合わせ、その人の命の型のようなものを共に剥いでいく作業に入ると、いつでも誰でも同じ境地というか、エリアに立ちます。それは、何歳でも、国籍がなんであれ、男でも女でも、どんな個性を持っていようが、どんなに立派な社会的地位や責任や価値を持っていようが、何を持っていようが、どんなに頭が良かろうが、どんな過去を持っていようが、どんな病や傷を持っていて、苦しんでいようが、全くみんな同じであるということ。宗教などは、「どんな敵も悪人でも許し、愛しなさい」というような教えがありますが、その深い本来の意味を、勝手にエゴの観点で「綺麗事」に変えてしまった民の一つに、日本人が挙げられるでしょう。日本人は真なる「ワンネス」を知っていた魂の持ち主でした。伝統武道も、武士道も、真なる愛の境地、本来無一物という境地を智慧として体得していたので、戦場であろうと、日常であろうと、綺麗事ではなく、そういう心であれた人間が多かったのです。自分と、誰か特別な人のみを「愛する」ことしかできなくなったから、私達はどんどん盲目になり、概念に縛られて、美しい人の神性さを失っていったのです。「愛情」とは、ただのエゴです。ただのエゴは、真なる一つの愛を知りません。施術し始めてものの5分後くらいに、訊いてもいないのに、その方はこう言いました。「幼い頃から母が、痛みを感じないで生きれるようにと教えたの」と。だから身体的に痛みに強く、不快にも強いのだと。7つくらいの時に、赤の他人にある性的なトラウマとなるようなことを受けたことがあり、その後「恐くないように、潰されないように、忘れて強くなりなさい」と母に言われて、自分もそうやってずっと来たと話してくれました。その方の皮膚、体は、とにかく分厚く(太っているわけではなく)とにかく「押し」が入らないのです。どこもかしこも、皮膚が「あなたを守る」と鎧に、防御になってきたように。だから痛みも繊細になかなか感じれない。なので「不快」もぼんやりとしか感じれない。その方の首に触れた時に、何かがようやく解け、至福になり、動き、この見える世界の余計なカチカチの糸がプツリと切れたのがわかりました。体はそれをずっと待っていたし、今ようやくまた彼女の霊性の体が動き出す感じがしました。終わった後、目を開けると、「白い煙のような、もやが見える」とおっしゃっていましたが、二つの目が閉じ、第三の目が活性化したからです。何歳になっても、7さいの頃のあの出来事の時の同じ気持ちになり、7さいに戻った気がするのだと言っていました。そう、体は大きくなっても、みんな本当に子供のまま大人になってしまう。昇華されないものをカチカチにして、重くなって、子供のように未熟な心で、この社会でなんとかコントロールしようとだけしている。強がっている人は、嵐が来たらぽきっと折れてしまう。実はとても怖がりで、繊細で、腎臓に恐怖の影を落としてしまう。柳のようなしなやかな強さに戻っていくには、未熟な魂を、精神を、体を、より成熟した光の体と叡智とつなげていくことからです。

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    • 神聖さ

      「わたしは称賛される者であり軽蔑される者であるわたしは売春婦であり聖者であるわたしは妻であり処女であるわたしは不生女であり多くの息子がいるわたしは理解しえない沈黙であるわたしは口にされた自分の名前である」- - キリスト グノーシス福音書上のものを下にし下のものを上にするとき男を女にし女を男にするとき成熟と幼子の心が溶け聖と俗が交わるときあなはたは牢獄から天の国へと入るだろう命の扉を閉ざしてはならない名前をつけてはならない眩いほどの命の光へ祈りと共に入っていきなさいマグダラのマリアからのインスピレーションメッセージ

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  • 12Oct
    • 無音

      「無」すら無い「無すら無い」すら無いどこにも辿り着けないどこからも始まらない「無」を観察しているのは「それ」では無い「無」を理解しているのももちろん「それ」では無い「無」であるものは何もない「それ」は「無」ではないからだ風にのり、旗がパタパタとせわしなく動いている風が旗を動かしているのか?旗が勝手に動いているのか?私の顔についている鼻は低くて丸いけれど、それはそうであり、ただどうすることもできないように風は吹き、旗は舞っている「心」は「マインド」が動かないとき、風は吹き、旗は舞っている「無」と言葉にするのも惜しいほどにただ絶対なる真理なのであるそれは「無」すら超えてただ一つ終わりも始まりもなく言葉を超えたワンネス

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  • 11Oct
    • ”聖なるパートナー”

      (the picture is borrowed)性のエネルギーは命のエネルギー。それは個を創り、個を壊し、個を溶かし、個を消して、また個に戻るサイクルのエネルギーです。個の人だけではなく、全ての事象、森羅万象を創造する、同じエネルギー。性のエネルギーは頭での概念上の「性」だけには留まらず、全てを包括する創造のエネルギーです。森羅万象は陰陽の、天地の、精神と物質の、シヴァとシャクティーの交わり合いによって起こっている。性のエネルギーとは「I AM〜」「わたし」「個人」のエネルギーではなかったのだけれど、年齢を重ねていくと、人間世界で「わたし」は名前になり、環境になり、誰かになり、社会になり、データー、概念、思考、感情になっていくため、その自然なエネルギーを制御するようになります。それが分離の現象です。思春期を迎えて、性のエネルギーがどんどん量は増えていき、チャクラを押し上げていくけれど、重みがあり、質がクリアでなく、封印された抑圧された「わたし」のために、エネルギーは上昇できないまま、変容できないまま、同じところをぐるぐるしたり、さらに封印されてしまいます。性のエネルギーとは「性」に対することだけではなく、分離して重たく概念で出来上がった「個人」の全てのエネルギーなので、もちろんそれと並行に「性」への全ても比例してくる。つまり、「個人のエネルギーが「性」へのエネルギーと同一であると言えます。「性」という表れではなくても、データーで信じ込まれた「個人」から打破することもできず、全てを概念で見て、世界を、命を固く、重く、変化のないもの、進化のないもののまま生きていってしまう。「個人」は「知らないこと」を恐れます。わかっていることで安心し、未知なるエリアへダイブすることは勇気がいります。「個人」から出るとは、あらゆるエリアで未知との遭遇となるからです。そういう意味で、タントラヨガが伝える「性」に直接向かいあうことは、実は分離に気づき、個人を打破し、未知なる本来の自己へと、真なる瞑想のあり方へと進化していく、目覚めた命に実践的になっていく近道なのです。ただ、個人が性に対してオープンだからいいということではなく、そこから全体、瞑想的なさらなる精神の深み、命の本性に「性」は連れて行ってくれる。けれどまず、個人が性に対してオープンになっていくことで、その深みの可能性が出てくる。肉欲的なグロテスクな性のエネルギーから、「個人」の世界から、宇宙的な聖なる性のエネルギー、「全体」へと変容していくプロセスにおいて、自然科学は共鳴し、叡智となり、人間の可能性と目覚めの質の段階が異なってきます。なので、どれだけ「悟った」という人間も、全ては根元はエネルギー、氣の神秘なので、無意識に聖になっていない部分のエネルギーを持ったまま、気づかずに、もしくは知らずに「悟り」や「目覚め」を体験しているかもしれないことになります。簡単に言ってしまえば、一番根本の「性」において、何一つ概念がなく、無我そしてそのものそのまま、なんでもただあるがままでエネルギーになりえたとき、(性の表現だけでなく、いわゆるブッダやキリストも伝える魔境、マーラはその段階で起こる)天と地が一本に繋がる、伸びきる、深みがあり、どの段階も経て、行き来の通路ができる、またその段階性が、宇宙の科学と真なる我の真理と共鳴することになります。今日は16年目の結婚記念日でした。お互いすっかり忘れていました。笑「結婚」なんてただの名前で概念です。神聖さは「結婚」「夫婦」にあるのではないこと。「結婚」なんていらないわ、本当に。笑一緒にいればいい。いない時もあれば、他の人を好きに成っても全然いい。結婚というシステムに命を無駄に削らないこと!世界の女性へ、男性へそう伝えたいです。

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  • 10Oct
    • too many mind ー個人のノイズは性のノイズ

      (the picture is borrowed)何かを証明したり、確認したいがためにしていることは、いずれかはストップがかかります。人は「自分個人」の中で、「自分個人」と常におしゃべりをしている状態です。どれだけ他人が関わろうと、環境が変わろうと、「自分個人」のおしゃべり=雑音、ノイズがないところへとダイブしない限り、命の真理は出てこない。出てこないからどんどんノイズだけが増えて、ストップしてばかりになり、限度しか見えないから苦しみのネガティブで重たいエネルギーで悪循環に陥る。自分という命を知る真理の旅には、いろいろなツールがあります。神も愛も禅もタオも、「個人のノイズ」が微塵もない「何か」を指しています。けれどそれは「何か」ではありません。だから理屈では語れず、分からないものです。禅は率直にその「何か」をこう伝えます。「Something でもNothingでも同時にない」「何か」でもなければ、「何でもない」でもない。「何でもない、ナッシング」とは所詮個物化の「何か」であるから。だから禅はどこにも行けないからこそ、すべてに行き渡るのです。私たちは「自分個人」が「何か」であると信じて疑わないので、何かを常に求めて、雑音で満たしている。じゃあ次に「何かではない何か」をまた探そうとする。それまでもがまた新たな雑音であると気づき、それすらも消えていくと、言葉や概念を超えたマインドそのものが流れていく。余計なおしゃべりのない、潔さが出てくる。生き方になっていく。昔の日本人は「個人」のない「無我無心」のエネルギーの人が多くいました。霊性そのものに長けていたんです。無我無心こそが、個人の個人に対するおしゃべりノイズがない愛そのもの、神そのものの精神性こそが、この物質的な世界で通り過ぎていくもっともな鍵であり、民、国、周り、自然、すべてが和合する唯一の性であることを、魂の底から知っていて体現できる人間がたくさんいた。また、物質的な「自分個人」とは性のエネルギーの表現です。明治のあたりまで日本人はもっと性に対してオープンでした。「無我」なので、ベースのエネルギーチャクラが自然と固定されることなく、活発な女性が多かったから、性に対してあっけらかんとし、男性も精力に溢れていて、ぽんぽん子供も産みました。「無我無心」のお侍さんや日本の兵達は性のエネルギーがみなぎり、腹がすわって男気が恐ろしいほどあったので、どんなに背が低かったりしていても、西洋人は負けていることを知っていました。男らしさ、女らしさ。たくましさ、ふくよかさ。強さ、優しさ。硬さ、柔らかさ。そういうものがはっきりと活発だったのは、ベースのエネルギー、性のエネルギーにブロックが少なかったから。いわゆる「無我」になれる、生きれる人が多かったのです。性のエネルギーは宇宙の科学です。それは常に「無我」とのコラボレーション。無我とは微塵も「個人」がなく、またその先には「無我」すらも存在しなくなる究極の悟り。「我」がなくなり「無」がなくなり、それらを見つめる何かすらなくなりなくなる、すらなくなる。。。。「無である」というviewが、目が最終的には落ちる。理屈や理解で終わっていても、ただの言葉遊びなだけなのです。

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    • 女性性

      女性に生まれたあなたはなんでも受け取ってしまい受け入れてしまう出すよりも溜め込むから素直になれないまま隠れる女性なら、素直であれたら救われる本当はもう知っている命の家へ帰りたいのだと違う身体を持つ男性にはあなたを家へ連れて行くことは実はできないのだと男性という生き物の多くはあなたが受け入れ、吸い込んだ、まるごとを愛せないとあなたは素直にすでに知っているあなたは女になれ男にも完全になれると男達は両方はなれない要素を使えるだけ女は両方の乳房と卵巣と男の赤ん坊すら胎内で受け取り同一になれる生き物だ女はみな素直に情熱に官能的に強靭になれる侍にも少女にもなれるあなたは本当はただ素直に裸でいたいのだあなたはそのまま全てと平等に向き合え抱き合いたいのだあなたはあなたを抱きしめていたいのだ個人ではなく飄々と孤立して全てを受け入れ、全てを愛したいのだ男性に生まれたならそんな女性の素直さをただただ認め、慈しんであげなさい自由奔放を、裸の女性を、縛らずに放ってあげなさい女性は全てを包んでいるのだと知れたら、あなたは女性を独立させるだろうあなたも女性から生まれてきたのだから、あなたは女性を知らなければ、自分の性を知れない女性の要素を生かせない女性の霊性を許しなさいそうしたら女性の封印は隠したものは、溶けていく女性を家に帰らせ男性も家に帰る男性は家に帰り女性を背負って、なんでもしてあげること男性が上でも下でもなくただ素直な自然を女性性で開きなさい女性は隠してはならないただ自由を許し、笑いなさい

  • 06Oct
    • 無防備は治癒力

      BBCの実験番組で、マッサージや指圧など直接手で触れる療法が白血球の数を70%も引き上げる結果が出たことを紹介したと、先日義母が興奮して電話してきました。笑義母はもと精神科の看護師だったので、医学とか療法とかは興味があるのですが、それまで指圧はちょっとしっくり来なかったみたいで。白血球は免疫力で、自然治癒力です。またマシーンや物ではなく、手からは霊気が出ているため、直接触れ合う療法はやはりいい。もちろん施術者によりますが。。受けている側が自分を忘れて、触れている側に委ね、一体になれたら、扉は開き、固まりは溶けていく。施術者がリードしているので、やはりまずは施術者の質次第でしょう。わたしのワークは紹介制なので、地元の知り合いに渡すための簡単なリーフレットを作ったのですが、渡す前からありがたいことに口づてで次から次へと予約が入っています。リーフレットでさらに広めるのが、ちょっと億劫なほどに。。心臓に疾患がある方、首に支障がある方、甲状腺の病がある方、鬱の方など。男性も女性も、年齢も忘れ、無防備になれたとき、自分の固い箱から出たとき、その人はまるで幼い子供のように見えます。身体は、意識は、大人世界で固くなり、疲れていたり、混乱している。真なる愛の氣と繋がれず、目隠しで必死に生き延びようと、なんとかコントロールしようとしている。先日久しぶりにスカイプで日本在住の方と個人対話セッションをする機会に恵まれたのですが、必要なのはインテリジェンスでの防御ではなく、アホになって繋がれるウィズダム、智慧です、とお伝えしました。インテリジェンスはあればただついてくるものだから。智慧はまずは探さないと、見つけないと、見えてこないものです。インテリジェンスな論理的な理性的なことは、勝手に成り立っていくもの。智慧さえあれば、包括されて。智慧がない理性やインテリジェンスばかりが世界を引っ張っていってるから、真なる可能性が見えないし、意識は固定され、自我だけの奥域のないことしかわからない。白血球はシンプルに、自我を忘れ無防備に、アホになったら、他者と自分の境界線がなくなったら、真なる愛に、真なる平和の無限に入ったら、勝手に治癒力となり、増えてくれる。短時間で。自然体がなんなのか、頭で考えてばかりいるから繋がれないのです。勝手に増える白血球。これは私、自分、自我がなしてるものじゃない。どこまでも果てしない奇想天外、天地総合、無我無心だけが真理であり、真なる愛と平和の道です。戦おう、戦おう、を超えた果てに、必要な受容と突き進みがただ現れていくのです。そういう在り方の日本人が昔はたくさんいました。必要な戦いは、勝手に向うから来るだけだから、鎧なく無防備な心で、流れ、突き進むだけです。勝手に白血球が増えてくれるように。

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バージェスあつこ

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O型
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海外
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バージェスあつこ 18歳からイギリスに住み始める 今年で在英21年 ジャーナリズム/メディア学科...

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