ふらりと家を出てそのまま戻って来ない。一つの家出のすがた、でもこれは違う。家を出たときは目的があった。手紙をポストに入れること、これだけのことだ。病気の友人にお見舞いの言葉を書いて送る。今のメールでもそうだが、送る寸前まで迷うことがある。ポストに入れてから気が変わったり、間違いに気づいたり。郵便は郵便局に急行すれば戻せないこともない。しかしメールはポチッとしたら行ってしまう。どっちにしろ手紙類は慎重にする必要がある。
ハロルド・フライはポストをためらう内に気が変わってきた。
ここからの彼の信念は宗教的である。我が行為が神に通じる、とでも思ったのだろう。しかし彼は無宗教っぽい。神を介在するとロクなことにならない。宗教が身近にある環境だからこそ、そう思わせることがあったのだろう。日本人は無意識的な無宗教、彼らは意識して宗教から遠ざかっている。でもキリストを無視することはない。それは宗教者、信者をディスることになるからだ。
まるで彼の信者のように勝手について来た人たちとも仲良くするし、来るもの拒まずの姿勢は好ましい。
この辺りで似ている映画を思い起こした。同じくイギリス映画で「君を想い、バスに乗る」、老男性がイギリスを縦断する。バスに乗って北部から南部の端まで行く。途中からSNSで知った人からの声援を受け、終着地には人々がおおぜい待っていた。
老人がある想いから遠路はるか大移動するのが共通してる。当人にとっては重要な理由がある。居ても立っても居られない、と言うような気持ちだ。これは他人には分かってもらえないかもしれない。同じく共通するのは子どもについてだ。亡くした我が子はいとおしい。可愛がって育てたつもりでいても相手がそう感じていないなら、可愛がらなかったに等しい。ここには人と人の気持ちのすれ違いが根本にある。
人と人は分かり合えないものと思っていた方がいい。これは些細なことから重大なことまで内容に軽重があっても、伝わるかどうかは関係ない。じっくり話せば分かるかもしれないが、毎日の日々の暮らしでいちいち説明してじっくり話し合うのはめんどくさいし無理だ。その毎日の微かな残りかすのようなものが次第に溜まっていって、いつか爆発する。あるいは家出してやり直しにかかる。
爆発より家出の方が穏やかでいい方法だ。私なら家出して行きたかった所のいくつかをめぐってみたい。一人旅は良いものだ。昔したことがある。周遊券を持って宿も決めず毎日を気ままに過ごす。この自由な気分は今思い出しても懐かしい。でも今これからやれるかは分からない。気持ちが焦って足がつっかえて、行きたいところの半分でも行けたら上等だ。
幸い私には彼のような突き詰めた思いもないから、家出はしない。ただちょっと行ってくるよ、と言うだけでいい。
監督 へティ・マクドナルド
出演 ジム・ブロードベント ペネロープ・ウィルトン リンダ・バセット アール・ケイブ ジョセフ・マイデル モニカ・ゴスマン
2022年