ケス 1996.6.3 シネヴィヴァン六本木 | ギンレイの映画とか

ギンレイの映画とか

 ギンレイ以外も

 ビリー・キャスパーがハヤブサを古屋で見付け、それを飼い始め、餌付けさせ、自分の手に乗せるまでに仕上げた。それはどういう理由からだろう。空を飛ぶハヤブサがまるでビリー自身のように思ったからか、人に服従しないということに、あえて挑戦したのか。身体は小さいし、勉強もまるで出来ないし、教室では上の空。学校ではいじめられっこ、家に帰っても、落ちつく場所はない。父は家を出て、どこにいるか不明だし、母は次なる男を物色中なので、気もそぞろ。兄ジャドとは気が合わない。どこにも、誰にも受け入れられていない。そんな環境にいたんじゃ、何か気晴らしになることをやらなきゃいられない。ビリーが手に入れた「気晴らし」は、それ以上のものだった。

 

 この映画の成功はビリー役のデイビッド・ブラッドリーに負うところが大きい。彼のうったえかけるような顔、いつも悲しそうな目、誰に対してもおどおどしている姿、でもケスと対峙している時のいきいきとした自信のある態度は、彼以外では考えられない。

 

 この映画は1969年のものなのに、ほとんど古くさい感じがないのはなぜだろう。時代を感じさせるものは例えば服装だが、それにしても今リバイバルしているもののように思えるし、町や自然はまったく変わったように見えない。これはイギリスという国が長い間停滞している証拠でもあるし、景色もそうそう変わるものではない。道路を走る車はさすが古いのはわかる。

 

 また60年代のイギリス映画といえば、ケン・ローチは異端ではなかったか。その時代にこの映画を見たとしよう。怒れる若者だとか、ポップアートだとか、ヒッピーだとか、そんな雰囲気の横溢していたこの頃の映画と比較すると、まともなこの映画に、私がどう反応したか興味深い。いままでこうして多くの作品がまったく紹介されることなく、埋もれていったこと。それがこうして少しづつではあるが公開されることはいいことだ。

 

 ビリーは強い信念とか、高い志をもってケスを飼い慣らそうとしたのでもないだろう。興味を持ち始め、飼い始める内にのめり込んでいった、という感じか。何かを集めるとかではなく、このように生き物を相手にするのは、ぜんぜん違う感覚だ。相手がどう出てくるか、どう反応するかによって、こちらがどうする、が決まってくるからだ。餌を手から捕っていくようになり、距離を少しづつ離していき、つないでいたロープを外し、という過程はどんなに心躍るものだったろう。教室でこのことを話す時のビリーの表情の力強いことこのうえない。それまでの彼の人生で最良の時だったのではないか。

 

 ビリーはケスを見付けた。私はこの映画を見付けた。ケン・ローチをさらに見たい。

 

監督 ケン・ローチ

出演 デイヴィッド・ブラッドリー コリン・ウェランド リン・ペレー、フレディ・フレッチ

1969年