幸福 2018.3.27 早稲田松竹 | ギンレイの映画とか

ギンレイの映画とか

 ギンレイ以外も

 幸せって何? とみんなに問うてみたい。これは監督の考える幸福ではない。主人公フランソワの幸せを描いている。結婚して子どもが2人いて仕事も順調、傍目からは幸福にしか見えない家族だ。今日も郊外へピクニックに来ている。他人から見た印象は当てにならないと言えるが、この家族は自分たちでも幸福と認識している。この時点では不幸の入る隙はないように思われる。

 

 油断でもない、ドン・ファンのような男には見えない。女性に対して遠慮がないか無神経か強引か。軽々しく付き合いはじめるところは、女性に積極的だ。たぶん結婚のいきさつも似たようなものだろう。彼が押して押して結婚に至った。その積極性が今回も同じように作用した。結婚するための経緯と浮気のそれが同一なのだ。少しの変わりもない。でも新しい恋人エミリーに結婚を迫ることはない。よくある離婚するから、という常套文句で釣ろうとはしない。でも彼に悪気はなかったとは思わない。むしろ少しも悪いことと思っていないことが変だ。 

 

 フランスの法律でも結婚は男女をしばる決まりになっていると思う。だから当然のように、結婚している限り浮気はだめだ。でもそういう気持ちになったらどうするか。たとえ浮気しても本気にならないこと。でも浮気に対する意識の差が男女間にはある。男がほんの軽い浮気のつもりでも、それはダメかもしれない。その意識で、女性に話しかけてもいけないとまで言われたらかなわない。男はおおむね軽く考えたがる。話すくらいなら、お茶くらいなら、ワインの一杯なら、とエスカレートする。 

 

 さてこの映画の登場人物で考えてみよう。夫フランソワ、妻テレーズ、2人の子どもジズー、ピエロはまだ幼い。内装工事の職人、建築現場に出向いたり、工場で家具等を作る仕事をしている。ある日、出先で電話交換手に電話を申し込んだ。当時は電話は申し込んで繋いでもらうようになっていた。受付の女性が気に入って、ちょっとお茶でもとさそう。出先なので家に気を使うこともない。さらに土曜日に仕事があると嘘をついて彼女の家に行ってしまう。家に戻るとなにくわぬ顔で誕生パーティに出る。 

 

 ここまではよくある話だ。誰もが経験することではないが、ありきたりのことだ。問題はこの先にある。 

 

 それは自分がこのことに自責の念もなければ、妻に済まないとも思っていないことだ。動物としての人間の本能、自然現象と思っているらしい。まさかこんな人はいないだろう。外に女を囲っていることが普通にあった時代ならともかく、20世紀の世の中に、こんな天然に自分だけ過去の良き時代に生きている男がいた。 

 

 このような極端を描いたのは監督の狙いだろう。文明国フランス20世紀、フランソワは奇跡の存在だ。だが国が違えば今だってなくはない。考え方しだい、と言ってしまえばそれまでのこと。 

 

 そう、忘れていた。相手の女性はどうだ。エミリーはフランソワに妻と子どもがいるのは承知していた。ああそれなのに、彼と付き合うのになんの躊躇もみせなかった。彼と同じ気持ちで接する。同じ気持ちの男女が揃いも揃って出会ったのだ。気持ちがぴったり合えば、くっつく道理だ。だって間違ったことをしている意識がないから。幸福という名を、この二人に付けよう。 

 

監督 アニエス・ヴァルダ

出演 ジャン・クロード・ドルオー クレール・ドルオー サンドリーヌ・ドルオー オリヴィエ・ドルオー マリー・フランス・ボワイエ

1964年