こういう感じの映像やセリフは最先端をいっているようで、古びるのは早い。10年もたてばカビ臭くなると思う。しかも渋谷新宿をうろうろするなんて今でも嫌だ。新宿のごみごみした喧騒と渋谷の落ち着きのなさ、用事がなければ行きたいと思わないところだ。
ではどこが好きな場所か、よくわからない。慣れた東京であっても行くところは限られているし、行ってない所は多い。それなら片っ端から歩き回ればいいと思うが、それには広すぎる。また車を運転しないので道路の状況がわからない。地名は駅名で知るばかりで、それ以外の中間点を知らない。つまり赤坂と六本木と国会の位置関係がわからない。そんな具合だから歩きではなく自転車で走り回るのが良いかもしれない。でも方向音痴気味でもあるので迷うだろうなあ。
建築現場で働く男たちは日雇い人夫のようだ。昔の映画「どっこい生きている」が今によみがえったように思えた。日雇いのヨイトマケが正社員になり、また日雇いに戻ったのは社会状況を反映した歴史の後退だ。労働者を働かせる仕組みが巧妙になり、ただ働きではないが、それに近い、いやより過酷な働らせ方が導入されようとしている。現代の職場を描けばそんな状況を見せないわけにはいかない。ただ現実がこうなのだから、それを見せますというのは映画としての志が低い。そんなのばかりだ。
思えば昔は良かった。この言葉は昔を懐かしむ時に使われる言葉だが、ただのノスタルジーではない。良かった部分はあった。労働環境だ。組合があってストライキがあって電車が止まって毎年昇給があった。いまや働く側の勢いはない。なぜなら組合の力が弱くなったからだ。あるべき労働組合の形をなした組織はほとんどなくなった。そこに現在の労働者の悲惨な立場から救われる道が見つからない要因がある。
看護師の美香と建設労働者の慎二が偶然出会った場所が渋谷と新宿。これだけたくさんの人がうごめく街で何度も会ったのは偶然か。広い東京でも出会う偶然はある。誰にでもそんな経験があるだろう。世間は案外狭いのだ。出会った偶然は覚えているけど、出会わない日常は忘れてしまうってことでもある。残るのは偶然の方になる。
こういう散文の連なりでできているような話を、こちらでうまく組み立てて整理する必要はない。そのままの形で受け入れる、これが正しい見方だ。だいたい人はこんな風にまとまりのない会話をしたり、つじつまの合わない言葉を発して、言いわけをして生きている。こんなのが真実であって、でもこういうのは物語にならないから、作者はうまくまとめる。それをあえてせずに、そっけない会話をさせる。そこが面白さであり、つまらないと思うところでもある。
映画によくある分かりにくさが、ここにはない。話はわかる。でも登場人物の一貫性のなさは困る。小説や映画はそこをうまく整理してまとめる。それがないと物足りないし面白くない。それをあえて放棄したか、ねらいでそうしたのだろう。そこに乗れるかどうかだ。
看護師の美香が夜勤の休憩時に建物の裏でタバコを吸う場面は「アスファルト」を真似してるのかなと思う。健康に留意するのが当然なのを逆手にとってます、という反発する気持ちを想定した作りものめいたいやらしさを感じた。それは私が素直でないかもしれない。でもそう思ったのだからしょうがない。ではフランス映画なら問題なかったのか。はい、ぜんぜん、フランスはそういう人の多いところですので。まあタバコについては、じんましんが起きてしまうようなくらい嫌いなので映画では使って欲しくない。時間かせぎと場面つなぎに使うのだろうが止めて欲しい。
ストリートミュージシャンが2人の行くところ行くところで歌っている。ミュージシャンは他人に聞いてほしいから人通りの多い場所で歌う。実際にそうしてプロになった人もいるし、悪くない活動だ。だけどどうして歌まで気分を逆なでするようなのだろう。あれ好きな人いるかな。失礼だけど嫌いです。それでもプロデビューするようで良かったね。それを羨ましそうに見る2人もなさけない。
どうもまとまりにない話に引きずられて、落ち着き先を見つけられない。でもこんなのが案外残るのだ。こだわりは重い。
ときおり挟まれる詩の一片のような言葉、きらめく光に惑わされる夜の街。そこを歩く人たち、関わりのない人がいくらいても意味がない。ふれあいがどういうことから始まりどういうように終わるのか。東京はこんな人たちばかりが集まる街になってしまったのか、それともずっとそうだったのか、私にはわからない。
監督 石井裕也
出演 石橋静河 池松壮亮 佐藤玲 三浦貴大 ポール・マグサリン 市川実日子 松田龍平 田中哲司 大西力
2017年