ナチュラルウーマン 2018.3.10 シネスイッチ銀座2 | ギンレイの映画とか

ギンレイの映画とか

 ギンレイ以外も

 人の性格や嗜好を、わざわざあげつらう必要がないのと同様に、人の性癖を云々する必要はない。男女の区別がさまざまに言われるようになって、他人のではなく自分のそれもよく考えてみる必要が出てきた。

 

 自分は女性が好きだ、男性はどうだろう。そうすると男も愛情をかける対象と思う人もいるだろう。あるいは女性はだめで、男にしか興味ない人もいるだろう。また自分はどうも男性の気がしないと思っていたり、見かけは女性なのに気持ちは男性で、身体と心が別々な人がいる。

 

 そんなこんないろいろあって、最近ではそれらがきちんと分けて整理が付けられるようになった。自分がいったいどの領域のどの位置にいるのか、分別される数は多いだろう。考えてみると、どこかに所属しているかもしれない。男は男、女は女と決められた区分けから解放されて自由を得たことから、考え方も自由に解放されつつある。

 

 時代がものの見方を変えさせる。その考え方が一般的になると、以前あった過ちや偏見がなくなる。この自然な変化がうまく働けばさらに良い方向に向かう。今まさにその状態にあると思う。だがそれだけに混乱していることも事実で、何が正しくて何が間違いかの判断が決定していない。例えばハラスメントについては、穏当な判断を越えた過剰な考え方がまかり通ることさえある。行き過ぎて後戻り、そんなことの繰り返しだ。どんな些細なことでも傷つくことはある。でも全てを同じ俎上にしてはきりがない。

 

 私はこの映画が普通の恋愛映画と同じ体裁で、二人が困難を乗り越えて恋愛を成就させる、よくある話だと思った。それはロミオとジュリエットでの二人の家族間の争いに悩み、葛藤する姿と重ね合わせられる。恋愛のごたごたの種類が増えたのだ。偏見の枠も増して、何をどのように扱えば良いのかも混沌としている。今は整理の時だ。問題の解決策が常識化されていない状態で、自分だけの判断できめつけるのはやめよう。

 

 オルランドは恋人のマリーナの誕生祝いにイグアスの滝への旅行をプレゼントするつもりで、予約した書類をどこかにおき忘れてしまった。それは旅行に行くことをさえぎることではないし、その場での盛り上がりに少し欠けるに過ぎない。それとも忘れっぽくなっただけのことか。といってもまだ57歳だ。マリーナにとって頼りになる年上のオルランドが、その夜突然の事態になろうとは。

 

 家族に隠していたとはいえ、彼らに問題はない。言いにくかった状況は理解できる。でもそれ以降、残されたマリーナに対する言いぐさはひどい。オルランドの家族の、はじめは遠慮がちに、発言は次第に、あからさまにとげとげしくエスカレートしてゆく。

 

 それは心の中では持っていても言葉に出したり、行動に出ることを避ける種類のことだ。差別や偏見の度合いと身近な問題が天秤にかけられると本音が出てしまう。それはある程度仕方ないことである。

 

 他人の、自分に関係のない人のことになら鷹揚になれるし、理解も示せる。それが自分のことか家族のことになると、裏側から本音が見えてくる。このことは胸に手をあてて考えるべきだ。全てのことに対し自分だったらどうであろうかと。

 

監督 セバスティアン・レリオ

出演 ダニエラ・ヴェガ フランシスコ・レジェス ルイス・ニェッコ アリン・クーペンハイム ニコラス・サヴェドラ

2017年