まったく予備知識のないまま見はじめて、びっくり。若者の生態をスタイリッシュに描く冒頭のサーフィンの場面から一転して、大深刻な話題に突入する。
臓器移植をドナー側からと、受け手側からの双方を描いている。もちろん二人に関係性はない。たまたま時期が合致して選ばれたに過ぎない。だが準備段階が全く違う。受け手のクレールは心臓の病気で移植するしかない状況にある。これは時間の問題でもある。悠長に待っていられない。かたやドナーは、もし生前に登録してあったとしても、運用するのは死んだ時だ。ずっと先のことと思っている。
ところが事故は突然ある。死は身近にあると言える。そうなった時、当人は意識がなく考えることはできない。問題は臓器移植を依頼された家族に移る。
連絡を受け、後からやってきた別居中の夫は妻の前で自分を責めた。息子のシモンにサーフィンを教えたのがいけなかった。サーフィンと事故に因果関係はない。ろくに眠らずに海に来て、サーフィンをして車の運転、眠くなる条件がそろっている。サーフィンのあと休息をとってドライブすれば眠くはならない。この簡単な道理を省いたことが原因だ。
臓器移植が盛んに行われるようになったのは、いつ頃からだったろう。医学の発展はすさまじい勢いだ。他人の臓器に拒否反応してしまうのは、大丈夫になったのか。
日本でもドナー登録が普通に行われるようになった。事前に登録しておくのだ。はたしてその実態はどうなのか。登録者数は十分なのか。ドナーの供給と受け入れと手術と、理想的にはオートメーション工場のように進めば良いのだろうが、人の死と生に直接関係する事柄だけに計画して進行するわけではないし、金銭問題も外せない。
状態の良い臓器をもらうのに優先順位はあるのか、あるのなら金で買えるのか、誰が決めるのか。問題は続出するが、実体は分からない。たぶん自分がドナーになるか、もらう方になるかしないと知ろうともしないだろう。映画では問題点はさておき、かなりうまくいった実例の紹介のようになっている。
心臓手術の待機中になくなってしまうこともある。患者は誰も自分を優先してほしいだろうし、臓器の供給はスムーズに進むとは限らない。将来、IPSで作った臓器や、さらに未来になれば人工臓器が作られるだろう。そこまでいくと、身体全体を機械にしてAI頭脳に人の記憶が入ればいいわけで、人の身体は必要なくなる。この話は先を見たらきりがない。SF小説の未来は現実になって、けっきょく行くとこまで行くのだろう。
臓器移植が盛んになっても安全な手術ではない。また国によって対応が異なっていて、日本で認められない手術を外国でやってもらうことが行われている。そんなニュースを聞くにつけ、命に対する執念を思う。
病気にかかる。薬で治す。手術する。ここまでは普通にあることだ。臓器移植などその先にあるものまでは手が届かない。費用を考えてしまうからだ。保険はきかないだろうし、簡単にできることではない。
これと直接関係しないが、不妊の場合、さまざまな治療法があるが、体外受精して他人の子宮で育てるのは、究極の選択だ。これを治療というのもはばかれると思う。試験管で作る生体実験のようだ。やればできることを試してしまうのは人間のエゴでしかない。できることならなんでもやる。それで良い方向になるとは思えない。可能だから実行することは勇気ではない。無茶な行いに過ぎないと思うが、どうだろう。
一方、死んだ息子の身体の一部が他人の身体の中で生きていくのであれば、臓器移植は救いがあるし、論理的な問題はない。ただし、自分がドナーになるか、あるいは家族が当事者になるかは、難しい問題だ。
監督 カテル・キレヴェレ
出演 タハール・ラヒム エマニュエル・セニエ アンヌ・ドルヴァル ギャバン・ヴァルデ ドミニク・ブラン
2016年