ピエールが幼い女の子に執拗にこだわる気持ちは、戦闘機から見た女の子を思ってのことか。操縦する戦闘機から見えた女の子を殺してしまったのか、または墜落したのか。とにかく戦争で何かがあって記憶を失ったが、女の子のことは覚えていた。
それで同じような女の子を見かけると気になってしまう。ちょうどいつも行く駅で、父親とその娘らしき二人を見かけた。父親がある施設の場所を訪ねてきたが、知ってから知らずか、返事が出来ないでいると、二人は駅を出て行ってしまった。二人を追いかけるピエール、女の子にビーズを上げようとするが断られた。二人が着いたところは教会の寄宿施設で、着いたのが遅かったようで、父は早々に帰った。帰る前に日曜日には会いに来ると約束をした、毎週日曜日に。父は預ける荷物を渡すのを忘れたので、門扉に引っ掛けた。
駅に向かう父親を追いかけたが、ちょうどきた電車に乗って行ってしまった。置いていったバッグの中身を見ると、父は娘を捨てたことが分かった。
ピエールは日曜日にあの娘に会いにいった。恋人のマドレーヌには内緒である。少女の名前はフランソワーズというが、本当の名前は明かさない。顔見知りとはいえ、ちょっとだけ言葉を交わしたに過ぎない二人が、日曜日をどのように過ごすのか。
パリの郊外ヴィル・ダヴレ、池のある広い公園がある。冬なので人は少ない。そんな中、赤いコートを着た少女と男は目立つ。コートが赤いのは私の想像。服装くらい明るくないと、景色がよけい寒くなる。赤い服は寒さを少しは和らげてくれるだろう。1日遊んで仲良くなった二人。にわか親子は成功した。来週も来ることになる。シスターはピエールを本当の父親と思っていて、ろくに調べもせず送り出してくれる。
父に捨てられたシベールが父親的存在を求めた気持ちはわかる。12歳ともなれば十分に分かることがあるし、分からないこともある。幼さと大人になりかけの部分が同居している。父親から優しくされた経験があったのだろうか。施設に預けられたことが、すなわち捨てられたと分かったのだから、それまでの生活も分かろうというもの。父親は去ったが、代わりにピエールが来てくれた。
映画と小説は別な分野の別な楽しみだ。同時期に接している小説と映画がたまたま似ていたりすることがある。それは偶然でしかないのだが、その思いがけない偶然を勝手に結びつけてしまう。今回は「若草物語」とこの映画だった。話は似たところはない。無理やりくっつけた。クリスマスを祝うところだ。マーチ家のは暖かい家族と友人たちのクリスマスであり、こちらは寒々しい外でクリスマスを祝おうとする。共通点はクリスマスだけだ。祝おうとする気持ちは同じ、でもキリストは祝ってあげる人を分けた。
おじさんと少女が仲良くしているのは、傍目から見ると父娘としか見えない。仲の良い父娘を微笑ましく思う。でもピエールとシベールが特殊な関係とは思わない。仲良しの友人、遊び友だちと思えば変ではない。でもそれには条件が要る。大人の男性が、少女を性的対象としていないこと。またそうであっても、そのこと自体を悪いこととは思わない。法律に従って行動すれば問題ない。ピエールにそういう気持ちがあったのか。これは重要なことだ。なぜなら、その判断が悲劇に繋がったからだ。自分はそう思っていなくても、そう思う人がいる。
ピエールの戦後を想像してみよう。彼が戦争で得たものはない。失った記憶と失った家族や友人だ。記憶喪失して家族の元に戻れない人は案外いそうだ。その人の気持ちはどんなものかは想像もできない。自分が自分であるという確固たる信念は、記憶が支えるものとすれば、記憶喪失者にはそれがない。宙に浮かんでいるような不安な気持ち。新たな生活を始めたとしても、重ねられる記憶は薄い。
疑いの目で二人を見ると、早急に対策を取らないと大変な事件が起こりそうに思える。傷つけるとか殺すとかは本当の親子間でもある。見かけ上、仲良くても実際のところは分からない。見方を変えれば、どんなことも怪しく思えてしまう。ことの成り行きが危険と思われ、危険な何かを阻止しようとする。この場合、ピエールの恋人の友人の医師が危険を察知した。それが警察の行動に直結した。
この後のシベールのことを思うと悲しくなる。彼女は警察に何を言い、何を訴えたか。少女の言葉は子供のそれとして、素直には受け入れられなかったと思う。またそうでないと、警察の行き過ぎた行為と思われてしまうからだ。一般の大人たちは、警察発表をうのみにするだろう。例外はシベールとマドレーヌだけか。
監督 セルジュ・ブールギニョン
出演 ハーディ・クリューガー パトリシア・ゴッジ ニコール・クールセル ダニエル・イヴェルネル アンドレ・オウマンスキー
1962年