シルクウッド 1985.7.27 シネマスクエアとうきゅう | ギンレイの映画とか

ギンレイの映画とか

 ギンレイ以外も

 原発がどれだけ危険なものであるかは、言を待つまでもないが、こんなに未開発かつ不完全な技術が現に使われているのだから、困ったものだ。発電するには、要するに発電機を回せばいいのだから、水の流れでも火力の蒸気でも風でもいいし、太陽光の変換もある。でも原子力はだめだ。日本は火山国だから温泉が使えるだろう。しかし原子力発電はアウトだ。発電方法がいくらでもあるのに原発にこだわるのは、何か別の狙いがあるとしか思えない。

 

 この映画は直接原発についてのものではなく、その原料であるプルトニウムの精製に当たっている労働者の意識の変換を描いている。

 

 カレンはごく当たり前の、と言うよりどちらかと言うと意識の低い部類に入る人間だった。その彼女が事故にあい、当局の反応や対応に少しずつ疑惑を持つようになって行く。カレンは無知ゆえ、会社からスケープゴートにされ、あまつさえ事故の責任を押し付けられた。そうなって彼女はようやく会社のやり方に疑問を持ち、追求していくことになった。

 

 都合の悪いことや、自己の保身のために汚点は徹底的に隠し、まずい事故は外に漏れないように画策する。その権力が大きい方がほど、そういった悪知恵があって巧妙だ。一般の人にとっては、その壁はあまりにも高く厚い。だから、よほどのことがない限り、かつ自分の頭に火の粉が降りかかってこない限り、気にはなるが、ある程度仕方のないことだと思ってしまう。

 

 原発の事故は繁茂に起こる。大事故ではなく、冷却水漏れとかはしょっちゅうある。でも発電を円滑に進めるのなら、ささいな事故もあってはならないはずだ。あれだけ金をかけた施設が使われていない状態が続くのは、無駄でしかない。とすると、100パーセントはいかなくても、90パーセントは稼働していなければ、作った意味がない。ところが現状はどうだ。止まってしまうと、止まったままになる。それだけ未熟な技術に頼ることは危険でしかない。現状が技術的未発達を証明している。

 

 ここでは事故も繁茂に起こるし、無関心でいることの方がとてもおかしいことなのだ。それをわかっていながら何もしない、何も発言しない、というのは何らかの要因があってそうさせるものがあるのだろう。それが例えば、失職の恐れだとか、単に権利意識が低かったりするだけなのかもしれない。まず、自分たちが何をどのように作り、それが何に使われるかを明らかにしなければ先に進めない。

 

 そういうことをするのが嫌なのでなければ、そして少しでも変だな、とかおかしいなと思ったのなら、何か行動してみても良い。誰だって命に関わることに遭遇したら、文字通り死に物狂いで抵抗するだろう。

 

 カレンの行動は会社から怪しまれ、徹底して邪魔立てされた。しかしもはや彼女の正義感はとどまることはなかった。

 

 問題意識の提示を映画が受け持つ事はとても重要なことだと思う。なぜなら映画はそういう力を持っているし、むしろそのパワーを使わない手はない。上映される映画を注意深くみていけば、いくらでもそこからメッセージが発せられている。それを正しくキャッチすることは重要だ。

 

 カレンは遅まきながら行動した。その時までの無関心の反動であるかのように。労働組合に訴え調査してもらい、事故の犠牲になった人々との連帯、事故そのものの危険性、重大性など、いろいろなことを知るにつれ、知らないと言うことの怖さに気づいた。反対に知ることの強さもまた知ることができたわけだ。人間として大事なことは、一体何かという、問いの答えがここにあるように思う。

 

 事件解決の鍵を握ったカレンが交通事故で亡くなったのが、単なる事故でなかったと思われる。まるで映画のような終わり方が実際に起こったのだ。

 

監督 マイク・ニコルズ

出演 メリル・ストリープ カート・ラッセル シェール クレイグ・T・ネルソン 

1983年