口数 少なく
3月に入った
今月の終わり 31日は イースター ・ 復活祭
と云うことは 今月は特に 十字架に向かって
心準備をする時
そんな時に わが身が骨折して 思うように動けない
外出ができない 掃除や洗濯 家事一切が 思うようにできない
今まで 健康維持の為に 通っていた フィットネスにも行けない
ウオーキングも 出来ない
筋肉は 見る見る落ちて ダランダラ~ン
今は 自分の体に合わせた硬いコルセットに
縛られて 辛うじてソロリ~ソロリと 動いている
こんな自分の姿を 一か月前には 想像すらしていなかった
こうなったのは 「自分は大丈夫」 と高をくくっていて
まさしく 「自分のまいた種」 だと 受け止めている
痛みや 日常生活がスムーズ に行かない事により
自分への 情けなさや 協力してくれる主人に対して
「もっと 気遣いしてよ」 と つい愚痴が出たり、、、
自分の骨の回復の為に 必要な養生 と分かっていても
いろんな事をキャンセルし 外にも出られない
家の中の 動きでさえ ママならない
この状態が 2週間続くと さすがに ストレスを感じる様になった
最初は 「主が 休息の時を 与えてくださった」
動きは スムーズに行かないけれど 座ってするパソコンは出来る と感謝していた
少しは痛みが和らぎ たっぷり有る時間を 使い慣れて来ると
自分の肉が 頭をもたげてくる
口数が 多くなる したい事が次々 沸いてくる
身近にいる主人にとっては 返ってストレスの様
口数が多くなっている自分を 顧みるとき
十字架に向かわれる 主イエス様の姿が 思い浮かんだ
聖 書 イザヤ書 53章 6節 ~ 7節
われわれは みな 羊のように迷って
おのおの自分の道に 向かって行った
主はわれわれ すべての者の不義を 彼の上におかれた
彼は しえたげられ 苦しめられたけれども
口を 開かなかった
ほふり場に ひかれて行く 子羊のように
また 毛を切る者の前に 黙っている羊のように
口を開かなかった
何の罪もないイエス様
迷い出た人間の 不義を身に受け
ほふり場に ひかれて行っても
なお 口を開かず 人間の罪の赦しを
全うするために 最後まで従順された御姿
預言者イザヤが イエス誕生の 約600年前に
語っていた言葉 が 今の私には 強く響いてくる
今月は イエス様が十字架に 向かわれた
御足あとに 従う者でありたい と願っている
口数を 少なくし 主に喜ばれる言葉
人の徳を高める言葉 を 語っていこう
あの痛み 骨折だった (>_<)
先週より 痛みが治まらない
痛みから学ぶ
9日の金曜日 毎月行っている 大阪の婦人祈祷会に行った
最近は体も快調で 身も心もルンルンで出かけた
リックサックを背負い 両手を大きく振り ウオーキングを 楽しんだ
最近 早朝ウオーキングを 止めていたので 一日目標は 4,000歩にしていた
「今日は 大幅に目標超えられるな~ 」 と期待できた
駅の長い階段も エレベーターを 使わず トントントンと上がった
乗り換えの時も エスカレーターを 横に見ながら サッサッサと階段を使った
駅から教会までの道も ウオーキングを楽しんだ
一か月ぶりに会う クリスチャンたち や 先生方 お互いの再会を楽しんだ
3時間にわたる 恵みの集会 力いっぱい賛美し 祈り 聖書の言葉 に集中する
心満たされ 心身ともに満たされた
夕方の通勤ラッシュの前に 大阪を出たい と思って
集会後のティタイム はしないで 教会を出た
行きの爽快さを 超えるルンルンで 最寄り駅に向かった
帰路も 行きと同じく エレベーターやエスカレーターは 使わず階段を歩いた
大阪駅のホームは 通勤ラッシュとまでは云えないが 一杯の人だった
芦屋まで立っていたが その後は 座れた でも疲れを感じた訳ではなかった
そんな一日を過ごして 姫路駅からは 知りあいに届け物があったので
家とは逆方向に 車を走らせた 帰りにスーパーに寄り 買い物して帰宅した
歩数は 久しぶりに 7,000歩を 超えていた ヤッター うれしかった
体の疲れも感じることなく 身も心も満たされて 休んだ
土曜日の朝 目覚めて聖書朗読を聞いて サアー起きよう とするが
アレ アレ 起きられない 何 なに この痛さ
少し姿勢を起こそうとするだけで ズキン キリキリ 刺すような痛さ
主よ 何ですか これは 腰を擦りながら 祈るしかなかった
思い起こせば 昨日 歳を考えず 調子に乗って無理しすぎたのか
いろいろ考えたが すべては 「あとの祭り」
高慢な思いを持った事 独りよがりで自己満足に走った事 悔い改めた
連休で病院にも行けず 痛みを堪えながら 日常を過ごした
自分の弱さを覚える事によって 最近 教会で聞いている 聖書の言葉が浮かんで来た
教会は 「キリストの体」 である 一人一人は肢体である
聖 書 コリント人への手紙 12章 23節 ~ 24節
からだのうちで 他よりも見劣りがすると思えるところに ものを着せていっそう見よくする
麗しくない部分は いっそう麗しくするが 麗しい部分はそうする必要がない
神は劣っている部分を いっそう見よくして
からだに調和を お与えになったのである
腰が痛い というだけで 体全体に 痛みが走り 何もできなくなる
そんな時 「夕食に食べて」 と弁当やお寿司を 届けてくれた人がいた
痛みを経験して 神様のお計らい 同じ教会に来ている者同士の
助け合い ・ 愛の支え ・ キリストの共同体 を 強く感じた
時の流れ
2月に入って中旬となった
この期間を 早いと感じるか 年明けからまだ 一カ月半しか経ってないの と感じるか
毎年なら 1月=行く 2月=逃げる 3月=去る
と云う感覚で 年明けからこの時期は 早く過ぎるな~ と毎年思っていた
しかし 今年のこの期間は まだ一か月半しか経ってないの 随分長く日がかかっている様に感じていた
何故か 私の心の中には 一月一日 元旦の夕方に起こった 能登半島地震が 重く心に残っている
この寒空の下 大きな不安や失望の中に 居られる方々の事を思い 食べる時も寝る時も
いつも覚えてお祈りをして来た
しかし報道を見ると 半島という地理的な問題があり 未だに救助が進んでいない
生活の場である「家」を失い 避難所生活されている方々の 仮設住宅作りも 遅々として進んでいない
最近になって やっと水が通った と云うニュースを聞いた
日々の生活に 必要なモノがない状態で過ごす 「一日」はさぞ長く苦しい事だろうな と思っていた
以前に 突然 思いもよらない時に 想像を絶する苦しみに会えば 「時が止まる」 と云う事を聞いた事がある
マサに 地震の災害に合われた方々は 遅々として進まない状況に
「時が止まった」 ほどのショックを 受けておられる事と思う
わたしは何も出来ずに 歯がゆく感じている ただ出来る事は 祈る事だけ
人間を神の形に似せて創られた創造主は 必ずその苦しみの中におられる方々を 御心に留めて下さっている
苦しみ ドン底にいる時こそ 「神に頼りたい 」と思うのが 人間の心理だと思う
この機会に 神に向って叫び声を 上げる方々が 起こされる様に
奇跡的な神との出会いが 成される様に 祈って行こう
寒く 冷たい 北陸の地で 多くの痛みを抱えておられる 方々に 早く「春」が来ますように
聖 書 ヨハネによる福音書 16章 33節
これらのことを あなたがたに話したのは わたしにあって平安を得るためである
あなたがたは この世ではなやみがある しかし
勇気を出しなさい わたしはすでに 世に勝っている
生きていれば この世では いろんな問題や悩みが起こって来る
しかし 神のひとり子 イエス・キリストに依れば
十字架上で 「すべては 終わった」 と言ってすべての問題から 解放して下さっている
時が止まった様に 感じられても 勇気を出して 一歩一歩 歩みだされる様 に祈るばかりである
つながる恵み
能登半島大地震から 一か月が過ぎたけど 現状はあまり変わっていない
未だに 手付かずのところが多くあり この寒空の中 生命維持でさえ困難で
日常が取り戻せるのは いつになる事か
地形的に 両サイドが海に面した半島で
北と南をつなぐ道路が 土砂崩れで 主要道路が 何ヶ所もふさがれ
救助に行く事すら困難で 孤立した集落が 多くあった
道がふさがる 他の道がない 救援物資も 届けられない
普段 当然の様に感じて 舗装された道路を 気持ちよく走っていたが
一瞬の土砂崩れで 遮断される現実を見て 恐ろしさを感じた
つくづく 平凡な日常に 感謝しなければ と思うと同時に
町と町をつないでいる 道路の重要性を 強く感じた
「つながっている」 という事は ありがたいな と気付いた
もう一つ 日常の困難さの一つに 「断 水」がある
地下に張り巡らされている 水道管が 地震で大きく破壊され 流れなくなった
各地から 水道管修理専門業者が 集められ 日々懸命に 作業に当たっておられる
なんと言っても 地中の事 どこが壊れているのか
土を掘り下げて 管の状態を 確認しなければならない 地割れしている所もあり
作業には 危険が伴っている 範囲も 広範囲に及び 遅々として進まない
その事に於いて考えても 何の問題もない時には
水道管は 貯水池から各家庭までつながっており 十分な水が供給されていた
地震により 水道管が破壊されると たちまち水は遮断され 各家庭に流れなくなった
破壊された 10数キロに及ぶ 水道管が 早くつながり 各地各家庭に 水が届けられる事を祈っている
「 つながる 」って今さらながら 実感として「 大切だ 」と強く感じた
わたしたち人間も いつ何が起こるか まったく分からない
突然 大きなアクシデントが 襲ってきたら 家族や 友人たち 国や行政は どこまで助けてくれるだろうか
一時的には 助けがあるだろうけれど 最終的には 「 自分の内なる力 」があるかどうかにかかって来る
わたしは 自分自身は「もろいモノ」 と思っている 人間の力 って 大したことない と思っている
しかし 子ども達から見たら 「お母さんは 強い」 と見えるらしい 何故か
聖 書 ヨハネによる福音書 15章 5節
わたしはぶどうの木 あなたがたはその枝である もし人がわたしにつながっており
また わたしがその人とつながっておれば その人は 実を豊かに結ぶようになる
わたしから離れては あなたがたは何一つ出来ないからである
今回の 能登地震の状況を見ながら 道が遮断される
水道管が破壊され 流れなくなった 事を思う時
わたしの人生で 主につながっていなければ どうなっていただろうか
つくづく 今「 主につながっている恵み 」 に感謝を覚えた