春らんまん(*^_^*)
3月中旬 冷え込む事を考えた時 今年の桜の
開花は
しかし 急に 初夏を思わされるほどの 暖かさが来て
日に日に 桜のつぼみが 膨らんで来た
教会の前を流れる川沿いに 毎年
桜並木が出来て
それを目当てに 写真を撮りに来る人たちが大勢いる
ここの桜は 他の所が終わった頃に 咲き始める
毎年 4月の10日過ぎ 入学式のころには
あと一歩と云う 8分咲きぐらいだった
ところが 今年は 他の所と 同じくらい
今日(7日)が ほぼ満開状態
川沿いを走る車も みんな 徐行運転
わたしも 見ながらノロノロ運転で 桜を満喫した
満開の桜には 人の心を 引き付ける力がある
色と云い 咲き方と云い 華やかではあるが
ある面 慎ましやかであり 個を強調するのではなく
全体が調和している 美しさを醸しだしている
日本人気質の 奥深さが感じられるのか
特に 外国から来られた方々が その美しさに 感動しておられる
日本を代表する 花:桜 この美しさを思う時
私はいつも思う
桜の開花は せいぜい 一週間
しかし キレイな花を咲かせるためには
寒く 厳しい 冬の極寒 の寒さ期間を
必要としている
私たちの人生においても 花咲く時は 一瞬かもしれない
しかし人生の中で 厳しく 辛く
苦しい時にこそ
神に望みを持って 耐え忍び 苦難に耐え
神を信頼し
どんな時も あきらめない 希望を持つ者 ならば
信仰は鍛えられて 神に在って
勝利の花を咲かせる事が出来る
のでは
聖 書 ローマ人への手紙 5章 2節 ~ 5節
神の栄光にあずかる 希望をもって喜んでいる
なぜなら 患難は忍耐を生み出し
忍耐は 練達を生み出し 練達は希望を生み出すことを
知っているからである
そして 希望は失望に終わることはない
桜の開花に合わせて 昨日行った 整形外科のドクターから
「もう 骨も落ち着いて来たから、硬質コルセットを日常生活の中で
徐々に外して行っても良いよ」 と言っていただいた
骨折しているとは云え 脇腹から腰まで
がんじがらめで 固められて居たから
やった~ と開放感が やってきた
一ヵ月半だけだったけれど 忍耐して付けていたから
骨折も 治って来た事を思うと 忍耐出来たことを感謝した
嘘のような本当のはなし
人間は 窮地に立てば ウソを付く
何故 ウソを付くのか 自分を守りたいから
ウソを付くと それを乗り越えるために さらにウソを付く
ウソが 度重なると だんだん
つじつまが 合わなくなる
周囲の人々は 最初は 乗ってくれるが
おかしいと気付けば 簡単に
信用されなくなり 去って行かれる
ウソを付く時には 心の中に もやもやとしたモノがあり
平安がない 結局 自分を守っている様でも
バレたらどうしよう という恐怖を 背負っている
ウソを付く事が 常習となると その恐怖すら感じなくなる
現代の世の中で 心から 人を信頼し
真実を持って 交わりが出来る人を 何人持っているか
と尋ねられたら なんと答えられるか
某通訳者の事を 考えると まさか とびっくりするが
それが 現実 起こった事であり 私達の身近な所でも
起こり得るかもしれない
今日は 十字架にかかられた イエス・キリストが
死んで 墓に葬られたが 生き返られた 復活祭
この事は真実で 世界中で お祝いされている が
人間とは 現実起こった事でも 今まで
経験がなかった事なら それを ウソだ と 決めつけてしまう
ウソには平安がないが 真実な事には平安がある
十字架にかかられた イエス・キリストは 死んで
墓に葬られたが 3日目に 黄泉から生き返ってこられ
弟子たちの前に 姿を現された
それは真実で 現実の世界に 起こった事
噓のような 本当の出来事
弟子たちでさえ 最初は驚いたが
たびたび目の前に 現れたので
信じて 心が熱くなり 自分の命さえ 捧げたい
と
思ったほどに 感動した
そして 熱い思いが
現代の世界宣教 につながっている
神には ウソ・偽りは 無い
聖 書 ローマ人への手紙 3章 4節
あらゆる人を 偽り者としても
神を真実なもの とすべきである
人間は 自分も含めて 完全な人は 誰も居ない
様々な事が起こる 現代社会 目先の事に
右往左往するのではなく 永遠に真実なお方
偽ることのできないお方
復活されて 今も生きておられるお方に
望みを置いて 生きていきたい
暴露される恐怖
先週は世界中に 衝撃が走った
数年にわたって注目され 絶賛されていた人物
野球界 世界一実力者の通訳をしていた 某氏
一日にして 状況はガラリと変わり
翌日は 球団を解雇 今まで隠されていた事が暴露
野球界のみならず 世界中の人が ショックを受けた
誰よりも 衝撃を受け 心痛めたのは 長い年月
信頼し パートナーとして 共に歩んで来た選手では
賭博は悪い事 と分かっていたはず
なのに
努力して せっかく積み上げてきた モノが
目先のお金の誘惑に 負けてしまい
自分を見失ってしまったのでは
この世は 誘惑だらけだ
21年から 賭博の泥沼に入った と書いてあったが
その3年に及ぶ期間 世界中から注目される中
心の奥に秘めた 暗黒の状態の中で
彼は どれほど 苦しんでいたか 怯えていたか
表面から見える彼は 控えめで 誠実で
気遣いが出来る人物 と見られていた
世界の評判とは まったく違う自分
いつかは暴露される その恐怖は無かったのかしら
私は 神を信じる者として いつも 「神の目」を
意識している
人間には 「良心」 が備わっている
神を信じていなくても 悪い事をしたら 心が痛む
そして それを隠そうとすると 自信が無くなり
怯えるようになる
自分の内にある「良心」を 大切にしているなら
早い段階で 修正することが出来る
しかし 人間とは はかなく 弱く
もろい者
悪いと分かっていながらも
繰り返す内に
良心が麻痺してしまい 自分を見失ってしまう
現代の世で 自分をしっかり持ち 世の誘惑を退け
正しい道に歩める者は 居るか
聖書によると この世は 悪魔の策略で満ちている
と書かれてある
誘惑も そこらかしこに 迫っている
そんな中で 悪魔の餌食に ならないために
一人一人が 神から与えられている 「良心」を
大切にしていきたい
聖 書 エペソ人への手紙 6章 10節~11節
最後に言う 主にあって その偉大な力によって
強くなりなさい 悪魔の策略に対抗して立ちうるために
神の武具で 身を固めなさい
折しも 今週は受難週
主イエスが 罪の呪い ・ 悪魔の支配 から
人類を救い ・ 解放するために 十字架上で
「 あがないの業 」 = 罪の代価を 払ってくださった
十字架上で 流された血によって
人類の罪が許され 悪魔の支配から 解放される
この時期に 自分の内側を 点検し
神との関係に 自信が持てるように なりたい者である
いかなご消えた
三月に入っても 一向に 「いかなご解禁」の
ニュースが 流れなかった
阪神大震災の時から 「春の訪れ」 「元気の印」
として この時期 「いかなごのくぎ煮」 に
情熱を燃やしていた
早い年だったら 2月下旬に 解禁になっていたのに
今年は なかなか そのニュースは聞かれなかった
マア~ 今年は骨折しているから 毎年の様には炊けないかな~
でも お世話になっている人たちや
毎年楽しみに 待ってくれている 人たちに 「今年も元気だよ」
と伝えたいな~と思って
わずかでも 作りたいな~ と 思っていた
そして 今日か 今日かと 心待ちにしていた
3月11日 やっと来た 解禁日
出始めは 小さくて高いから 一週間ぐらいした頃が良いかな
と思っていた
が、、、その日の夕方のニュース エッ~
そんな、、、
「今日で 終了しました」 って
「解禁の日」 が 「終了日」 そんな
その日 夕方 友達が 電話を くれた
「今日 魚屋さんに 出ていた いかなご
1キロ ¥6、500 」
漁 ・ ギョ ・ ギョ 誰が 買うの
こんな ショックな年は 無かった
ここ数年 獲れなくなった と言われていたが
マア~ 大きさや 値段を 見計らって
10キロ 前後は炊いてきた いろんな人たちに分けて 自己満足していた
元気に冬を乗り切り くぎ煮作りが出来た
その喜びが 力となっていた
なのに まったく 手に入らない 「幻のいかなご」
何故 こんな状態になったのか
聞くところによると 水がキレイになりすぎて
プランクトンが住まなくなった のと 温暖化で
海流の変化が 影響して いかなごの生育に適さなくなったとの事
阪神大震災の時 災害を受けた神戸の方たちが
この時期 家が傾いた路地裏で
七輪で炊いていた 「いかなごのくぎ煮」
「この匂いは 元気の源です」
という ニュースを聞いて
私も元気をもらい 炊き始めた
なのに 今年は 残念
天と地を 創造された 神の言葉
創世記 1章 20節 ~ 22節
水は 生き物の群れで満ち
鳥は地の上 天のおおぞらを飛べ
神は海の大いなる獣と 水に群がる
すべての動く生き物とを 種類にしたがって
創造し また 翼のあるすべての鳥を
種類にしたがって 創造された
神は見て 良しとされた
神はこれらを祝福して 言われた
「生めよ ふえよ 海の水に満ちよ
また 鳥は 地にふえよ」
生き物を 創造された神は 祝福して 満ち溢れる様にして下さった
そして 人間が 生きるために 備えて下さっていた
しかし 今や 自然界の破壊により
神が創造し 祝福してくださった 生態が崩されている
「いかなごよ 今どこに居るのか
稚魚は育っているのか 」
平凡な恵み
骨折とわかってから 3週間
最近になって 朝の起き上がりが 少しはマシになった
スンナリとまでは 行かなくても ギク ウ~ン 主よ
との 叫び声を上げなくても 何とか ヤンワリと
体を起こし ベッドから足を下ろし 座ることが出来るようになった
衣類を整え 硬いコルセット(脇から腰まで)を付けて立ち上がる
主よ 今日一日を 守り ・ 強め ・ 回復 への時として下さい
と祈りつつ 周囲の壁を 持ちながら ソロリソロリと歩き始める
こんな動作は 今まで 特別に意識したことはなかった
目覚めれば 起き上がり 着替え 一日のスタートが
当然のように 始まって行った
「当然のように」
「当然のように感じていた日常」 が 突然失われたら
まず 「出来ない自分」 を 受け止めなければならない
と同時に 気づいた事は 「平凡な日常」 が
どんなに恵みの中に居た事か
「失って 初めて気づく 恵みの数々」
やっと 痛みが軽減して 台所に立てる喜び
ソロリソロリとでも
歩ける恵み
日常では こんな事は 「出来て 当然 」 と思っていたが
この2,3日 歩けるってすごいな 立って用事が出来るって すごいな~
と感動を覚えるようになった
人としての 「原点に帰る」
「生かされている 恵みを知る」
今まであまりにも忙しく バタバタと過ごしていた自分が
目先だけで 動いていたように感じ
人間にとって 本当に必要なモノは何か
落ち着いた生活をし 平凡な日常に感謝し
神が 備えてくださっているモノで 満足する
その事に気づかされた
聖書 ルカによる福音書 15章 11節から
放蕩息子の記事がある
お父さんの財産を 先に受け取り 親の元から離れ
放蕩三昧に使い果たして ボロボロになった弟息子
そんな時 ハタ と気づいた
15章 17節
そこで彼は本心に立ちかえって 言った
「父のところには 食物のあり余っている雇人が
おおぜいいるのに わたしはここで 飢えて死のうとしている
立って 父のところに帰って こう言おう
父よ わたしは天に対しても あなたにむかっても
罪を 犯しました
親の元にいる時には 気付かなかった 愛・恵み
失って初めて 気付いた自分の愚かさ
骨折して 日頃神から与えられている 平凡な事が
どれほど 恵みであったか 気付かされて感謝した