三度目の殺人 | アマルコルドのブログ

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人がものを思うときの表情
人が何かを語るときの表情
光に映され影に縁取られたその表情に
見ている人間は、
その人間の心の闇と光に象られた本当のことを読み取ろうとする
それはいつしか、深い井戸の中の奥底の
水に写った自分の影を
見ているような気になる
そこに自分が写ってしまったなら
人の性として
本当のことは美徳に歪められ
本当のことは真実に覆い隠される

汚れた役を演じても爽やかさのある福山雅治はこの作品では
別人だ、一人の中年の男がそこにいる、、褒めてます
親しげで柔和な犯人役を演じる役所広司は
優しげな表情の中に、凄みを見せる
役者の表情を捕らえ、映し出す映像に前のめりになる
表情によって、状況、心理を描き出すのではなく
表情によって、観ている人間に真実は何なのか前のめりにさせる
そんないわば、撹乱戦術、、
生きている価値のある人間
死刑制度
そんな言葉も飛び出す
それは、個人的な価値ではなく
社会的価値、、、、?
本当のことを理解するというのは
究極的にその人間を信じることでしかありえないのか

以下はラスト近くに触れてますのでネタバレ注意ということで

特にラスト近くの福山雅治と役所広司の対話のシーンは
映画的で素晴らしい
刑務所の面会室でガラス越しに二人が対話するシーン
福山雅治の実像に役所広司のガラスに写った顔が
二重写しになる
二人の顔は最初離れているが
徐々に近づきやがてゆっくりと重なり合う
そしてある瞬間、すっと離れる
福山雅治の思い、人間としての思いが象徴的に集約され素晴らしく、恐ろしい
そしてその瞬間
役所広司の演じた犯人像
殺人当時の記憶が不鮮明で言うことがころころ変わる
それは
昨日、何を食べたのか?
そういった日常的なことを聞かれたときの人間の記憶の不鮮明さと
同一であり
彼にとっての殺人という行為の価値観を表すようで
身震いした

以下は少々突飛ではありますが

本当のこと、それに対する人間の思い
それは
是枝監督のこの作品において
事実と映画の関係を想起させる
なぜなら
かつて
是枝監督は誰も知らないという作品を作った
それは母親に置き去りにされた子供達の
痛ましくも切なく美しい
子供達の楽園の詩であるように感じた
しかし、それが実話ベースであったため
そちらの方にも話題性を持って行かれたような気がしたからだ
まあ、それ以上に大きかったのはカンヌで主演男優賞をとったといことだったようなきおくがありますが

久々に文章書いたんでめちゃくちゃになってしまいましたが
久々でなくてもめちゃくちゃですが

では