社会を変える学校、学校変える社会 工藤勇一・植松努 | なほの読書記録

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教育改革者として学校の「当たり前」を見直してきた、横浜創英中学•高等学校長の工藤勇一さんと、北海道赤平市で異色の会社経営を実践し、若い人たちとロケット開発や宇宙航空事業を進める植松電機代表取締役の植松努さんの対談を記した本。

2人の対談の主題は、「ミライの学校と社会」
 
これまでの成功事例が通用しない、先行き不透明な時代。
親も教員もどうしたらよいか分からず、漠とした不安を抱えている。
そんな時代をたくましく、課題を解決しながら乗り越えていく子どもたちを、どのように育てていくか。
誰一人として置き去りにしない社会をつくるために、何をすべきなのか。

 植松努:「僕たちは〈人口減少社会〉を生きているのだから、そこに見合った社会の形や教育のあり方を真剣に考えなくてはならない」

工藤勇一: 「子どもたちが変わることができれば、時代とともに社会はおのずと変わります」

 人口減少社会において、未来を生きる子どもたちに身に付けさせたい力、親が知っておきたい新しい常識について対談する内容でした。

教育に携わる方、保護者や特に学校現場にいる先生方におすすめの一冊です!


【印象に残ったフレーズ】


【工藤勇一さんの話】

大人が子供たちにあれやこれやと手をかけすぎて、結果として、サービスに慣れ切ってしまった子供たちを育ててきてしまった。

サービスに慣れきった子供たちは、他力本願で自己決定ができない。

自己決定ができない子供は、うまくいかないことが起こると、すぐ人のせいにしたり環境のせいにしたりして、結果として幸せになれない。


でも考えてみれば、この子供たちの姿は、今の私たち大人社会の姿だとも言える。

子供たちに様々なサービスを与える場になってしまった学校を、子供たち自身が主体的に学ぶ場に戻してあげることこそが、学校に今最も必要なことである。


本来学校は、子供たちの興味や関心を引き出して、上手に学びにつなげていかないといけない。

子供は自己決定を繰り返していくことで、自信がつくし、いっそう主体的になれる。

大人は子供のやりたいことを頭ごなしに否定するのではなく、学び方も含め、どうしたいのかを本人に決定させていくことが大切である。

決定できない子には、とりあえず選択肢を与えて選ばせていくことから始めていく。


親が先回りして、どんどんやってしまうと、子供が自分で考えたり、リスクを取って挑戦したりということができなくなってしまう。

どんな小さな事でも自己決定させることが重要である。

それをさせていかないと、自分が何をしたいのか、もしくはしたいことがあるのに、それを言えない子になってしまう。

そういう子は自己肯定感も低かったりする。

言われたことは確実にこなせるけど、自分で決められない子になってしまう。

そういう子は「何をすればいいですか」が口癖で、一見、人の言うことをよく聞く子、いわゆる「素直な子」だが、自己決定を積み重ねないで来てしまったために、自分で物事を決められないことがある。

いったんそうなってしまった子を変えていくためには、その子自身が、自分自身を俯瞰して見る力をつけていく必要がある。


子供同士のトラブルの解決も同じである。

誰かと争いになったときに、誰かが何とかしてくれる、ではなく、自分がどうするかと言う意識が芽生えていたら、とにかく自分でなんとかしようと考える。

例えば、何かトラブルがあったとして、まず相手に対して謝ることのリスクと、謝らなかったときのリスクを天秤にかける。

それで天秤にかけてみて、本当は謝りたくないけれど、明日からクラスで一緒に過ごすのに雰囲気が悪いのは嫌だな、ここで謝ったほうがいいかもしれないなと、自分の中で考えて選択することができるようになっていく。

この経験を一度でもすると、こうした行動を繰り返すことができるようになって、次第に自分で考えて判断し行動できる子えと変化していく。


学年担任制は、チーム医療の考え方である。

病院では患者さんに最適な医療を施すために、医師、看護師、薬剤師、理学療法士といった様々な専門性を持つ人たちが、その得意分野を生かしながら患者に向き合い、仕事をしている。

学校も同じように、いろいろな良さや特技を持つ先生、例えば保護者と話し合うことが上手な先生、元気よく子供たちと一緒に遊べる先生、子供たちの話を丁寧に傾聴できる先生、相談されたときに自分の教科の専門性を発揮して学ぶ楽しさを伝えられる先生、様々な良さを持った先生がいる。

こうした先生方が上手に連携して、子供たちと向き合っていけばよいのではないか。

1人の先生が全てをカバーするよりも、長所を持ち寄った先生たちの力を集めた方が最高の医療を受けられるのと同じことで、生徒や保護者にも喜ばれる。


もう一つ重要なポイントは、生徒や保護者が相談したい教員を自由に選べるということ。

担任が決められていると、相談しようと思っても、その教員に気兼ねして言い出せなかったりすることがあるが、まずその心配から解放される。

何より、一方的にあてがわれたサービスに、人は不満を感じるものだが、自分で決めるとそれがなくなる。

当然、クレームも劇的に減る。教員たちも、生徒のトラブルが起こっても動じなくなり、結果的にメンタル的に解放されて、さらに連携しやすくなるといった良い方向に向いていく。


子供たちにとって、学校とは社会そのもので、教室は世の中の縮図である。

そこにおける教員の役割は、学級や学校をコントロールすることではなく、子供たちの手にゆだねて、その試行錯誤を見守り、危ないことになりそうだったら、上手に手を差し伸べることである。


学校で、合理的ではないことをアップデートさせていく感覚を経験していかないといけない。

学校は失敗を乗り越える経験を積み重ねながら成長する場所であるべきだとも考えている。

そのためには、失敗しても大丈夫だと安心して挑戦できる環境と、いつでもやり直しができる風土が大切である。

学校が失敗しても許される環境だと、将来も失敗を恐れずに、何度もチャレンジできる大人になれる。

だからこそ、子供の頃から過度に失敗を恐れることがないような環境を整えないといけない。




【植松努さんの話】

大卒や大学院修了の人たちではなく、高卒人材を採るのかというと、大卒理系にあまり魅力を感じないから。

大学の時に、失敗のない優秀な学生生活を送ったためなのか、彼らの多くは失敗を避けようとして、習った知識の範囲から出ようとしないことがある。

新しいことをやってほしくてお願いしても、彼らは「それは専門外です」「それは習っていません」と断る。

それでは成長できないし、悲しくなる。

ところが高卒文系の子たちは、どんなことでも「どうすればいいんですか?」と聞いてくる。

そしてトライして失敗する。

でも、失敗から多くを学んでくれて、やがては「できなかったこと」が「できた」になっていく。

その時の彼らの顔は輝いている。

その笑顔見ると僕も幸せになる。


僕は会社の仲間に幸せになってほしくて、自分が幸せになるためには、周りのみんなも幸せにならなければいけないことを理解してほしいとも思っている。

幸せになるには、2種類ある。

「してもらう幸せ」と「する幸せ」。

どっちを選ぶかで人生が変わる。

僕は社員に「する幸せ」を選んでほしい。

「してもらう」ことばかり学んでしまうのは危険である。

なぜなら「してもらう」は最終的には「奪う」になってしまう可能性が高いからである。

自分の願いをしてもらいないと「してくれない奴が悪い」という気持ちが湧いてきてしまう。



大学は「学びたいこと」や「自ら学ぶ意欲」がある人にとっては素晴らしく能力を高めてくれる環境だと思う。

でも、学歴という他者評価のためだけに行くには時間とお金がもったいない。

学歴を基準にせずに、本質を見るためにもっと真剣に採用面接をしてほしい。

学歴に縛られなくなれば、無駄に大学に行く必要がなくなるし、学生たちは奨学ローンの返済を心配しなくてもよくなる。


本来は学べば学ぶほど人生は豊かになり、人は幸せになるはずなのに、そうなっていかないのは、学ぶ目的と手段を間違えているから。

「学ぶ」ことや「学力」は、教えられたことを覚える力ではない。

自分で疑問を感じて、自分で考えて、自分で調べて解決する力である。


学校で「教えられたことを覚える」やり方しか学んでいない子供たちは、大人になっても「人から教えてもらおう」「教えられたことを覚えよう」とする。

それは「思考」から程遠い。

「暗記」もまた然りである。

日本のテストの多くは、「暗記の量と正確さ」を測るものになっている。

これも、「思考」とは程遠いものである。

今や暗記に頼ってする仕事などないと言い切っても良いかもしれない時代に突入している。


人とは違うこと、「不便」や「困った」を解決することが大切だと考える。

社会や人を支える仕事の方が生き残れると考える。「不便」や「困った」はなくならないので。

これからは、新しい仕事や価値を生み出す仕事をしないと、かなり厳しい。

自分で考えて、今までにないものを創り出すことが大切である。


「どんな人材が欲しいですか?」と聞かれたとき、「雑談が弾む人。いい文章が書ける人。優しい人」と答えている。

雑談が弾む人、いい文章が書ける人は、間違いなく地頭が良い。人間は言語で思考する。

だから言語がたくさんあるほど思考も深くなっていく。

そして、その頭の良さを生かすのが「優しさ」だと思っている。

こういう人たちは、自分からどんどん学び、世の中の問題を解決しようとしていく。こういう人たちを学校では育てていってほしい。


日本人は年々「好き」や「困った」を言葉にすることができなくなってきているように思う。

だから日本で新しい画期的な仕事が生まれてこなくなっているんだと思う。

今、面白いものが全部海外から入ってきているのは、日本人が「好き」を語れず「困った」を言えない教育を受けているからである。

「好き」と「困った」が出合ったら新しい仕事が生まれて、その仕事に取り組むことで、人は生活していけると思う。


大人は、子供の「好き」がわかったら、それを否定しないで応援してあげて欲しい。

人は好きな事はいくらでも覚えられる。

その好きなことに「読む」「書く」「作る」「調べる」をくっつけたら立派な研究開発になる。

社会を変える学校、学校変える社会 工藤勇一・植松努 著 時事通信社 刊より一部引用》