中国駐在日記 -26ページ目

発病から中国駐在まで(5)


実家に帰り,私はすぐに転職活動に取り掛かりました。
母親からは,別にゆっくりすればいいのにと言われましたが
私の性格でしょう。。それができなかったのです。


そして,2007年1月,3年前と同じことが起こりました。
腹痛がひどくなり,食べ物が食べられなくなったのです。

そのため,2度目の入院を地元の総合病院ですることに
なりました。


多分,退職および転職活動でかなり無理をしたということが

あったと思います。
今回は2週間入院したのち外来に移りました。


”急がないで休みなさい”って言ってるのかな
とおもい,

ステロイドが終わるまでゆっくりすることにしました。


ここでも大腸カメラをしましたが,某大学病院の先生と
同じことを言われました。


主治医 ”本当にクローン病?潰瘍性大腸炎にみえるけどなぁ”
私    ”前の病院でもそう言われました”
主治医 ”う~ん”



2007年5月に,再就職先が決まり,今の会社に入社しました。


面接の時に,まだ決めていないが中国に事務所を開くかもしれない
というのは聞いていました。がいつ誰をいかすのかまだ判らないとの
話でした。


入社すると,なぜか,中国の事務所の担当になっていました。


後々


”入社した時から私が中国駐在ときまっていたのですか?”

とある人に聞いてみると。

”う~ん,そうでもなかったんだよ。”


結局,いろいろあったみたいですが。


2008年4月より中華人民共和国上海市の事務所にて,日本人1人
で中国人とともに仕事をしています。

発病から中国駐在まで(4)

2006年当時,日本の大企業は好景気でした。
20代だったら,派遣社員の方が手取は高かったという
時代でした。

しかし,私の会社は,業界自体が先々あまり良くない業界でしたので
大赤字でした。

そのため,希望退職を募ることになりました。
はじめは,50歳以上が対象でしたが(工場だったため50歳以上が1/3占めていた)
組合さんが”平等”という言葉をもちだし,全従業員対象にしました。

私は悩みました。
①私は,父親と死別し,また兄弟も地元を離れて働いており,母親一人で
  生活していること。
②母親は内臓等は問題ないが脚が悪く,将来手術は避けられないこと。
③私が長男であったため,いずれはどうにかしないといけないと
  考えていたこと。(長男の人は跡取りとして結構考えるようです)

悩んだ末に,希望退職に応募することにしました。
そのときは,再就職の際,病気のため不利になるということは知っていましたが
そのことは,二の次でした。

同僚,同期の方々には送別会
を開いていただいたりしました。
ありがとうございました。

ともあれ,某地方都市での生活が終わり,地元四国で仕事を探すことになります。



発病から中国駐在まで(3)

2004年になり,不安いっぱいの中,某地方都市の工場
に出勤しました。
新しい上司から詳しく病気についてのたずねられ,当時の
つたない知識で回答しました。

新しい生活は,寮で食事については自分で注意するしかない
というものでした。

新しい病院は,入院していた病院が
”某市にある大学病院(臓器移植もするような大病院)
に紹介状をかくから,そこから,近くの病院
に紹介してもらうのならしてもらった方がいい”

とのことで,その大学病院に行きました。
新しい主治医は,写真をみて
”これは本当にクローン病? 潰瘍性大腸炎じゃないの?”

そんなの知らないと思いながらいきさつを話ました。

”近くに住んでいるようだから(寮から大学病院まで車で30分)
ここに来てもらおうかな~。”との一言で大学病院に通院がきまりました。

大学病院は人が多く,待ち時間が長いと聞いていたのでできれば
通院したくなかったのですが,その病院は予約を入れるとほぼ
時間どうりに呼んでくれていたので,今の病院よりよかったです。

某地方都市では3年暮らしました。この3年間は,若干よくなったり悪くなったり
しましたが,無事平穏に終わりました。

一応,病名はクローン病なので大学病院で小腸の検査もしました。
(鼻からチューブを入れてバリウムを流す検査です。)

昼の2時から初めて終わったのが6時。。
異常はなかったのですがどうやら私は小腸が普通の人より長いらしく
(だから足が短いのか?)
その時の主治医との会話は、

主治医 ”長いね~。。これなら,少々切っても大丈夫だね。”
私 ”・・・・切りたくないんですが・・”
主治医 ”切らなくても良いんだったら,良いんだけどね~。”

でした。

某地方都市で,主治医,同僚,同期等いろんな人たちに
お世話になりながら過ごしたあと
諸事情で,退職し地元四国に戻ります。