DJ.CHAN-TAKAはDJなのです
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福島孝徳先生、ありがとうございました。続き

前回からの続きです。

 

 

後日、福島孝徳先生がいらっしゃると聞いた日に、

改めて父、母とクリニックに行きました。

 

 

しばらく待った後、診察室に呼ばれました。

 

 

そこには、何度もネットやメディアでみた、

福島先生が座っていました。

その横には、立ったままメモを取る医師が二人。

 

 

福島先生は、母の病状について、しっかりと僕たちに向き合い、

目を見ながらこのように話してくれました。

 

 

母には、

「おかあさんね、洋服のサイズってあるでしょ?

S,M,L,XL,って。その上にジャイアントっていうのがあるんだったら、

おかあさんのはジャイアント。これはめったに見ないサイズですね」

 

 

父には、

「お母さんさ、最近ぼーっとしたり、物忘れしたり、

そんな感じしなかった?したんじゃないかな?

これもこのおっきな塊のせい。ほかの頭の中の大事なところを全部

押しつぶしちゃってるからね。」

 

 

父は、この母の挙動については数年前から認識していて、

痴ほうが始まったとおもっていたことを話しました。

毎日、簡単な計算問題を出したりしていて、

その結果が芳しくなかったことも伝えました。

 

 

福島先生は

「それも今よりずっと良くなると思いますよ。大丈夫ですよ。」

と伝えていました。

 

 

 

僕は福島先生に、

大学病院で説明を受けた手術内容を伝え、

同じような手術なのか、母の年齢でも体力的に可能なのかと聞きました。

 

 

 

すると、福島先生は

人間の脳の形をした模型を手に取り、

手術部位を指さしながら、

 

「そんな内容の手術をしたらお母さん死んじゃうよ。

福島先生ならね、

手術は二回なんてしない。一度で全部とれるよ。

その大学病院の先生ね、僕も教えたことがある先生の一人なんだけど、

でもその先生にできるのはそこまでかなぁ。

手術するのが福島先生でよかったね。お母さん治るよ。」

 

 

と。

 

 

 

僕は今まで、たくさんの医師にかかわる仕事をしていました。

それこそ3ケタ以上の医師と会話をしてきました。

 

 

 

その中に、誰一人として

「大丈夫」「治ります」「よかったね」

なんて言葉を使う先生はいませんでした。

 

 

 

自分の言葉に全く保険をかけない、

プロ中のプロ、世界一の脳神経外科医。

 

 

 

天から与えられた才能や努力に加え、数多の経験に裏打ちされた自信、

医療の発展に、命に本気で向き合ってきた真摯さなどの人格などが

そんなセリフにつながっているのだと、僕は思います。

 

 

 

ぱっと見は本当に小さいおじちゃん。

ただ、ニコニコと優しい口調で、時にジョークを交えながら話すその後ろに、

ものすごいオーラというか、闘気というか、

そんな存在感を持つ素晴らしい医師でした。

 

 

 

そして、早々に手術日の段取りが始まりました。

 

 

 

隣に立っていた先生に、

〇月のこの辺りは?この日に日本にくるから・・・

などと伝え、再検査や手術時期等々の段取り。

 

まさかこんな飲み会の日程決めるみたいに手術日決めるとは

思っていなくてあっけにとられてました。

 

 

あとから知ったのですが、

横で立っていた先生は、

脳神経外科長の先生でした。

その先生も、福島先生も対談記事で日本でもトップクラスと認める、

特に小児脳腫瘍に強い先生です。

 

 

その先生には、福島先生オペ後の母の担当医として、

退院後も大変お世話になりました。

 

 

 

本当に駆け足でとんとん拍子に手術日まで決まり、

お母さんがんばろうね!と握手をして、

 

 

 

 

2017年の12月、総合東京病院にて母は手術を迎えることになりました。

8時間にも及ぶ大手術でした。

僕は仕事のため、病院にはいけませんでしたが、父はずっと病院にいました。

 

 

 

母の手術の日、不思議とあまり不安を感じなかったことを今でもよく覚えています。

最初に母が亡くなるかもしれないとなったとき、頭が真っ白になるほど狼狽したのに。

どこか落ち着いている自分が本当に不思議でした。

 

 

 

手術結果は、福島先生曰く98点とのこと。

脳幹周辺、ごく微量の腫瘍はあきらめざるを得なかったが、

ほぼすべて取りきることができた。と。

 

 

 

「お母さん元気になりますよ。無事ですからね」

と告げて、病院を去っていったらしいです。

 

 

 

 

後日母からの話ですが、この日、福島先生はもうひとり若い女性を同時に手術していたそうです。

 

 

福島先生があえて行う手術ですから、こちらも難易度が低いわけはないと思います。

 

 

最大難度の手術を2人同時とは、もう驚きが一周も二週も回っていて、

とても気の抜けた返事をしたような気がします。

 

 

 

 

その後、術後わずか一週間もたたずして、驚くべきことが起こりました。

 

 

母が、泉が沸き上がるような勢いで、見舞いに来てくれた人と昔話をしだしたんです。

 

 

僕や兄の幼いころの話、親戚との思い出など、

術前と明らかに違うそのはっきりとしたしゃべり口調に、

 

 

診察の時に先生が言っていた、痴ほうのような症状も良くなる、

との言葉を思い出し、

 

 

まさかこんなに早くはっきり表れるとは思っていませんでしたので

とても驚きました。

 

 

 

その後、リハビリ目的で移った別の病院での事故が原因で、

左足の神経に影響が残ってしまったことなどのトラブルはあったのですが、

 

 

 

脳機能についてはその後も全く衰えをみせることもなく、

大過もなくいまも元気でいます。

 

 

 

先日も孫たちと児童館に行き、

15キロある長男を抱きかかえるパワフルさを見せてくれました。

 

 

 

その母はみていてわかるぐらいとても幸せそうでした。

 

 

 

それもこれも、母の命を助けていただいた福島先生あってのことなんて、

実感していた矢先に福島先生の訃報をニュースで知り、非常に残念に感じています。

 

 

こんなにも自分の使命に真摯に全うし、全身全霊をもって成し遂げた人間を見たことがありませんでした。

福島孝徳先生と同じ時代に生きることができて本当によかったです。

 

 

 

 

願わくば、

福島孝徳先生の思いが届き、

 

 

一人でも多くの医師たちが、

福島孝徳先生のように、すべての命に平等に向き合うような意思を継いで、

一人でも多くの、僕の母のような絶望的な病を抱える患者を救ってくれたら

本当にうれしいと思います。

 

 

どうか安らかにおやすみなさい。

本当にお疲れ様でした。

本当に、ありがとうございました。

 

福島孝徳先生ありがとうございました。やすらかに。

 
 
福島孝徳先生が、永眠されたというニュースをみました。
 
 
 
僕の母は、2017年の12月に福島孝徳先生による
頭蓋底髄膜腫の摘出を受け、
いまも元気に生きています。
 
 
孫も二人とも、だっこさせてあげることができました。
 
 
 
いろいろ思い返したので、ここに経緯を書いておこうと思います。
少し長くなりますが、お付き合いください。
 
 
 
 
 
2017年の夏
僕の母は、かねてから顔の右ほほにできたこぶのようなものが
最近大きくなっているのではと感じ、近所のクリニックを受診しました。
 
 
 
クリニックの医師は、
「顔のこぶは特に悪さをするものではないが、取りたいのであれば取りましょう、
ただし念のため、大きな病院で頭部全体の検査を受けましょう」
とのことで、
母も納得し、後日市内にある大学病院で頭部MRIを受けることになりました。
 
 
 
 
検査当日、頭部MRIの撮影が終了したときにそれは発覚して、
 
こぶの位置とは無関係な、頭部の中心中央左側に大きな何かが映っていました。
素人にもわかる異常な存在感を示すそれは、
 
 
 
「頭蓋底髄膜種」
 
 
 
と呼ばれる腫瘍であると告げられました。
 
 
 
この時点で、当時病院に勤務をしていた僕に、父から知らせがありました。
父はかなりショックを受けていた様子で、腫瘍の概要と、
「もう母は助からないかもしれない、よい医者を探してくれないか」
とだけ、僕に伝えました。
 
 
僕はわけもわからないまま、もてるネットワークをすべて駆使して、
一般の人間が診てもらえる可能性のある脳神経外科の名医を探し始めました。
 
 
 
 
 
その後、大学病院脳神経外科の医師から手術に関する説明がありました。
 
 
 
 
母の頭蓋底髄膜種は、小柄な人間の握りこぶしに匹敵するほどの超特大なもので、
 
写真に写るその存在感は、どかすことのできない壁、岩のような
言葉では言い表せない異様さがみて取れました。
 
 
 
大学病院脳神経外科の医師曰く
 
「良性ではあるが他の脳機関を大きく圧迫している。すぐにでも取るべき。
取らないのであれば、予後は長く見てあと5年程度。
オペの場合でも、一度のオペで取りきることはできず、
一度閉頭し、回復を待って再度行う、DCSのような術式を考えている。
手術難度はかなり高く、この病院でも経験はないもの」
 
と聞きました。
 
 
僕は、その医師の言葉を
「手術せず予後を過ごすか、危険を冒して手術するか。手術をした場合もほぼ助からない」
 
といっていることだと認識しました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
母が死ぬ
 
 
 
 
 
 
 
 
このとき妻のおなかには16週に満たない、
両親にとって初孫になる長女がいました。
 
 
 
 
 
孫の顔も見せられずおばあちゃんにしてあげられない
息子が人の親になった姿も見せてあげれないのか
 
 
 
あれほど自分が情けなく、親不孝者だと感じたことはなかったです。
 
 
 
 
そして肝心の医者探しはというと、
 
 
僕が当時勤めていた病院では、僕は医療連携の仕事はしていませんでしたが、
昔取った杵柄で、自身の仕事の手が空いているときは医療連携チームの
手伝いをすることもあったため、コミュニケーションは取りやすい状態にありました。
 
そこでそのチーム員から、
 
世界的に有名な福島孝徳先生が日本でオペをする際に
間借り的に利用している病院が都内にも何か所かあり、
その病院が、僕が勤めていた病院と最近大きく関係性を持ち始めた
南東北グループの「総合東京病院」である
 
という情報を得ました。
 
 
早速、個人的に総合東京病院に連絡をしましたが、
福島先生とのコネクションについては回答不可とのことでした。
 
 
 
理由は、福島先生は南東北グループ専属の医師ではないため、
その診療に関することはわからない、回答できないということでした。
 
 
 
諦めがつかなかった僕は、医療連携の時に一度だけ面識のあった
総合東京病院の連携室事務員にコンタクトをとることにしました。
 
 
 
結果として、その事務員の方から、
福島先生の診療を受ける可能性がある方法を教えていただくことができました。
 
 
その内容は、
東京都の千代田区にある小さなクリニックで、
福島先生の弟子先生が診察をし、
福島先生が行うべき症例かどうかを精査する外来、
通称「福島外来」があると。
そこで福島先生が担当すべき案件と判断された場合、
福島先生に診てもらえる可能性があると。
 
 
 
 
 
 
これだけでもなんと眉唾のような、都市伝説のような話です。
 
 
 
 
 
 
ですが当時、藁をもすがる思いだった僕は、
わずかでも可能性があるなら、と伝え、
親切なその方は予約の手伝いまでしてくださいました。
 
 
 
 
その時は、
まさか自分の母が世界的名医に手術をしてもらえるとは思っておらず、
 
母の症例にあった医師を紹介してもらえるかもしれない
もしかしたら、手術を受けて長く生きられる未来があるのかもしれない
 
程度の期待をもって、予約の日に母をそのクリニックへ連れて行きました。
 
 
 
ついてすぐ、そのクリニックで簡単な説明がありました。
それは、通常の保険診療プラス2万円の診察料がかかるとのこと。
 
 
 
 
 
 
 
え?それだけ?
 
 
 
 
 
 
 
ますます、福島先生に診ていただける可能性が低いことを感じていました。
普通こういうのって自立するほどの札束をもなかの箱底に敷き詰めて
「なんとか母を、、」「いやいや困りましたな」
みたいなドクターエックスに出てくるようなやり取りがあるのかと思っていました。
 
事務の方の説明書きの中には、そのような行為は一切受け付けないと
はっきり書かれてありましたので、なお驚きましたが。
 
 
 
診察の順番を待ち、診察室に呼ばれましたが、
外来にいた先生はかなりお若かったです。
 
その若い先生は、診察をし、
母の病状、画像等を一通り確認したあと
 
僕たちにしばらく待つように伝えました。
 
 
 
 
 
 
しばらくしてまた診察室に呼ばれて、
 
「この症例は福島案件です。
たまたまですが、来月の初めに福島が日本にくるので、
この日にまたこちらに来てください」
 
 
 
 
 
 
 
 
え?
福島先生に診てもらえるの?
 
 
 
 
 
 
 
 
あっけにとられたまま両親は、帰りの道中、
何度も僕に、「本当にあの福島先生なのか」と尋ね、
僕もあまりのとんとん拍子に、正直わからなくなっていました。
 
 
 
そのあとで福島孝徳先生の評判を再度調べに調べ、
調べるほどに今起きていることが信じられないものだという
認識を深めていました。
 
 
 
続く。。。。

 
 
 
 
 
 

2020-2021へ

お久しぶりです。

令和初投稿のCHAN-TAKAです。

本当にお久しぶりです。


知ってる人は知ってますが、


2019〜2020は本当に大変な年でした。


自分のアドバンテージとしていた部分、

積み上げてきたもの、

大事な時間、


全てを棒に振った年だったなーと思います。



人生に起こる出来事はまるで地震の様です。




予想もしなかった角度からパンチをもらう様な。
溜まりに溜まったエネルギーが突然爆発するような。




うまく言えないけどそんな年だったかな。




お世辞にも良い年だったねとは言い難い。




ただ、そんな年でも自分の一生の大事な一部分。
どのように捉えるかは自分次第。
この一年をどう化けさせるかは、まさにこれからの自分の生き方に直結しています。



そう言えば2019は毎年恒例の干支コラムも書いてなかったな。笑


考える余裕も無かったのかも。



子年でしょ。


20日で成獣になるんだよね。
まさにそんな年だったなー。

初めて挑戦する分野にノーガードで繰り出して、
一気に多数のジャンルの知識を詰め込んだ。

すぐにその知識を実用化したくって無理矢理咀嚼したけど、
人の心の機微にまで当て込むのは相当難しかった。


多分この知識や経験は自分の一生にいつか大きな恩恵をもたらすと思う。

でも、それは今すぐじゃなかったね。



付け焼き刃の知識はすぐボロが出る。
刃こぼれする。


大事なことはもっと根本の、
人間、人格、考え方とかそういうところだな



俺のしたいことってなんだったっけ?
俺が生きてる目的って何だったっけ?

そのために何が必要なんだったっけ?
それを手に入れる準備ってできてるんだっけ?



年末に途方もなく振り返った年でした。



さ、反省ばかりの去年、過去はもう完了。

本年は丑年です。
俺の大好きな牛肉の年。

どこ食べても美味いんだよな。







そんな牛で、ひとつ小話を。


和牛と国産牛の違いって知ってます?

実は和牛って呼べるのは厳密にはたった4種類しかいないそうです。

黒毛とか無角とか、よくは知らないですけどたったの4種類。



それ以外の牛を国産牛と呼ぶそうです。



人間の世界に置き換えると、


一流と呼ばれる大学や企業に勤めている人、
めちゃくちゃ金持ってる人
芸能人
イケメン、美女


そういう人たちを特別な呼び方にしているような感覚でしょうか?


だってそうでしょう?


国産牛にもサーロインはあるし、
フィレもシャトーブリアンもある。
イチボもザブトンもミスジもトウガラシも三角バラもある。
カイノミもシンシンもタンモトも…


失礼しました。


和牛も国産牛も、多少の味は違えど、生物として本質的な部分に大した違いなんか無いんですよ。


29〜30までの間、調子に乗っていい肉ばっかり食べ続けた私が言います笑

肉の味って、どんな環境で何食わせて育てたかで大きく味がかわるんですよ。本当に。


国産牛でも産地や畜産方法の違いで本当に味は分かれるし、
最高級の黒毛和牛も肉骨粉で育てれば、
ちゃんとO-157に当たるし。笑



何が言いたいかって


いまの自分、何食わせて育てた?
そしてこれから何食わす?


なりたい自分から逆算して、もう一度真剣に今の自分を棚卸しする。


そんな話です。




いままで自分が歩んできた道を否定することではなく

かといって過剰に肯定するわけでもなく



まるで古い道具箱から、まだ使えそうなものと要らないものをより分けるかのように

種別や種族は過去。もう完了して変えられないけど、


いままで生きてきて吸収してきた、使えそうな何かを見つけて、


もう一度刃を研ぐ。



今からでも間に合うとか、
間に合わないとか、そんなこと置いといて、
ただただ客観的に自分をみてみるだけでもいい。



今年はそんな年にしたいと思ってます。




牛から連想するのが自分の棚卸しって
なかなかイメージ湧きませんけど、


出自や所属に人一倍コンプレックスを感じていた俺だからこその視点かもしれません。



もっと言うと国産牛でも外国産牛でも調理法で味は大きく変わるからね笑


機会があれば俺の低温調理牛もいつかご賞味いただけたら嬉しいです笑




というわけで今年は干支イラストも無しです。



では良いお年を!!!笑

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