※ 当記事は、文字数制限対策の為、前編と後編に分けて投稿されております。
中学1年次、小学校高学年の頃から常態化し切っていた家庭内暴力と夏休み前に癌で祖母を亡くした事が重なって憔悴し掛けていた頃は、毎日が憂鬱で学校へ通う足取りも非常に重く、遅刻を繰り返す日々を送っていた。
ある時、1組から3組までの同学年の生徒達が視聴覚室で一堂に会する機会があった。20年以上も前の記憶である為、正確な情報は失念してしまったが、作文コンクールか何かの入賞者数名が、皆の前で一人ずつ作品を発表する事になったのだ。
静寂の中で一人、また一人と其々の作品を読み終えて行く中、最後の一人へと順番が回り、当人が立ち上がって前に出ると一気に衆目を集めた。
緊張からか若干声を震わせつつも、一言一句をしっかり発音して読もうとする姿勢が見て取れたが、やがて段々と声がか細くなっていき、気が付けばその子は目から涙を零しながら辛うじて読み上げていた。
作文を読み終えると室内には拍手が響き渡り、何とか事なきを得た様子で周りには彼女を慰める為に他の女子生徒数名が集まっていたのを覚えている。
突然、一体何の話をし出すのかと疑問に思うだろうが、その最後の発表者こそ1年後の中学2年次に同じクラスになり、いずれ筆者が片想いをすることになる「隣の席のお笑い好きな女の子」だったのだ。
翌年、同じクラスに振り分けられるまでは、特に名前も知らない同学年の女子生徒の一人でしかなかった訳だが、まさかその子が自分の隣の席に座る事になると誰が予想できただろうか。
始まりは、2年生に上がって直ぐの頃、授業中に1年次の担任教諭であった社会科担当の先生からちょっとした揶揄いの言葉を掛けられた事がきっかけであった。
「安田 (筆者の姓) 、どうした? お前、全然元気無いなぁ。〇〇の隣じゃ嫌か?」
内心、何を言っているんだと思いつつ左手に目をやると、1年前に視聴覚室で見た顔がそこにあり、その子は先生の言葉に含み笑いを浮かべていた。
当時の筆者は特に未だ何とも思ってはおらず、「作文発表の時のあの子」くらいの印象しか無かった為、暫くの間は無愛想に振舞い、前年から引き続き同じクラスになった後ろの席の男子とばかり話していた。
しかし、気が付けばその子とは自然に話す様になり、互いにお笑い好きである事が判明して番組を録画したVHSビデオテープを貸し借りし合いながら親睦を深めていくと、昼食時には筆者の弁当箱を手に持ち、「そっ、うちが作ったの!」と担任教諭の前でボケる姿を披露して笑わせてくれた事もあった。
暫く経ってクラス内で席替えをした際も、筆者を優先的に同じ班の中に組み込んでくれる程の良き友人関係を築きつつあり、その頃から徐々に意識をする様になっていった。
相手は恐らく筆者の事など遠い記憶の彼方に置いて来てしまっているだろうが、今でも本当に心から感謝しているし、同じ教室で共に過ごした1年間は何物にも代え難い宝で、当時の筆者にとって辛い時期の心の支えになってくれていた大切な存在だ。
故に、中学2年次は毎日学校へ行くのが楽しくて仕方が無く、あれ程嫌いで意義を見出せなかった勉学にも励み、学年で88位といった最悪とも言うべき順位から30位台前半まで成績を押し上げた。
学年主任の先生からも、このまま順当に行けば志望校合格への道も夢では無いと太鼓判を押される程で、個人的には大躍進の真っ只中に居た。
だが、3年生になるとクラス分けで互いに離れ離れになってしまい、そこから必然的に疎遠になると成績も徐々に下降し、二学期の後半では最終的に60番台まで落ち込んだ。
更に受験を目前に控えた2月に母方の祖父を病で亡くし、心が完全に折れてからは希望を失ってしまった。
唯一の救いは、3年次の新学期にクラス分けの発表が廊下に貼り出された際、あの子が筆者に掛けてくれた言葉だった。
「同じクラスが良かった」
全く同じ事を思ったが、突き付けられた現実を受け入れるしか無く、作り笑いをしながら黙って名簿表を見ていた様な気がする。
結局、年賀状のやり取りをする程度で、卒業する頃には殆ど接点の無い状態が続き、直接話したくても最後の最後までその機会に恵まれる事が無いまま短い中学校生活を終えてしまった。
筆者が頻繁に中学2年次の夢を見る理由は、それがずっと心残りになっているからだろう。
高校進学後、友人の伝を頼りに本人の許可を得てメールアドレスを入手し、勇気を振り絞って話しかけた事は何度かあったが、拙い文章力の所為か画面上では昔の様に会話が弾む事は無かった。
その後も同窓会や成人式で互いの顔を見掛けても、目すら合わせない様な状態にまで関係は冷え込んだ。やがて、20代も半ばに差し掛かる頃には、メールアドレス変更の通知すら届かなくなっていた。
だが、その状況を作り出したのは内に閉じ籠って彼等との接触を拒み続けた21歳当時の筆者自身であって、彼等が悪意を持って離れて行った訳では無い。
出来る事なら、いつの日か再び彼等全員と顔を合わせ、色々な話をしたい。例え話す内容が無くとも、皆が一堂に会して食事や談笑を愉しむ様子を輪の中で静かに見ているだけでも良い。
現在の筆者は、とても彼等に顔向け出来る様な状態では無いが、いつか人生最後の日を迎える前に、もう一度会いたい。
もし、彼等がこの記事を偶然発見して読んだら何を思うだろうか。ある者は感傷に浸り、ある者は嘲笑するかも知れないが、この際どちらでも構わない。
いつ何処で何があるか分からない世の中だからこそ、書き残しておく必要があると思った。卒業から20年以上が経過した今でも、あの日の事は鮮明に覚えているし、これから先も終生忘れ得ぬ想い出として心に残り続けるだろう。
話が少し横道に逸れるが、筆者には歳が9つ離れた妹が居る。彼女が2011年に中学へ上がると同時に、実家が木更津第三中学校の学区外へと引越したのだが、通い始めた学校で、何と「あの子」のお父さんが教鞭を取っていたのである。
何の悪戯か知らないが、人の縁という物は実に不思議だ。こうして、2002年の視聴覚室での邂逅に始まり、最後は意外な結末を迎えた。
中学2年次の頃の話にばかり寄ってしまったが、中学3年次は部活動で良き後輩達に恵まれた事もあって、決して悪い想い出だけでは無かった。
中学卒業後も、筆者を気に掛けてくれていた彼等に感謝をしているが、色々あってこちらから連絡を絶ってしまった事を大変に申し訳無く思っている。いつか何処かで見掛けたら、遠慮無く声を掛けて欲しい。
締め括りに、中学2年次の担任教諭から学級生徒全員に配られた合唱コンクール用のCDに隠しトラック的に収録されていた THE BLUE HEARTS の「青空」、平成16年度卒業記念DVDの挿入歌であるスピッツの「スターゲイザー」の2曲を以て終わりとする。
皆の健康と幸せを心から願って。






