〈ONE GOSHO この一節とともに!〉 男子部教学室編
· 全ては「一」から始まる
妙密上人御消息
広宣流布大誓堂完成10周年の「11・18」へ、「大訪問・激励運動」「折伏・弘教」に勇んで挑戦する男子部の友。ここでは、創立の魂である「一人立つ精神」を確認する。
御文
須弥山の始めを尋ぬれば一塵なり。大海の初めは一露なり。一を重ぬれば二となり、二を重ぬれば三、乃至十・百・千・万・億・阿僧祇の母は、ただ一なるべし。(新1706・全1237)
通解
須弥山の始めを尋ねれば一粒の塵である。大海の始めは一滴の露である。一を重ねれば二となり、二を重ねれば三となり、このようにして十、百、千、万、億、阿僧祇となっても、その生みの母はただ一なのである。
背景
本抄は建治2年(1276年)閏3月、日蓮大聖人が55歳の時に身延で著され、妙密上人に送られたお手紙である。妙密上人について、詳しいことは明らかでないが、「上人」と呼ばれていることから、信心強盛な門下であったと考えられる。また、夫妻で折あるごとに御供養を届けていたことがうかがえる。
冒頭、大聖人が御供養に対する御礼を記され、生命は最高の財宝であり、仏教ではその生命を慈しむために食物を施す功徳は大きいことをつづられる。
次に仏教史を概括され、末法には上行菩薩が出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提に弘めることを明かされる。そして大聖人が、上行菩薩に先立ち、南無妙法蓮華経と唱えていることを記され、やがては万人が唱える広宣流布の時が到来することを示されている。
解説
須弥山のような大山や、大海原も、「一塵」「一露」から成り立っている。「阿僧祇の母は、ただ一なるべし」とある通り、どれほど広大なものでも元をたどれば全ては「一」から始まる。同じように末法広宣流布の大聖業は、民衆救済の誓願に立たれた日蓮大聖人お一人から始まった。
拝読御文の後、大聖人は仏教史を振り返られ、いかにして御自身が一人立ち上がって、法華経の題目を弘められたのかについて明らかにされていく。
日本に仏教が渡って700年余りの間、阿弥陀如来や大日如来の名号は広まっても、法華経の題目である南無妙法蓮華経を勧める人は現れなかった。
このことを確認された上で、本抄では、法華経の題目が弘通されなかった理由として、法華経の題目を唱える以外に成仏できない末法という「時が来ていなかったこと」、そして「弘めるための付嘱を受けた人がいなかったこと」を挙げられている。
「付嘱」とは、仏が教えを弘めるように託すことである。法華経で釈尊は、滅後の広宣流布を上行菩薩をはじめとする地涌の菩薩に託された。大聖人は、末法においてその上行菩薩が出現し、法華経本門の肝心である南無妙法蓮華経が弘まることを示し、大聖人がその先駆けとして唱えていると仰せである。
大聖人は、当時の既存の宗教権威に依らず、権力の後ろ盾もなく、末法に生きる一人の凡夫として、上行菩薩の御自覚で妙法弘通の戦いを起こされた。
では、大聖人はいかにして時と法を知り、“最初の一人”となりえたのか。その鍵として、「経のままに」題目を唱え、人にも弘通する実践の大切さを教えられている。
実践を貫けば、「猶多怨嫉。況滅度後」(法師品)、「三類の強敵」(勧持品)と経文に説かれた通りの大難が起こることも、御自身の受けた大難を通して証明されたのだ。
大聖人直結の創価学会もまた、経文通りの大難を勝ち越えながら広宣流布を進めてきた。
牧口先生は折伏精神を貫き、軍国主義の横暴に屈せず、創立記念日と同じ11月18日に殉教なされた。2年間の凄惨な牢獄生活の末に出獄した戸田先生は、戦火による焼け野原に一人立ち、地涌の菩薩の自覚のままに民衆救済の闘争を貫いた。そして、その遺志を継いだ池田先生の不惜身命の大闘争によって、妙法は世界192カ国・地域に弘まった。御書を身読し、証明してきたのが創価学会であり、その後継の使命を担うのが、われわれ男子部である。
広宣流布は、「二人・三人・十人」(新1711・全1241)とあるように、一人から一人へと伝わってこそ実現する。どこまでも大切なのは、一対一の真心の励ましと信心の触発である。
池田先生はつづっている。「たとえ、『一塵』『一露』のような小さな存在であっても、決然と一人立ち、輝きを放てば、それは、ただ埋もれたままの一塵、はかなきままの一露ではありません」「一塵、一露が、須弥山、大海を荘厳するのです。これが『一念三千』の原理です。仏法が示す変革のダイナミズムなのです」
いよいよ、広宣流布大誓堂完成10周年の「11・18」を迎える。今こそ、“一人立つ”創立の精神を受け継ぎ、一対一の触発の対話で、広布の裾野を大きく広げゆこう!