小説「新・人間革命」に学ぶ 第1巻 | 励まし慈悲感動通信

励まし慈悲感動通信

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〈世界広布の大道――小説「新・人間革命」に学ぶ〉 第1巻 基礎資料編 
  物語の場面 1960年10月2日~25日

 

 新連載「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」では、『新・人間革命』研さんの参考資料や解説記事を掲載する。今回は第1巻の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を確認する。本連載は月4回、原則、水曜日に掲載。1カ月で1巻分を紹介する。「名場面編」は17日付、「御書編」は24日付、「解説編」は31日付の予定。


「旭日」の章
 第3代会長就任からわずか5カ月後の1960年10月2日、山本伸一は、「君の本当の舞台は世界だよ」との恩師・戸田城聖の言葉を胸に、初の海外歴訪へ出発。その記念すべき第一歩を、ハワイにしるした。
しかし、連絡の手違いから、ホノルルの空港には、通訳と案内をするメンバーの姿はなく、一人の青年があいさつに来ていただけだった。
明くる日、一行は国立太平洋記念墓地とパール・ハーバー(真珠湾)を訪れる。伸一は、「太平洋戦争の開戦の島であり、人種の坩堝ともいうべきハワイこそ、世界に先駆けて、人類の平和の縮図の地としなければならない」と深く決意する。
出席した座談会では、言語や習慣の異なる異国での生活に苦悩する日系人メンバーを温かく励まし、勇気づけていく。また、海外初の「地区」を結成。座談会を終えた後も、宿泊しているホテルで、地区部長となった壮年に渾身の励ましを送り、ハワイ広布への大きな布石を打つ。
ハワイの滞在は、わずか三十数時間であった。だが、メンバー一人一人への激励を重ね、世界広布の第一ページを開いた。


「新世界」の章
 平和旅の第2の訪問地サンフランシスコは、日本と連合国との講和条約と日米安全保障条約の調印の地である。伸一は、対立する東西両陣営と新安保条約を巡って紛糾した日本の状況に思いをはせる。
サンフランシスコでも地区を結成した伸一は、ネバダ州から来ていた夫妻と語り合い、ネバダにも地区を結成することを発表。アメリカ人の夫を地区部長に任命した。日系人以外の初の地区部長の誕生だった。
また、座談会で伸一は、アメリカ広布を担っていくために、「アメリカの市民権を取得し、良き市民に」「自動車の運転免許を取ること」「英語のマスター」という三つの指針を提案。それは、アメリカの同志の誓いの3指針となっていく。
さらに彼は、ミューア・ウッズ国定公園に向かう道中、ゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)の構造を通して、同行していた新任のリーダーに、異体同心の団結の重要性を訴える。
公園からの帰途、コロンブス像の前で代表のメンバーと記念撮影するとともに、広布の新世界開拓の誓いを固くする。


「錦秋」の章
 舞台はシアトル、シカゴ、そして、紅葉のカナダ・トロントへ。
シアトルのホテルに、大型のテープレコーダーを抱えた婦人が息を切らせて訪ねてくる。自分の地域のメンバーに伸一の指導を聞かせたいという熱意からの行動だった。伸一は体調を崩しながらも、出会った一人一人に励ましを送る。
シカゴの空港では、学会歌「威風堂々の歌」の合唱の出迎えを受ける。伸一は同行の幹部たちにアメリカ総支部の構想、インド、ヨーロッパ訪問の計画を語る。
リンカーン・パークで遊びの輪に入れてもらえない“黒人”の少年を目にした伸一は、人種差別の現実に心を痛め、万人の尊厳と平等を説く仏法流布の意義をかみ締める。一方、座談会には、さまざまな人種の人たちが和気あいあいと集い合っていた。
続いて、カナダのトロントへ。在住する会員はいないと一行は聞いていたが、空港に到着すると、一人の婦人が待っていた。彼女は、日本で入会していた母から、迎えに行くよう言われていた。誠実で思いやりにあふれる伸一の振る舞いに接し、後に彼女は信心を始める。


「慈光」の章
 次の訪問地は、アメリカ最大の都市ニューヨーク。一行は国連本部を訪れる。伸一は、独立間もないアフリカ諸国代表の生き生きとした姿に触れ、「二十一世紀は、必ずアフリカの世紀になるよ。その若木の生長を、世界はあらゆる面から支援していくべきだ」と訴える。
彼は、ニューヨークでも、苦悩に沈む友に、「一番、不幸に泣いた人こそ、最も幸福になる権利があります」と烈々たる気迫で指導。また、首都ワシントンでの座談会では、メンバーの質問に答えながら、仏法のヒューマニズムの精神に言及する。
さらに、ニューヨーク・タイムズ社の見学に行く秋月英介に、聖教新聞を「世界一流の新聞に」と語り、恩師・戸田城聖の「日本中、世界中の人に読ませたい」との言葉を伝える。そして、聖教は“人間の機関紙”であり、「『世界の良心』『世界の良識』といわれるような新聞にしなくてはならない」との思いを述べ、未来への展望を披歴する。
一方で、伸一の体調は悪化していく。ブラジル行きの中止を懇請する副理事長の十条潔に、戸田の弟子として断じて行くとの覚悟を語る。


「開拓者」の章
 ニューヨークからサンパウロへの移動の折、伸一は機内で十条に対し、ブラジルに支部を結成する構想を述べる。最悪な体調にもかかわらず、激しく揺れる機内でブラジル広布に思いを巡らしていた、伸一の世界広布への強き一念に、十条は驚く。
サンパウロの空港に到着したのは、午前1時半過ぎであった。出迎えに来ていた友の半数以上が、日本から移住し、農業に従事していた男性だった。伸一はメンバーの真心に感謝し、ブラジル広布の夜明けを開くことを誓う。
次の日、現地の視察に出かけ、夕刻には勤行会を開催。その後も、ホテルで深夜まで支部結成の打ち合わせを行い、寝る時間も惜しんで日本の同志に激励の手紙を書く。
座談会では、日系移住者の過酷な生活状況が語られる。伸一は、広布誓願の祈り、「努力」と「工夫」の大切さを強調。支部結成が発表されると、友の歓喜と決意は最高潮を迎える。
その後、一行はロサンゼルスに入り、ここでも支部を結成。彼は、24日間の平和旅で、3カ国9都市を巡り、2支部17地区を結成。10月25日夜、帰国する。

 参考資料=『データで学ぶ「新・人間革命」Vol.1』(潮出版社)
 【挿絵】内田健一郎

◆社説  「新・人間革命」を研鑽し前進   新しき創価の師弟の大叙事詩を


 小説『新・人間革命』の連載完結を迎え、新連載「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」が10日付からスタートした。第1巻は1960年(昭和35年)の10月2日、山本伸一会長の海外初訪問の出発シーンから始まる。それは、3日付本紙の池田主任副会長のインタビューで言及されている通り、師から弟子に託された「世界広布」の実現こそが、『新・人間革命』の主題であることを物語っている。
 池田先生の執筆自体が、世界広布の激務の中での、寸暇を惜しんでの「闘争」だった。だからこそ、小説を繙く時、弘教・拡大への限りない勇気と智慧が胸中に湧き上がってくる。
 東京のある区の壮年部は『新・人間革命』を学ぶ大学校を長年継続している。本部の責任者を務める副本部長(支部長兼任)は、出張の多い多忙な職場に勤務。毎月1巻を読破するのも戦いだ。その中で本年、職場の後輩を入会に導いた。心に刻むのは「折伏を成し遂げる要諦は何か。それは決意です」(第13巻「北斗」)との指針。「断じてやると決めました。だから結果を出せたのです」と。
 本年10人目の対話の末に弘教を実らせたある支部長は「一人当たって駄目なら二人。二人当たって駄目なら三人、五人、十人と当たり、十人で駄目なら二十人……それが、すべて、功徳、福運となり、宿命転換の力となっていきます」(第25巻「共戦」)との指導を実践した結果という。「皆さんが一緒に立ち上がり、支部として目標を大きく上回る拡大を果たすことができました」と笑顔で語る。
 病院で働きながら4人の子を育ててきた支部副婦人部長。この四半世紀、離婚、子どもの病気、隣室の出火による自室の全焼など数々の苦難を乗り越えてきた。その原動力が日々の唱題と『新・人間革命』の連載だった。命を削って執筆を続ける師への報恩を誓い、昨年「11・18」に弘教を。以来、先月まで3世帯4人の友を入会に導く。周囲からの信頼は厚く、「弘教を実らせることほど、すばらしい人生の栄光はありません」(第29巻「清新」)との一節をかみ締めている。
 海外初訪問から始まる『新・人間革命』は、「広宣流布の大誓願に生き抜く、地涌の菩薩の大陣列」との言葉で締めくくられている。われら地涌の菩薩の「誓願の行動」があってこそ、小説に描かれた壮大な民衆のドラマは完結する。清新な決意を胸に「創価の師弟の大叙事詩」をつづり残していきたい。

◆〈世界広布の大道――小説「新・人間革命」に学ぶ〉 第1巻 名場面編 


  今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第1巻の「名場面編」。励ましに彩られた感動の名場面を紹介する。本連載は月4回、原則、水曜日に掲載。1カ月で1巻分を紹介する。次回の「御書編」は24日付、「解説編」は31日付の予定。(「基礎資料編」は10日付に掲載)

★「旭日」の章  皆の幸せのために

 ヒロト・ヒラタは、瞳を輝かせ、真剣に耳を傾けていた。伸一は、確かな手応えを感じながら、幹部としての信心の姿勢を話していった。 
 海には、丸い月がほの白い影を映し、浜辺には、波の音が静かに響いていた。
 「これからの人生は、地区部長として、私とともに、みんなの幸せのために生きてください。
 社会の人は、自分や家族の幸せを考えて生きるだけで精いっぱいです。そのなかで、自ら多くの悩みを抱えながら、友のため、法のため、広布のために生きることは、確かに大変なことといえます。
 しかし、実は、みんなのために悩み、祈り、戦っていること自体が、既に自分の境涯を乗り越え、偉大なる人間革命の突破口を開いている証拠なんです。
 また、組織というのは、中心者の一念で、どのようにも変わっていきます。常にみんなにために戦うリーダーには、人は付いてきます。しかし、目的が自分の名聞名利であれば、いつか人びとはその本質を見抜き、付いてこなくなります」
 ヒラタには、乾いた砂が水を吸い込むような、純粋な求道の息吹があった。伸一は、彼の手を握りながら言った。
 「あなたを地区部長に任命したのは私です。あなたが敗れれば、私が敗れたことです。責任は、すべて私が取ります。力の限り、存分に戦ってください」
 「はい!戦います!」
 ヒラタは伸一の手を固く握り返した。月明かりのなかで二人の目と目が光った。
(「旭日」の章、76~77㌻)

★「新世界」の章 異体同心の団結で
 市街を抜け、サンフランシスコ湾を右手に見ながら進んでいくと、行く手にゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)の赤い鉄柱が見えた。それは、近づくにつれて、頭上にのしかかってくる
かのようにそびえ立っていた。
 一行は、橋の近くの広場で車を降り、休憩することにした。
 広場には、橋を吊り上げているケーブルの一部が展示されていた。その直径は92.4センチメートルで、2万7,572本のワイヤを束ねて作ったものだという。
 一行は、展示されたケーブルを、取り囲むようにして立った。
 「ケーブルは太いけれど、中の一本一本のワイヤは意外に細いものなのね。これで、よくあの橋を吊り上げることができるわね」
 清原かつが、驚きの声をあげた。
 伸一は清原の言葉に頷きながら、前日、地区部長と地区担当員に任命になったユキ子・ギルモアとチヨコ・テーラーに向かって語り始めた。
 「確かに、一本一本は決して太いものではない。しかし、それが、束ねられると、大変に大きな力を発揮する。これは異体同心の団結の姿だよ。
 学会も、一人ひとりは小さな力であっても、力を合わせ、結束していけば、考えられないような大きな力を出せる。団結は力なんだ。これからは、あなたたちが中心になって、みんなで力を合わせ、サンフランシスコの人びとの幸せと広布を支えていくことです」
 「はい!」
 二人が同時に答えた。彼女たちは、自分たちが途方もなく大きな、崇高な使命を担っていることを強く感じ、身の引き締まる思いがした。 (「新世界」の章、134~135ページ)

★「錦秋」の章 会長就任「五月三日」の夜

 伸一は、第三代会長として、一閻浮提広布への旅立ちをした、この年(一九六〇年=編集部注)の五月三日の夜、妻の峯子と語り合ったことを思い出した。
 ――その日、夜更けて自宅に帰ると峯子は食事のしたくをして待っていた。普段と変わらぬ質素な食卓であった。
 「今日は、会長就任のお祝いのお赤飯かと思ったら、いつもと同じだね」
 伸一が言うと、峯子は笑みを浮かべながらも、キッパリとした口調で語った。
 「今日から、わが家には主人はいなくなったと思っています。今日は山本家のお葬式ですから、お赤飯は炊いておりません」
 「確かにそうだね……」
 伸一も微笑んだ。妻の健気な言葉を聞き、彼は一瞬、不憫に思ったが、その気概が嬉しかった。それが、どれほど彼を勇気づけたか計り知れない。
 これからは子どもたちと遊んでやることも、一家の団欒も、ほとんどないにちがいない。妻にとっては、たまらなく寂しいことであるはずだ。だが、峯子は、決然として、広宣流布に生涯をささげた会長・山本伸一の妻としての決意を披瀝して見せたのである。
 伸一は、人並みの幸福など欲しなかった。ある意味で広布の犠牲となることを喜んで選んだのである。今、妻もまた、同じ思いでいることを知って、ありがたかった。 (「錦秋」の章、156~158ページ)

★「慈光」の章 師弟貫く不屈の闘魂

 伸一は、背広のポケットにしまった恩師・戸田城聖の写真を取り出すと、ベッドで体を休めながら、その写真をじっと見つめた。
 彼の頭には、戸田の逝去の五カ月前の十一月十九日のことが、まざまざと蘇った。それは恩師が病に倒れる前日であった。伸一はその日、広島に赴こうとする戸田を、叱責を覚悟で止めようとし
た。
 恩師の衰弱は極限に達して、体はめっきりとやつれていた。更に無理を重ねれば、命にかかわることは明らかだった。
 学会本部の応接室のソファに横になっている戸田に向かい、彼は床に座って頭を下げた。
 「先生、広島行きは、この際、中止なさってください。お願いいたします。どうか、しばらくの間、ご休養なさってください」
 彼は必至で懇願した。しかし、戸田は毅然としていった。
 「そんなことができるものか。……そうじゃないか。仏のお使いとして、一度決めたことがやめられるか。俺は死んでも行くぞ。
 伸一、それが真の信心ではないか。何を勘違いしているのだ!」
 その烈々たる師の声は、今も彼の耳に響いていた。”
 あの叫びこそ、戸田先生が身をもって私に教えてくれた、広宣流布の大指導者の生き方であった”
 ブラジルは、日本とちょうど地球の反対にあり、最も遠く離れた国である。そこで、多くの同志が待っていることを考えると、伸一は、何としても行かねばならないと思った。そして、皆を励まし、命ある限り戦おうと心を定めた。胸中には、戸田の弟子としての闘魂が燃え盛っていた。
(「慈光」の章、265~266ページ)


★「開拓者」の章   肉体が限界を超えても

【挿絵】内田健一郎

 打ち合わせが終わったのは深夜だった。伸一の肉体の疲れは既に限界を超え、目まいさえ覚えた。
 しかし、バッグから便箋を取り出すと、机に向かい、ペンを走らせた。日本の同志への激励の便りであった。手紙は何通にも及んだ。
 彼は憔悴の極みにあったが、心には、恩師・戸田城聖に代わってブラジルの大地を踏み、広布の開拓のクワを振るう喜びが脈動していた。その歓喜と闘魂が、広宣流布を呼びかける、熱情の叫びとなってあふれ、ペンは便箋の上を走った。
 ある支部長には、こうつづっている。
 「今、私の心は、わが身を捨てても、戸田先生の遺志を受け継ぎ、広布の総仕上げをなそうとの思いでいっぱいです。そのために大事なのは人です、大人材です。どうか、大兄も、私とともに、最後まで勇敢に、使命の道を歩まれんことを切望いたします。
 そして、なにとぞ、私に代わって支部の全同志を心から愛し、幸福に導きゆかれんことを願うものです」
 日本の同志は、この時、伸一が、いかなる状況のなかで手紙を記していたかを、知る由もなかった。しかし、後日、それを知った友は、感涙にむせび、拳を振るわせ、共戦の誓いを新たにするのであった。人間の心を打つものは、誠実なる行動以外にない。
 (「開拓者」の章、290~291ページ)

 

 

◆〈世界広布の大道――小説「新・人間革命」に学ぶ〉第1巻 御書編

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第1巻の「御書編」。小説で引用された御書、コラム「ここにフォーカス」と併せて、識者の「私の読後感」を紹介する。

御文 『法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか』(御書265ページ、撰時抄)
通解 法華経の大白法が、日本の国並びに一閻浮提(全世界)に広宣流布することも、疑いないことではないか。

小説の場面から
<1960年10月2日、山本伸一は初の海外訪問へ。機中、「世界に征くんだ」との恩師の遺言や、激化する東西冷戦などの国際情勢に思いをはせ、自身の使命をかみ締める>

 伸一は思った。
 ”日蓮大聖人は、人類の苦悩をわが苦とされ、立正安国の旗を掲げて立たれた。
 まさに幸福と平和への軌道の法則を示されたのである。
 そして、「法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せんことも疑うべからざるか」と、世界の広宣流布を予言され、その実現を後世の弟子たちに託された。
 今、その時が来たのだ”
 この世に生を受けて三十二年――世界広布を生涯の使命とし、その大業の扉を今、自らの手で開きゆくことを思うと、伸一の心は躍った。
 日蓮仏法は、一切衆生が、等しく仏性を具え、一念三千の当体であることを明かしている。
 また、人間を拘束する、全ての鉄鎖を解き放つ方途を示している。
 まさに、人間の「尊厳」と「平等」と「自由」を打ち立てた、この日蓮大聖人の仏法こそ、二十一世紀の未来を照らし、世界に普遍なる幸の大光を放つ、全人類の平和のための世界宗教にほかならない。(「旭日」の章、15~16ページ)


御文 『命限り有り惜しむ可からず遂に願う可きは仏国也』(御書955ページ、富木入道殿御返事)
通解 命は限りあるものである。これを惜しんではならない。ついに願うべきは仏国土である。

小説の場面から
 <海外平和旅の3番目の訪問都市・シアトルで、伸一の体調は悪化。病魔と闘いながら行程を進め、シアトルの名所・ワシントン湖に立ち寄る>

 湖面の彼方に、山々が雨で淡く霞み、黄や赤に染まった森の木々が水彩画のように見えた。
 「本当にきれい! まるで絵のようね……。でも、この美しい葉も、すぐに散ってしまうと思うと、無常を感じるわね」
 しんみりした口調で、清原かつが言った。
 伸一はそれに笑顔で応え、静かに語った。
 「鮮やかな紅葉は、木々の葉が、限りある命の時間の中で、自分を精いっぱいに燃やして生きようとする姿なのかもしれないね……。
 すべては無常だ。人間も生老病死を避けることはできない。
 だからこそ、常住の法のもとに、一瞬一瞬を、色鮮やかに燃焼させながら、自らの使命に生き抜く以外にない。人生は、限りある時間との戦いなんだ。
 それ故に、日蓮大聖人も『命限り有り惜しむ可からず遂に願う可きは仏国也』と明確に仰せになっている。
 今の私にほしいのは、その使命を果たすための時間なんだ……」
 最後の言葉には、伸一の切実な思いが込められていた。しかし、その深い心を汲み取る人はいなかった。
 色づく錦秋の木々にも増して、伸一の心には、広宣流布への誓いが、鮮やかな紅の炎となって燃え盛っていた。(「錦秋」の章、164ページ)

ここにフォーカス
三指針の意義


 「新世界」の章では、山本伸一がアメリカの日系の同志に、①市民権を取得し、良き市民に ②自動車の運転免許の取得 ③英語の習得――を提案する場面が描かれています。
 この三つの指針の意義について、米国の宗教史学者リチャード・シーガー博士は、こう述べています。
 「日系社会に閉じこもりがちだった他の仏教団体の中にあって、アメリカ社会に開いた活動を会員に促したことは、仏教のグローバル化の第一歩を印す貴重な事跡であったといえる」
 伸一が示した三指針は、「今いる場所に根を張る」ことの大切さを訴えたものといえます。地域を愛し、地域と共
 に生きる。ここに、学会が世界宗教として飛翔する第一歩がありました。
 「地域広布」即「世界広布」です。三指針の精神性は、世界広布の未来を照らす不滅の輝きを放っています。

私の読後感 ブラジルの音楽家アマラウ・ビエイラ氏  後世に伝わる永遠の名作

 『新・人間革命』の完結を、心よりお祝い申し上げます。
 池田先生のペンの闘争は、たとえて言うならば、エベレストの頂上を目指し、一歩また一歩と登っていくようなものでしょう。そこには嵐もある。吹雪もある。それでも、ただ平和のため、文化のため、戦いを続けてこられた。どれほどの心労を尽くしてこられたことでしょう。想像を絶します。
 ベートーベンの「第九」は、誰もが知る不朽の名曲です。『新・人間革命』もまた、時代から時代へと伝わる永遠の名作であると信じて疑いません。
 これまで、先生の数々の著作を読んできました。『新・人間革命』からも多くのことを学んできました。
 今、世界は分断の様相を呈しています。だからこそ、私たちは「平和ほど、尊きものはない」で始まる冒頭の一節を、何度も繰り返して読み、そこに込められた先生の思いに、自らの行動を通して迫っていかなければなりません。
 『新・人間革命』は今、多くの言語に翻訳されています。何れ、世界中で繙かれる時が来るでしょう。そして、幾多の人々が自身の人間革命に立ち上がるに違いありません。
 『新・人間革命』第1巻「開拓者」の章には、先生のブラジル初訪問のことが記されています。その歴史は、ブラジルSGIノミナラズ、ブラジルという国家においても重要な意義があります。なぜなら、自身の生活に苦悩していた人たちが、ブラジルの平和、社会の繁栄のために立ち上がったからです。
 先生は『新・人間革命』第28巻「広宣譜」の章で、「平和・希望・確信・勇気に満ちた学会歌は”私の心の歌”です」との私の言葉を引用してくださいました。それは”音楽を通して、新たな人間主義の時代を築いてほしい”との私に対するご期待であるように感じてなりませんでした。
 これからも、音楽を通して、世界の人々の心を結んでいきたい。SGIの皆さまと手を携えながら。

◆世界広布の大道――小説「新・人間革命」に学ぶ 第1巻 解説編 

紙上講座 池田主任副会長


〈ポイント〉
①物語の時代背景
②世界宗教への幕開け
③「一人」への励まし


 

 

小説『新・人間革命』第1巻「新世界」の章の舞台となったアメリカ・サンフランシスコ(1993年3月、池田先生撮影)
  
 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第1巻の「解説編」。池田博正主任副会長の紙上講座とともに、同巻につづられた珠玉の名言を紹介する。本連載は月4回、原則、水曜日に掲載。1カ月で1巻分を紹介する。次回は、第2巻の「基礎資料編」を11月7日付に掲載予定。(第1巻の「基礎資料編」は10月10日付、「名場面編」は17日付、「御書編」は24日付に掲載) 
 小説『新・人間革命』第1巻の「はじめに」には、池田先生が執筆を思い立った理由が二つ挙げられています。
 一つは「先生亡き後の広宣流布の世界への広がりこそが、恩師の本当の偉大さの証明になると考えたから」(2ページ)であり、もう一つは「恩師の精神を未来永遠に伝えゆくには、後継の『弟子の道』を書き残さなければならないとの思いから」(同)でした。
 すなわち、池田先生にとって、『新・人間革命』の執筆は、恩師の偉大さを証明し、その精神を未来永遠に伝えゆく弟子の実践だったのです。
 前作の小説『人間革命』は、「黎明」の章から始まります。これに対して『新・人間革命』は、「旭日」の章からスタートします。
 「黎明」「旭日」は、どちらも太陽が関係する表現ではありますが、意味合いが少し異なります。
 「黎明」とは、夜明け。この黎明の後に昇るのが「旭日」です。
 『人間革命』では、戸田先生の心の中だけに「黎明」があったと述べられています。つまり、戸田先生お一人の心から始まった「地涌の菩薩」としての自覚と実践が、弟子・山本伸一に受け継がれ、旭日の勢いで、世界へ広宣流布が広がっていったのです。
 さて、『新・人間革命』第1巻が発刊されたのは1998年(平成10年)の1月2日。池田先生が70歳の古希を迎えた日です。この2日後の1月4日付の聖教新聞に、第1回となる「随筆 新・人間革命」が掲載されました。その中で先生はご自身の来し方を10年ごとに振り返りつつ、未来を展望されます。
 「七十歳まで……新しき人間主義の哲理を確立 八十歳まで……世界広布の基盤完成なる哉 このあとは、妙法に説く不老不死のままに、永遠に広宣流布の指揮をとることを決意する」
 『新・人間革命』第1巻の「あとがき」には、こうあります。「生命の続く限り、動き、語り、そして、遺言の思いで、『新・人間革命』を書き続けていくつもりである」(353ページ)。この『新・人間革命』を執筆することによって、池田先生は、創価三代の精神を後世に、また永遠に留めていこうとされたのだと思えてなりません。


皆がダイヤの原石 
 第1巻について、三つの観点から考えていきたいと思います。
 第1のポイントは「時代背景」です。伸一が世界広布の第一歩を刻んだ60年(昭和35年)は、国内外において激動の時代でした。
 日本では、日米安全保障条約の改定を巡り、国論は二分していた。世界は冷戦時代の真っただ中で、核兵器の脅威にさらされていました。
 アメリカ国内を見ても、人種差別が続いていた。ブラジルでは、日系移住者が数多くの労苦を抱えていました。伸一は、その国や地域の時代背景を踏まえた上で指導しています。
 第2のポイントは「世界宗教への幕開け」です。伸一は、恩師から託された世界広布を、どう具体的に進めていくか、人知れず模索していました。
 サンフランシスコでは、信心していない壮年を地区の顧問に任命したり、ネバダ州から来ていた夫妻と会うや、ネバダ地区の結成を決めたりします。
 これについて、「彼の打つ手の一つ一つは、決して、単なる思いつきではなかった。たとえ瞬時に下された決断であっても、広宣流布のために一念に億劫の辛労を尽くしての熟慮があった」(122ページ)と記されています。
 また、「アメリカという新天地に、題目を染み渡らせる思いで、国土の繁栄を祈り念じ、常に唱題を心がけていた」(190ページ)とつづられている通り、伸一は訪問した先々で、友の幸福と地域の発展を胸中で祈りながら、平和旅を続けました。
 こうした真剣な祈りと、24日間で3カ国9都市を巡るという激闘によって、2支部17地区が結成され、世界宗教への幕が開かれたのです。
 最後のポイントは、世界広布といっても、「目の前の『一人』を励ますことから始まる」ということです。たとえ支部や地区をつくっても、組織を担っていくのは「人」だからです。
 サンフランシスコで、“人材がいない”と嘆く同行の幹部に対し、伸一はこう語ります。
 「みんな人材です。これから光ってゆきます。純粋に信心を全うしていけば、みんな広布の歴史に名を残すパイオニアの人たちです」(132ページ)
 伸一にとっては、一人一人が「ダイヤモンドの原石」でした。その宝の人材を伸一自らが率先して「見つけ」「磨き」「育てる」ことを実践したのです。
 シカゴでは、ホテルの廊下に座り込んで、伸一の帰りを待っていた婦人たちと懇談しました。皆、身なりも立派ではなかった。しかし、伸一は「仏」と捉え、全力で激励していきます。
 外見や立場などで、決してその人を判断しない。また、信心していなくとも、一つ一つの出会いに心を注ぎ、友情をはぐくんでいく。それが、伸一の信念であり、私たち一人一人が模範とすべき根本姿勢です。


「征」の一字の意味 
 「旭日」の章に、戸田先生が伸一に語った言葉がつづられています。「伸一、生きろ。うんと生きるんだぞ。そして、世界に征くんだ」(14ページ)
 ここで注目したいのは、「ゆく」の漢字が「行」ではなく、「征」となっている点です。この「征」の字には「攻めに向かう」といった意味が含まれています。
 第1巻の最後には「伸一にとって、この旅は、果てしなき平和への遠征の始まりであった」(346ページ)と。恩師の「征くんだ」との叫びは、池田先生にとって戸田先生と歩む「平和への遠征」の原点にほかならなかったのです。
 学会歌「人間革命の歌」の歌詞の中に、「君も征け 我も征く 吹雪に胸はり いざや征け」とあります。私たちも小説『新・人間革命』を学びながら、師と共に「平和への遠征」へ出発しようではありませんか。

名言集 

●幸福の宮殿
 幸せの大宮殿は、あなた自身の胸中にある。そして、その扉を開くための鍵が信心なんです。(「旭日」の章、58ページ) 

●「時」を逃すな
 戦いの勝敗も、いかに一瞬の時を生かすかにかかっている。友への励ましにも、逃してはならない「時」がある。(「新世界」の章、114ページ) 

●師子の存在
 いずこの地にあっても、広布を推進していくには、一人立つ師子の存在が不可欠である。いかなる困難にも敢然と立ち向かい、広宣流布の全責任を担おうとする「人」がいなければ、向上も、発展もありえない。(「錦秋」の章、202ページ) 

●大木とマッチ棒
 大きな釣鐘があっても、どんな撞木を使うかによって、音の出方は違ってくる。大木で力いっぱい突けば、大きな音が出るけれど、マッチ棒や割り箸で叩いたのでは、小さな音しか出ないでしょう。これと同じように、御本尊は、無量の仏力、法力を具えていますが、こちらの信力、行力が弱ければ、マッチ棒で釣鐘を叩いているようなもので、大きな功徳を出すことはできない。(「慈光」の章、237~238ページ) 

●誓願の祈り
 日蓮仏法の祈りは、本来、“誓願”の唱題なんです。その“誓願”の根本は広宣流布です。
 つまり、“私は、このブラジルの広宣流布をしてまいります。そのために、仕事でも必ず見事な実証を示してまいります。どうか、最大の力を発揮できるようにしてください”という決意の唱題です。これが私たちの本来の祈りです。
 そのうえで、日々、自分のなすべき具体的な目標を明確に定めて、一つ一つの成就を祈り、挑戦していくことです。その真剣な一念から、智慧が湧き、創意工夫が生まれ、そこに成功があるんです。(「開拓者」の章、295ページ) 

●人生の開拓者
 人は皆、人生という原野をゆく開拓者です。自分の人生は、自分で開き、耕していく以外にありません。信心というクワを振るい、幸福の種を蒔き、粘り強く頑張ることです。広宣流布のために流した汗は、珠玉の福運となり、永遠にあなたを荘厳していきます。(「開拓者」の章、300ページ) 
 ※『新・人間革命』の本文は、聖教ワイド文庫の最新刷に基づいています。



◆信仰体験 49歳で教員採用試験に合格  児童に伝えたい “努力は必ず実を結ぶ” 
 
【大阪府枚方市】 「四十不惑」、40歳で人生の迷いなしと「論語」にあるが、中尾好治さん(56)=東開成支部、副圏長=の心は大きく揺れていた。当時45歳。紙製品メーカーに勤めていたが、若き日に抱いた教育者への夢が、再び大きくふくらんでいた。“挑戦するなら、今が最後のチャンス”と――。

葛藤を越えて 
 力ある教師になりたい、という願いが、信心を始めた動機だった。大阪教育大学の2部(夜間部)で学んでいた1982年(昭和57年)、同級生から創価学会の話を聞いて入会する。当時は、教員採用試験の倍率が非常に高く、教育大学を出ても、簡単には教員になれなかった。
 学生部の飛翔会(2部学生のグループ)の友と切磋琢磨しながら活動に励み、84年の第4回「世界平和文化祭」にも出演し、信心の歓喜を実感した。懸命に祈る中で教員採用試験を受けたが、結果は1次試験で不合格だった。講師としての働き口も見つからず、卒業後、いったんは企業に就職することにした。
 建築用装飾材のメーカーで営業職として働きながら、教員採用試験に挑み続けた。だが年々、仕事は忙しくなり、2年続けて、2次試験で不合格となった。
 “自分の使命の道は、教員ではないんだろうか”“でも、ここで諦めたら、後悔の残る人生になるのでは”。続けるかやめるか、毎日のように葛藤した。
 悶々とする心の内を、男子部の先輩が親身に聞いてくれた。そして力強く、「祈って努力した結果なら、必ず意味があるから」。
 熱い励ましに、中尾さんは仕事に専念すると腹を決めた。それからは、信心根本に一層、真剣に働いて、頭角を現していく。
 翌年、西日本トップの営業成績を達成した時には、この道で間違いはなかったとの思いが込み上げた。

志の炎、再び 
 仕事ぶりや業績が評価され、33歳で大阪営業所長に昇進したのは、95年(平成7年)のことだった。存分に学会活動に励み、未来部の育成にも携わるようになると、充実感は一段と増した。“教師でなくても、子どもたちの成長を支えることはできる”と思えた。
 その思いとは裏腹に、時折、遠足中の子どもたちなどを見掛けては、感慨にふけっている自分がいた。かつての志の炎が、まだ消えずに残っていることに、戸惑いを感じた。
 99年、不況のあおりで、大阪営業所の閉鎖が決まる。中尾さんは悩んだ末、関東にある本社への異動を断って、退職を決断。再就職し、営業マンとして働くようになった。
 そんなある日、信心の紹介者でもある親友と語り合った。当時、中尾さんは45歳。身体的な負担の問題から、折しも転職を考えていた頃だった。小学校の教頭を務めていた親友の「最近は、どの学校も教員が足りずに困っている」という言葉が、中尾さんの心を揺り動かした。
 込み上げてくる熱い思いは抑えがたく、家に帰ると、妻・俊子さん(51)=支部副婦人部長=に打ち明けた。当時、新築した家のローンを返済し始めたばかりで、育ち盛りの子どもが3人いた。
 それでも妻は「挑戦してみたら。父親が夢を諦めたら、子どもたちに何も言えないでしょう」と背中を押してくれた。あふれる感謝と、それゆえに一層、後には引けない覚悟を胸に、中尾さんは挑戦を開始した。

苦難の道堂々と 
 教員採用試験の受験には、講師としての勤務経験が必要だったため、2008年(同20年)7月、大阪府の小学校講師登録を済ませた。
 早速、9月から担任を務めることに。受け持ったクラスは、学級崩壊の状態で、いきなりの悪戦苦闘が始まる。
 そんな中でも、採用試験の勉強をしなければならない。時に心が折れそうになる。歯を食いしばり踏ん張れたのは、学生部時代の同志との、絆のおかげだと中尾さんは言う。
 「毎年、年末に集まっては、時に叱咤し励まし合ってきたんです」
 当時、胸に刻んだ、池田先生が飛翔会に贈った言葉を思い起こすのだった。
 「諸君の人生の勝利は、そのまま広宣流布の実証である」「自ら選んだ苦難の道を、堂々と切り開いていってください」
 目の回るような日々の中でも、自身の採用試験の対策を進めた。職場のベテラン教員に模擬面接をしてもらったり、学会活動の合間を縫い、車の中でリコーダーを吹く練習をしたりもした。そして11年、49歳にして、教員採用試験への合格を果たしたのだ。
                          ◇
 現在、大阪市内の小学校に勤める中尾さん。学校全体の授業計画などを管理する教務主任を務めながら、英語等を教えている。長く一般企業に勤務した経験が、“強み”の一つだ。
 「英語ができず、海外出張で苦労した話や、あいさつの大切さを、児童たちに話しているんです」
 そして、教員になるという目標を、30年越しでかなえた経験から伝えたいこと――それは“真剣な努力はいつか必ず実を結ぶ”という、揺るぎない信念だ。

◆「人間革命の歌」特集 2018年11月3日 「地涌の使命」を果たし抜け 池田先生と香峯子夫人が、信濃町の旧学会本部の「人間革命の歌」の碑の前で(2003年5月)。

「地涌の使命」を果たし抜け

 

人間革命の歌」特集 | 希望という名の翼

 

 

池田先生と香峯子夫人が、信濃町の旧学会本部の「人間革命の歌」の碑の前で(2003年5月)。先生はつづっている。「この歌を私は、広布の大道を征く創価地涌の同志のためにつくった。私のための歌であり、皆さんのための歌である」


 小説『新・人間革命』が完結した今、全国・全世界の友が、自身の新たな人間革命に挑んでいる。その創価の友の勇気を鼓舞してきたのが、「人間革命の歌」である。ここでは、同歌誕生の淵源がつづられている『新・人間革命』第23巻「勇気」の章をもとに、歌に込められた精神を確認する。

 創価学会の「確信」の原点は、「われ地涌の菩薩なり」との第2代会長・戸田城聖先生の「獄中の悟達」にある。
 第2次世界大戦中の1943年(昭和18年)7月6日、戸田先生は初代会長・牧口常三郎先生と共に、不敬罪と治安維持法違反の容疑で、当時の軍部政府に逮捕・投獄される。
 翌44年(同19年)11月18日、牧口先生は獄死。戸田先生は、2年間の獄中生活で法華経を読み切り、「われ地涌の菩薩なり」と悟達したのである。
 池田先生が「人間革命の歌」の制作に当たって、最も心を砕いたのは、この恩師の「われ地涌の菩薩なり」との魂の叫びを、いかに表現し、伝えるかであった。
 小説『新・人間革命』第23巻「勇気」の章には、こう記されている。
 「『地涌の菩薩』の使命の自覚とは、自分は、人びとの幸福に寄与する使命をもって生まれてきたという、人生の根源的な意味を知り、実践していくことである」
 「『地涌の菩薩』の使命に生き抜くなかに、人間革命の大道がある」
 この思想を、先生は「人間革命の歌」の2番にある「地よりか涌きたる 我なれば 我なれば この世で果たさん 使命あり」との歌詞で表現した。


後世へ永遠に
 池田先生が「人間革命の歌」の制作を決めたのは、1976年(昭和51年)6月末のこと。
 当時、学会に対する誤解と偏見から、一部のマスコミによる非難・中傷が激しくなりつつあった。また、宗門の悪侶たちが、いわれなき悪口を学会員に浴びせ始めていた。
 こうした嵐の予兆の中で、池田先生は「愛する同志が、何ものにも負けぬ闘魂を燃え上がらせる、勇気の歌を作らねばならない」と歌の制作を開始した。それは、戸田先生を偲び、心で対話しながらの師弟の共戦譜でもあった。
 歌の制作には、「7・17」の意義も込められていた。7月17日は、57年(同32年)のその日、事実無根の公職選挙法違反の容疑で、大阪府警に不当逮捕された池田先生が、出獄した日である。
 小説には「7・17」について、「権力の魔性との闘争宣言の日であり、人間革命への誇らかな旅立ちの日」とつづられている。
 池田先生が歌詞を作り終えたのは、76年7月16日。日蓮大聖人が1260年、「立正安国論」をもって、実質的な最高権力者・北条時頼を諫暁した日である。
 出来上がった歌詞は、1番が5行からなる、3番までの歌詞だった。
 翌日、先生は朝から歌詞を推敲し、手を加えた。さらに、曲のイメージを練り上げていった。
 本部幹部会が開催される18日は、作曲に力を注いだ。昼からは作曲経験のあるメンバーと共に、曲作りに取り組んだ。
 当初は本部幹部会の席上で発表する予定だった。だが、曲は仕上がらなかった。
 「彼(山本伸一)は、後世永遠に歌い継がれる、最高の歌を作りたかった。だから、安易に妥協したくはなかった」
 本部幹部会では、いったん、歌詞のみが発表された。その後、先生は音楽大学出身の2人の女子部員にも協力を依頼し、再び作曲に取り掛かった。
 皆に意見を求めながら、曲作りを進める中、五行詞の歌詞が作曲を難しくしていることが分かった。
 熟慮に熟慮を重ねた歌詞である。一言一言に深い思いが込められている。
 だが、先生は「新しいものを創造するには、時には、これまで作り上げてきたものへのこだわりを、躊躇なく捨てる勇気が必要な場合もある」と、それぞれ2行目の歌詞を削り、四行詞に作り直した。


“戦人”の哲学
 四行詞として新たにできた「人間革命の歌」は、学生部の富士学生合唱団の歌声で録音された。
 その後、海外のメンバーの代表との打ち合わせに臨んだ池田先生は、そこで録音したテープをかけ、「人間革命の歌」を紹介した。
 だが、まだ完成ではない。先生は再び、歌詞の推敲を始めた。曲についても、検討が重ねられた。
 「一つ一つの事柄を、徹して完全無欠なものにしていく――それは、広宣流布の“戦人”ともいうべき彼(山本伸一)の哲学であった」
 そうして、18日午後8時40分、遂に「人間革命の歌」が完成した。
 先生は、各方面・県などのリーダーに、次々と電話を入れた。電話口がカセットデッキの前に置かれ、新たに録音し直した「人間革命の歌」がかけられた。
 歌詞と譜面は、翌19日付の聖教新聞に掲載された。
 歓喜の波動が、列島を包んだ。その日、「人間革命の歌」の歌声が、全国で高らかに響いたのである。
 「人間革命の歌」が誕生した1976年は、8月から10月にかけて、各地で文化祭が開催された。それぞれの会場で、「人間革命の歌」が歌われた。
 また76年は、学会精神を継承していくために、「男子部の日」(11月5日)、「女子部の日」(11月12日)、未来部各部の結成の日など、数多くの記念日が制定された年でもあった。
 「8・24」が「壮年部の日」と決定したのも、この年である。
 同年8月24日には、「部の日」を記念する壮年部の集いが、各地で盛大に開催された。創価大学で行われた集いでは、参加者全員での「人間革命の歌」の合唱が行われた。
 今、「人間革命の歌」は、日本のみならず、世界でも歌われている。
 「新しき文化の創造も、未来の建設も、そして、人類の宿命の転換も、一人ひとりの人間革命から始まる。この歌は、創価学会のテーマともいうべき、その人間革命運動の推進力となっていったのである」
 「『人間革命の歌』は、師弟の共戦譜である。そして、生命の讃歌である」


「一対一」の絆
 「君も立て 我も立つ」
 「君も征け 我も征く」
 「君も見よ 我も見る」
 「人間革命の歌」の1番、2番、3番の冒頭には、いずれも「君」と「我」との歌詞がある。
 創価の師弟の絆とは、いついかなる時も、この「君」と「我」という「一対一」の関係である。
 ほかの誰かではない。
 わが胸中に、師への誓願は燃えているか。
 師の激闘に連なる自らの実践はあるのか。
 師と共に立ち上がる「一人」から、広宣流布の拡大は始まる。
 『新・人間革命』第23巻「勇気」の章の連載が終了したのは、2010年(平成22年)6月2日である。
 その翌日に開催された本部幹部会。池田先生は、万感の思いをメッセージに託した。
 「君たちに万事を託していく総仕上げの『時』を迎えている」
 「師匠の薫陶に応えて、弟子が今一重の深い自覚をもって立ち上がる時に、未来を開く新しい前進と勝利の息吹が生まれるのであります」
 いよいよ広宣流布大誓堂完成5周年の「11・18」を迎える。
 大誓堂の敷地内には、「人間革命の歌」の碑がある。この碑が建立されたのは、1976年の暮れ。小説には「地涌の使命を果たし抜かんとの、弟子一同の誓願によって建てられた」とつづられている。
 「地涌の使命」に奮い立ち、誓いを果たし抜くのが弟子である。
 さあ、「創価勝利」へ、弟子としての自覚を今一重深くし、広布の旅路を勇んで進み征こう。
 誓願の歌声を高らかに響かせながら!


人間革命の歌 作詞・作曲 山本伸一
  一、君も立て 我も立つ
    広布の天地に 一人立て
    正義と勇気の
      旗高く 旗高く
    創価桜の 道ひらけ
  二、君も征け 我も征く
    吹雪に胸はり いざや征け
    地よりか涌きたる
      我なれば 我なれば
    この世で果たさん 使命あり
  三、君も見よ 我も見る
    遙かな虹の 晴れやかな
    陽出ずる世紀は
      凜々しくも 凜々しくも
    ※人間革命 光あれ
          (※くり返し)
 SOKAチャンネルVOD(ビデオ・オン・デマンド)で「人間革命の歌」のコーラス入り映像を配信。VODが利用できる会館等や「SOKAチャンネル モバイルSTB」で視聴できる。