ユーラシア大陸横断総集編 (後半)(7/12~10/15)
バルト3ヶ国(エストニア、ラトビア、リトアニア 7/12~7/18)
各国の首都にそれぞれ2泊しただけの合計6泊7日だけであったが、ロシアとは民族的にも言語的にも異なることを認識した。エストニア語は北欧言語に似ているような印象をもった。
エストニアはインターネットで外国人でも会社登記が簡単に出来、国が物理的に滅んでもインターネット空間で国が存続できるような仕組みにしているというインターネット先進国だ。
EUからの補助金で道路インフラが整備され、家の構えも、町の造りもヨーロッパ的だった。首都のタリンでは多くの人々が流暢な英語を話し、またロシア語も通じる優等生国家の印象を持った。
(エストニアの首都タリンに向かう道路。 道路整備にはEUからの補助金が使われた。)
(エストニア首都タリンの旧市街)
ラトビアの首都リガの旧市街はバルト3ヶ国で一番規模が大きく外国人観光客が多く観光化が進んでいるようだった。 一方リトアニアの首都ビルニュウスは、旧市街の規模が小さくタリンやリガのようには賑わっていなかった。
(ラトビアの北海浜辺 海水浴客は少なかった)
(ラトビア首都リガの旧市街)
バルト3ヶ国は国が小さいのでオートバイで一日で通過できてしまう。戦争となれば敵国の進軍を許せば、簡単に都が占領されてしまうリスクが良くわかった。
(リトアニアの首都ヴィルニウス中心部。日曜日のため歩行者専用となっていた。)
(GPSは入り組んだ国境線を無視して最短距離の道路に誘導するため、ヴィルニウスからポーランド入国へは森の中の細い未舗装道路を通過した)
ポーランド、ドイツ、チェコ、スロバキア、ハンガリー(7/18~8/10)
旧東欧諸国には興味があった。 特にベルリンの壁崩壊後(1990年)以降、EUに加入し、経済的にどうなったか知りたかった。
ポーランドは欧州でもそこそこの面積と人口を持つ中堅国家だが、ユーロは未導入だ。ズローチという現地通貨がある。 国民は勤勉で教育レベルも高いという。インフラも整っている。しかし物価は欧州諸国に比較すると安い。 つまり為替レートが割安な印象をもった。
ワルシャワ(Warsaw)、クラクフ(Krakow)とヴロツワフ(Wroclaw)の3都市にしか宿泊しなかったが、ポーランドがしっかりした国であり、観光資源にめぐまれていることが判った。特に日本の京都のような存在のクラクフの旧市街は立派で規模も大きく、印象に残った。
(ポーランドのワルシャワへ向かう道路。大規模農業ではないため、区分けされた畑がパッチワークの様に見えた。)
(首都ワルシャワの旧市街)
(ワルシャワ証券取引所建物)
(古都クラクフで民族衣装をまとい歌のパフォーマンス)
(古都クラクフの旧市街へ通じる城壁の門)
第二次世界大戦中のユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)の現場となったアウシュビッツ収容所は人間の狂気と凶暴性を示す場所であった。 忌まわしい場所ではあったが、人類の記憶に留めておくべきだろう。
(アウシュビッツの第二次世界大戦中のユダヤ人収容所。 現在は博物館となっている。)
ドイツには友人がいるので欧州に来たついでに寄ったぐらいだった。友人が住むブレーメンと興味があったベルリンそしてドレスデンに立ち寄ったのみだったが、制限速度が無いアウトバーン(高速道路)のオートバイ走行はスリルがあった。
(ベルリンのブランデンブルグ門。 冷戦時代は東ドイツ領だった)
(ドイツの自動車専用道路=アウトバーン。高速走行でもほとんど振動を感じない超優良道路)
(アウトバーンを時速160kmで走行するというドイツ人の女性ライダー)
(エレベ川沿いの古都ドレスデン。第二次世界大戦中は連合国側の爆撃で町は徹底的に破壊された)
チェコ、スロバキア及びハンガリーもまた、それぞれの首都に数泊して観光と証券取引所訪問を行った程度であった。
チェコのプラハは中欧の都として過去の栄華が感じとれる奇麗な町であった。
スロバキアは首都のブラスチラバへ4泊した。小さな都といった感じだった。
歴史的にはフランス革命でギロチン台の露と消えたフランス王妃マリー・アントワネットの母親で賢帝といわれたマリア・テレジアがオスマントルコがハンガリー帝国を占領した時期に一時居住した場所でもあった。
(チェコの首都プラハ。 プラハ城から臨む)
(プラハからスロバキアへ向かう途中のひまわり畑)
(スロバキアの首都ブラティスラバとドナウ川。ブラスティラバ城から臨む)
(スロバキアの首都ブラティスラバの城とドナウ川)
ブダペストはハンガリー帝国の首都に恥じないドナウ川を挟んだ奇麗な都であった。日本の宮古島へ2回旅行して、宮古島に家を買おうと思ったというほど宮古島が好きになったというハンガリー人と知り合い、ブダペストの繁華街で同氏と飲み語り合ったことが心に残った。
(ハンガリーの首都ブダペストとドナウ川)
(賢帝マリア・テレジアの肖像画)
旧ユーゴスラビア(セルビア、マケドニア、コソボ、アルバニア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、スロべニア)8/10~8/22
依然政治的緊張が残る地域だったが、興味があった。シェンゲン条約に未加盟であり、EUの滞在期間に算入されないため、EUでの滞在日数調整としても訪れた。
旧ユーゴスラビアの中心的なセルビアの首都ベオグラードを訪れたが、EU諸国との経済格差は隠せず、町の雰囲気には華やかさは無かった。その分、円建の物価は高くなく、政治問題が解決してEUに加盟出来れば経済発展の可能性があると感じた。
(セルビアの首都ベオグラードにはドナウ川が流れる)
(セルビアの首都ベオグラード中心部のショッピング街)
セルビアとコソボの間には政治的緊張があり、セルビアからコソボへ直接行くことが難しい。そのため、マケドニア経由コソボへ向かった。
コソボで寿司店を開店する予定の日本人とウラジオストックに向かうフェリー船内で知り合ったため、励ましも含めて訪問した。コソボは建設ラッシュで湧いていた。複数のビルが坂の途中や空き地になっている丘の上に無秩序に建設中であった。 奇麗な町とは言い難く、開発途上国のようなイメージの都市だった。
(セルビア・ベオグラードからマケドニアの首都スコピエへ向かう山岳道路)
(マケドニアの首都スコピエ。 朝日をイメージしたような国旗が街のいたるところに掲揚されていた。)
(建設ラッシュのコソボの首都プリシュティナ)
コソボへは米国が尋常ならぬ資金援助をしている。米国はコソボに1500名規模の米国大使館を建設中と聞いた。コソボの大きさにして米国大使館は異常なほど大規模だ。コソボは米国にとってロシア、中東、イランをにらむ戦略的な価値があるのだろう。
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボには興味があった。1980年代には冬季オリンピックも開催された美しい都市が、旧ユーロゴスラビア分裂時の内戦で一変した。
町には内戦で破壊された建物が依然残り、旧市街の建物の壁面には弾痕が無数残っていた。訪問した証券取引所の幹部から「同国の公務員の汚職が国の発展を阻害している」との指摘を受けたが、同国の国境検問所でお金を要求された経験があったため、その指摘には合点がいった。
(ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボは山岳部の盆地に位置していた坂の多い街だった。)
(内戦時の弾痕が建物に多く残っている。)
(サラエボのイスラム地区。 サラエボにはイスラム地区とキリスト地区がある。)
クロアチアはEU加盟国ながら、シェンゲン条約には加盟していない。経済的にも旧ユーゴスラビア諸国の先頭に立つ豊かな国だった。
スロベニアはいち早くEU加盟を果たし、首都リュブリーナはごみ一つ落ちていない奇麗な町だった。 その分、物価はEU諸国とあまり変わらず安くはなかった。
(クロアチアの首都ザグレブの旧市街。イエラチッチ総督広場)
(クロアチ・ザクレグの聖母被昇天大聖堂。塔の高さは100m以上あり、ザグレブで一番高いと言われている。)
(スロベニアの首都リュビリャーナは静寂は古都だった)
(城から見たスロベニア・リュビリャーナの街)
スイス、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガル(8/22~10/15)
スイスの峠道はオートバイライダーにとっては聖地的な場所だろう。フルカ峠やグルムゼム峠等、標高2千m以上の険しいワインディングの峠道がある。数多くのヘアピンカーブがある標高差が大きいワインディングの道路は欧州各国から多くのオートバイライダーを引き寄せる。
(スイス・グルムゼム峠の道)
(グルムゼム峠付近の道路)
(スイス・フルカ峠の道)
(スイス・ゴッタルド峠から見た景色)
イタリアのローマの遺跡や古い建物には感動した。また、ルネッサンス期のフィレンツエのメディチ家の財力も現在に残るメディチ家の宮殿や美術館を通して測る知ることが出来た。
(イタリア・ローマのコロシウム=ローマ時代の競技場)
(ローマにあるバチカン・サンピエトロ寺院)
(フィレンツエの街 大きな屋根はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)
(メディチ家当主が住んだフィレンツエのヴェッキオ宮殿)
(フィレンツエのウフィッツィ美術館所蔵のビーナスの誕生 ボッティチェリ作)
ナポリは観光客には危ない町とは聞いていたが、その通りになってしまった。
宿泊した港湾地区の宿の前に駐車したオートバイが駐車後30分程で盗まれてしまった。盗んだ犯人の友人を知っていると称する人間が、「オートバイを取り戻すのに協力する」と言い、当方へ接触してきた。熟考すれば、盗難は初めから金銭目的のオートバイ誘拐だったと理解できる。 複数の共犯者がいたのだろう。ナポリの港湾地区は無法地帯の印象を持った。
(イタリア・ナポリの下町)
フランスは地中海沿いをスペインへ向けてイタリアから通過するためアビニョンに一泊したのみだった。南仏の風景は19世紀後半のフランス印象派画家の絵画にも描かれたことがあるもので、親近感を持った。
(印象派の画家セザンヌが描いた南仏プロバンスのサント・ヴィクトワール山 )
(アビニョンの橋の歌で親しまれている南仏アビニョンの聖ベネセ橋)
スペインは南米へオートバイを空輸する拠点とした。10年前に日本企業の駐在員として住んだ国でもあり、なつかしさがこみあげてきた。マドリッドでは旧友と再会したり、日本から家族を呼び南米ツーリング前の束の間を楽しんだ。
(スペイン・パンプローナの牛追い祭りの状況を体験できる牛の剥製)
(スペインの幹線道路沿いでよく見かける巨大な雄牛の看板)
(スペイン・サンティアゴへの巡礼道を歩く巡礼者達。 スペイン・ブルゴス付近)
(スペインの首都マドリッドのシンボルにもなったクアトロ・トレース=4つの高層ビル)
(アルゼンチンのブエノスアイレスへ空輸前の梱包)
ポルトガルのロカ岬はヨーロッパの最西端に位置する。ユーラシア大陸横断はロカ岬を出発点や終点とする場合が多い。ユーラシア大陸横断と言う限りにはロカ岬まで行かねばと思い、ポルトガルまで進んだ。 ポルトガル中部では、前年に大規模な山火事が発生して、見渡す限りの山々が無残な姿に変わり果てていた。
(ヨーロッパの最西端、ポルトガルのロカ岬の灯台)
(ロカ岬到達の記念写真)
(ポルトガルの大規模な山火事跡)
(ポルトガル・カステーロブランコの坂の町並み)