ユーラシア大陸横断総集編(5/20~10/15)約24,000km 前半
ロシア横断
ユーラシア大陸横断はロシアと欧州部分に分けられるだろう。ロシア極東のウラジオストックから途中モンゴルのウランバートルへ立ち寄り、再度ロシアへ入国後モスクワ、サンクトベルグへと約11,000kmを約45日かけて走行した。
オートバイライダーとしてはウラジオストックからシベリアのイルクーツクまでの約4千km区間が一日の走行距離が長かったり、部分的にダート道になったり、雨が降れば寒かったりするロシア横断の難所だった。 当方は深い砂利道区間でツーリング中の初回のバイクの転倒を経験した。
(赤線は実際の走行ルート)
(ロシア極東部のシベリアハイウェイ)
(夏季は道路工事のためシベリアハイウェイのいたるところが砂利道やダート道になっている)
シベリア湿地帯や白樺の森の中を通るルート区間でもあった。この区間のヒロクと言う小さな町の郊外で野宿中の日本人ライダーが強盗に遭い殺害されたことが数年前にあった。
そのことを知っているため、シベリアは危ないという先入観が頭に植え付けられていた。 また、ロシアを知る日本の旅行業者からもこの区間には刑務所があったりして治安が良くない場所と聞いていたため、この区間は早く通り過ぎるべしと決めていた。
シベリアの都会、ハバロフスク、ウラン・ウデ、イルクーツクはロシアのヨーロッパ地区の都会と同様に奇麗な町だったが、田舎町はそうではなかった。 田舎町の生活道路は未舗装が普通であり、民家の家構えも立派とは言えない。 集落に至っては木製の屋根や壁が風雨で黒ずみ寂寥感を醸し出していた。家の背後に家畜小屋があるという配置で、モノクロ写真で見たことがあった昔ながらの開拓村のような風情であった。 このような情景を目のあたりにすれば、経済的に立ち遅れているのがよくわかる。人口が少なく、面積が広すぎるためインフラ整備が進まないのだろう。
(ロシア極東のオブルーチェの生活道路)
(モゴチャ~チタ間のチェルニスヴィンスク付近の集落)
事実、モゴチャ(Mogocha)という町で日本の過疎地の廃校になり壊れかけた小学校の校舎ような古い木造の家屋に人々が住んでいるのを見た時は、「えー、こんなところに住んでいるのか」と少なからぬショックを覚えた。
(モゴチャの廃家屋のような建物)
他方、都市部の中心部は立派だ。中心地には必ずレーニン等のソ連時代の名前がついた大きな広場がある。 広場の周りには旧共産党の建物、地方政府の建物、劇場、軍の地方本部といった石造りの建物が威厳高く構えている。ソ連時代には立派な箱もの(建物)を通して国民にソ連の偉大さを知らしめる目的があったとロシアを知る人は言う。
(ハバロフスクのレーニン広場。 広場周囲には立派な政府系の建物等が建っている)
(ケメボロの中心部。地方政府の建物が多い)
(ウランウデの歩行者専用道路から凱旋門方面を臨む)
各都市には戦争博物館があり、第二次世界大戦時の武器や軍服および作戦図が展示されている。多くの犠牲者を出しながらもナチスドイツに勝ち、戦勝国となったことが、ソ連時代には軍事力を補強するうえでのプロパガンダにもなったと言う。
戦争を忘れさせない意味では必要な博物館かもしれないが、野外に展示されている戦車の上で遊ぶ子供達を見ると、平和慣れしている当方にはこども達が戦争慣れするのではと恐ろしくも感じた。
(チタ中心部の公園には戦車が展示されていた)
イルクーツクからモスクワに至る区間は開発が進んだ地域で、大きな都市が多くなり、シベリアハイウェイの交通量も多い。
エニセイ川沿いのクラスノヤルスク、ケメボロ、オビ川沿いのノボシビルスク、チュメニ、エカテリンブルグ、ボルガ川沿いのカザンは歴史もありそれぞれ立派な都会だった。 各都市には見どころがあるが、クラスノヤルスク、チュメニ、カザン以外は一泊したのみでモスクワへと先を急いだ。
(エニセイ川沿いのクラスノヤルスク)
印象的なのは油田地帯を控える豊かな都市チュメニとイスラム教徒が多いカザン。
チュメニはロシアの油田地域の中心的な都市で、石油産業で町が潤っている。
建設中の高層アパートが多く、活気に満ち、石油産業のお金が町に流れているような感じがした。
タタルスタン共和国(ロシア連邦内の国だがアメリカの州のような位置づけ)の中心であるカザンのクレムリン(城壁内)にはイスラム寺院があり、旧市街は中東の町のような雰囲気だった。
(チュメニの川沿いの公園)
(建設中のアパート群 チュメニ)
(カザンの中心部 宿泊ホテルの上階から望む)
(カザンのクレムリン内のモスク)
カザンからモスクワへの距離は千kmも無い。 ウラジオストックから約1万キロ先のモスクワ到達を第一目標としていた為、道路標識にモスクワまでの距離が初めて表示されると「あと少しでモスクワだ」と意識し始めた。 マラソンでゴール地点を意識するような感じだろう。
モスクワは約8年ぶりだった。8年前には企業の駐在員として約2年半駐在したが、超物価高の当時と比べると物価も下がり落ち着いた感じがした。 リーマンショックで中断していた高層ビルの工事も終え、サッカーのワールドカップを翌年に控えていた。
(モスクワの高層ビル群を臨む)
(クレムリンへ続く歩道)
(モスクワの地下鉄駅内は美術館のようだ)
8年前は原油価格に連動するロシアの通貨ルーブルが高すぎたのだろう。当時はモスクワ音楽院横のカフェでスパゲッティーとビール小瓶の代金が約4千円と高くて驚いたが、為替レートが当時の1/2以下の現在では物価高に感じない。
モスクワは地下鉄等の公共交通が整備されて、スーパーでの物が豊富なので不便を感じない。市内では、ホテル、レストラン、博物館、美術館等の施設も整っているため、欧州の都市と変わらない。シベリア地域との生活格差が非常に大きい。
モスクワに駐在している時はロシアを知っているつもりであったが、オートバイで地方を回ると駐在時代には気が付かなかったことが多々あることを知った。
ロシアに対しては怖いイメージを持つ人が多いと思うが、ロシア人は心暖かい親切な人が多い。ロシア横断中、ロシアの人たちに励まされたり、助けられたたりした。
(サンクトペテルベルグのエルミタージュ美術館前広場)
モンゴル
ロシア横断途中にシベリアのウラン・ウデからモンゴルに入国して首都ウランバートルへ行った。 モンゴルの景色はロシア・シベリア地区とは違っていた。 禿山と荒地の原野だった。 恐らく春から夏にかけて雨が降るため、山や荒地に草が生え、緑の絨毯を敷いたような奇麗な景色だった。ただし、乾季には荒涼たる原野の風景だろう。
(モンゴル第二の都市ダルハンから首都ウランバートルへ向かう幹線道路)
(幹線道路沿いのゲル=遊牧民の移動式テント)
(強風が吹き、行き先の道路は砂嵐のようだった)
道路が工事中のため閉鎖され、砂地の原野が迂回路となっていたのには驚いた。車が普通に通行できる状態の原野ではなく、砂漠のラリーを行うような迂回路だった。
ここを通過せねばウランバートルへは行けないと思い、転倒を覚悟して通過した。
モンゴルの人々は親日的だった。日本語を流暢に話す人にも出会い、モンゴルを身近に感じた。 道路を走る7割の車はトヨタのハイブリッド車プリウスだった。気温がマイナス20度~30度にも下がる冬場にはガソリン車のエンジンはなかなか始動しないが、ハイブリッドのエンジンは容易に始動するためだ。
(首都ウランバートルの国会議事堂前広場)
(ウランバートルの中心部とブルータワー)
(ウランバートル中心部のビルに入居する高級感があるセブンイレブン。 コンビニの普及はこれからだろう)
(道路脇に並んだプリウス。プリウスのマーケットシェアは5割以上だという)