2/4(日)イキートス~リマ(空路にて帰る)
アマゾンツアーで蚊に刺された足のかゆみがとまらない。前夜は痒くて寝つきがわるかった。日本から持参したキンカンを痒い患部に塗るものの、あまり効き目がない。
イキートス市内の薬局で薬を買い求めた。クリーム状の薬だが、患部に塗るとかゆみが軽減された。やはり地元の蚊には地元の薬の方が効果があるようだ。
イキートス空港からリマまでの国内線は定刻通りに出発。リマ~イキートスへの往路の飛行機は30分程度の遅延があったので、復路も遅延を覚悟していた。 しかしながら、定刻より早めに出発した。
リマの空港から荷物を預けている宿まではマイクロバスを利用。空港からタクシー使うと40ソル(約1,400円)するが、マイクロバスは1.5ソル(約50円)だ。
世話になっている宿の受付嬢クリスティーナは当方の顔を見て、「もう帰ってきたの。早かったね」と声をかけてきた。「蚊が多くて、大変だったので帰ってきた」と答えた。
クリスティーナはイキートスに一年間住んだことがあり、「暑くて大変だった」と言っていた。
宿に落ち着くと飛行機を使ったためか、あるいはアマゾン地区がリマとはあまりにも違う空間だったためか外国から帰ってきた気分になった。
バイク預け代は一日5ソル(約175円)。宿代は前回より割引した60ソル(約2,100円)。
2/5(月)リマ~ウアルメイ(Huarmey) 284km
(ペルー・リマ~エクアドル・グアヤキールの地図)
リマから北上するルートを前日検討した。ウアレス(Huarez)がある山岳方面へ向かうか、あるいは海岸沿いの砂漠地帯を一気に北上するかだ。
山岳地帯は今後一週間雨の予報のため海岸沿いを行くことにした。
イキートスへ行く際にリマ空港でナイフを預けたタクシー運転手が、早朝ナイフをホテルへ届けてくれた。イキートスからリマへ戻った時にそのタクシー運転手に宿まで送ってもらうことになっていた。しかし、その運転手は前日非番で空港にいなかったためだ。
律儀な人だったので、心づけを渡した。
リマから郊外へ続く40km~50kmは近隣の都市部を通る一般道のため、道路が混み運転に注意が必要だ。 砂漠地帯のはずなのに道路が50メール位冠水している。
大型トラックが冠水した道路にお構いなしで、当方の横を泥水を跳ね上げて進む。
当方は泥水をかぶり、ずぶ濡れになった。
しかし、その後は高速道路となり、砂漠の中の一本道を快適に走る。
砂漠地帯には大規模な養鶏場が点在する。ペルーの食材で一番鶏がつかわれるので、その需要の大きさがうかがわれる。 砂漠の中なら近隣住民からの苦情は無い。また、渡り鳥からの病気の感染リスクも抑えられるだろう。
単調な砂漠の一本道から、ウアルメイ手前100km地点から太平洋を眺めながらの丘陵地帯の高速ワインディングコースに変わる。交通量が少ないため、快適なツーリングルートとなる。
(リマからウアルメイへの砂漠の一本道)
(砂漠中の大規模な養鶏場)
(太平洋岸沿いを通る道路。この辺りは砂地だった)
午後の3時前にウアルメイの宿(ホステル)に到着。汚くなったライディングウェアを宿で洗おうと洗濯機を貸してほしいと女性主人にお願いすると、 ライディングウェアを無料で洗濯してくれた。 こんな時は個人経営のホステルは融通が利く。
ウアルメイはトルヒージョ(Trujillo)へ行くため通過する小さな町だが、野菜、果物、肉、日用雑貨の店が所狭しと乱立する市場は賑やかだった。
宿の予約に利用するBooking.comで事前予約が必要な公共の無料駐車場(Free Public Parking)有りとの記載あった。「事前予約が必要」となっていたため、宿の駐車場と思っていたが、路上駐車のことだった。
路上駐車では盗難等のリスクが高いため、近所の有料の駐車場にバイクを預けた。
投宿はAlojamiento WARMI(一泊50ソル=約2千円弱)
(ウアルメイの町の中心地アルマス広場)
2/6(火) ウアルメイ~トルヒージョ(Trujillo)263km
ペルーの太平洋海岸線を北上してペルー第三の都市トルヒージョを目指す。
海岸線と砂の砂漠の奇妙な組み合わせだ。この辺りは海岸線まで山と丘陵地帯が迫っている。
(ウアルメイ~トルヒージョへの砂漠の一本道)
砂漠地帯に点在する町周辺は緑のオアシスとなっている。オアシスの周辺は大規模な農耕地が展開している。灌漑のおかげだろう。
マンゴー、ブドウ、マラクヤ(パッションフルーツ)等のくだものから稲、アスパラガス、サトウキビ等の農作物と豊富だ。後でわかったことだが、大規模農場は企業が保有している。
(マラクヤ=Maracuya パッションフルーツの果樹園)
(道路沿いの稲作)
(サトウキビのプランテーション)
(前回のペルー大統領選でケイコ・フジモリ候補を応援する文字が
ペルーのいたるところに残っている)
道路沿いの果物店の軒先で休憩がてらマンゴーを食べた。一キロ当たり2ソル(約70円)で販売している。一つ約500g位の重さだから35円と安い。その場で皮をむいてくれる。
初めて見た小粒の黄色いマンゴーがあった。白マンゴー(スペイン語でMango Blanco)と呼んでいる。通常のマンゴーの2倍の価格(一キロ当たり4ソル=140円)だが、一般のマンゴーより甘くジューシーだった。
(手前の黄色いマンゴーが白マンゴーと呼ばれる甘味でジューシーなマンゴー)
(左が一般のマンゴー、右が小粒な白マンゴー)
トルヒージョはスペイン人征服者のフランシスコ・ピサーロが16世紀に建設した町だ。 ピサーロの出身地であるスペイン・エクストラマドユーラ地方のトルヒージョの町の名前をこの地に命名した。
スペインのトルヒージョを10年以上前に訪れたことがあったが、町というより村に近い小さな田舎町だった。町の広場にフランシスコ・ピサーロの騎馬像が建っていたことを覚えている。
ペルーのトルヒージョは本家本元より大きくなり栄えている。旧市街の中心部のアルマス広場は青色、黄色、赤色と色彩豊かな歴史的建物で囲まれている。
投宿宿はCesar`s Hotel Carrion(一泊64ソル=約2,300円)
(トルヒージョのアルマス広場とカテドラル)
(トルヒージョ旧市街の歩行者専用ショッピング通り)
(トルヒージョのアルマス広場周囲をパトロールする女性白バイ隊員。
白バイはホンダの250cc)
2/7(水) トルヒージョ2泊目 モチェ遺跡及びチャン・チャン遺跡見学
トルヒージョ近郊にはインカ前の時代に北部ペルーを支配していた帝国の遺跡が多い。
それらの遺跡を巡る一日観光が案内ガイド・昼食付で30ソル(約千円強) であったので、参加した。
ペルー北部の王朝の歴史は紀元200年~800年がモチェ時代(Moche)、800年~1400年がチム時代(Chimu)1400年~1530年までインカに征服された時代、それ以降がスペイン植民地時代となっている。
モチェ時代(紀元200年~800年)は日本の弥生時代から奈良時代に相当するが、その時代のピラミッドのような遺跡がトルヒージョの郊外にある。
観光ガイドの本には太陽のワカ・月のワカと紹介されている。当時の権力者が儀式のために作った高さ30mのピラミッドだ。天候不順を神の怒りと考え、怒りを鎮めるため模擬戦争で敗れた若者達を生贄(いけにえ)として捧げたという。
(当時崇められていた白い山=Cerro Blancoといけにえを決めるため若者達が模擬戦争を行った月のワカ=ピラミッドのいけにえの間)
(模擬戦争の絵。敗者のグループがいけにえとなった)
(月のワカ=ピラミッドは六層からなり、約80年周期で階層を積み上げていったという。当時の想像絵)
(月のワカ=ピラミッドの壁面)
(もう一つのピラミッド=太陽のワカは内部が公開されていない)
天候不順はエル・ニーニョ現象のためだったが、当時は神の怒りと考えられていた。
生贄を捧げても天候が回復しないので、当時の権力者の威厳も徐々に失われ、いつかしらすたれてしまったという。
次に登場したのがチム時代(紀元800年~1400年)だ。日本の奈良時代後期~室町時代に相当する。
チャン・チャン(Chan Chan)遺跡がチム時代を代表する遺跡だ。この時代の土壁に囲まれた都市が現在でも未整備のまま郊外に埋もれている。 この時代は子供と若い女性が神の怒りを鎮めるため生贄(いけにえ)として捧げられたという。
この帝国は後にインカの支配下になり、滅びたという。
(チャン・チャン遺跡。当時貴族が事務を行っていた間)
(トルヒージョ郊外の海岸=ウアンチャコ)
(トウラ=葦で作った観光用の小舟。浮力を増すため発泡スチロールが多く使われていた。トウラの小舟で古代人は魚を採ったという)
2/8(木) トルヒージョ~チクラヨ(Chiclayo)204km
北へ向かって太平洋岸の砂漠の道を北上する。 アンデス山脈にあるカハマルカ(Cajamarca)へ行くことも考えたが、アンデス山脈は一週間雨の予報となっている。
雨の中をツーリングしても面白くない。消去法で、景色は単調だが雨が降らない砂漠の道を継続することにした。
気温が暑くなり疲れやすくなってきたので、一日の走行距離を200km強と短めにしている。
200kmと言っても日本の下道を走行するような道路状況が多いので平均時速は50km程度となり、200kmの距離でも4時間位かかる。
空気が乾燥しているためか、バイクを運転していると目が痛くなる。一時間毎に道路脇にバイクを止め休憩しても今日は疲れる。 ある町に入ると道路沿いに茶店があったので休憩。 茶店では豆乳を薦められ飲んだ。冷えていて旨い。
砂漠の一本道の単調なルートだが、町が近づくと稲作の田園やサトウキビのプランテーション等がある。田園では数名が手作業で除草をしている。
(田んぼでの除草作業)
(サトウキビプランテーションで虫の駆除作業)
チクラヨの町へは午後の2時台に到着。この時間に投宿すると町をちょっと見物することが出来る。 旧市街の中心部のアルマス広場を囲んでカテドラルや市庁舎がある。ペルーのどこの町でもアルマス広場周辺は歴史的建物が豊富だ。
ペルーをツーリングして気が付くことがある。郊外の道路はゴミ捨て場となっている。煉瓦や土砂等の建築廃棄物から黒いビニール袋にいれた家庭のゴミまで道路沿いの路側帯の外に捨てられている。 「ゴミを捨てるな!」の看板が虚しく映る。
道路上で強制的にスピードを落とすハンプス(凸状)の上にはアイス販売の女性がいたるところで立っている。道路の真ん中だ。 ハンプスの前で車がスピードを落とすと知っているものの、見ている方もおっかなびっくりだ。
(道路の真ん中でアイスを販売中の女性。車が通行してもその場所から動かない)
投宿はHotel Embajador(一泊70ソル=約2,500円)
(チクラヨの通りの靴修理屋でライディングブーツのファスナー取り付け部分の
補強修理してもらった。 中国製の手動ミシンを使っていた。)
2/9 (金) チクラヨ~ピウラ(Piura) 208km
チクラヨから太平洋岸を更に北上してピウラへ進む。
ピウラからエクアドルとの国境までは300km位ある。ピウラは太平洋沿岸沿いをエクアドルのグアヤキールへ至る海岸ルートと内陸の山岳地帯進みエクアドルへ越境する山岳ルートの岐路にあたる。
ピウラにてエクアドル越境の情報を得るため、同地にて宿泊予定だ。
チクラヨからピウラへの道路は平野部の砂漠地帯を通過する。
砂漠と言っても灌木が育つ砂漠で、今までの草一本生えない砂漠と少し異なる。
ただし、ほどんど直線道路のためツーリングの楽しさは無い。
ペルーに入国以来、大陸をツーリングするライダーとは道路であまりすれちがわなかった。今日は10名以上のライダーとすれ違う。エクアドル方面から南下する大型バイクのライダー達だ。
(道路脇の一軒食堂で休憩)
(リマ出身の食堂の女性主人は親戚がいるのでこの地移り住んだという。リマの方が気候が涼しく住み易いと思うのだが。。。)
(食堂のトイレ。雨がほとんど降らいないので屋根は無い)
チクラヨは南緯6度と赤道に近い(北半球ならマレーシアの緯度)が、南からのフンボルト寒流のため気温は27度~28度とそんなに暑くならない。バイクに乗って身体に受ける走行風はメッシュ入りジャケットに入り気持ちがよい。
ピウラに近づくと気温が33度以上になる。メッシュ(通気口)入りライディングジャケットとライディングパンツでも蒸れてくる。身体から汗が出始め、不快になる。
ピウラはペルーの代表的作家であるバルガス・リョサ作の小説「緑の家」の舞台となった町であったので、興味があった。この小説はペルーのアマゾン地域も舞台にしていた。小説を読んでも舞台となる地理が判らず、内容がピンとこなかった。
ピウラの町は16世紀初頭にスペイン人のフランシスコ・ピサーロが南米征服の軍事拠点として作った町だが、観光資源があまり無いようだ。日本の旅行ガイドには紹介されていない。
投宿はHospedaje Central Piura(一泊15米ドル=48.4ソル)