天国へ届け「トイレット博士」「ロボッ太くん」他 お下品ギャグの帝王 とりいかずよしさん死去 | 20世紀漫画少年記

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 とりいかずよしさん(本名 鳥居一義)が2月9日午後6時3分、すい臓がんのため名古屋市の病院で亡くなられました。享年75歳。葬儀・告別式は家族で行った。喪主は長男 翼(つばさ)氏。(写真右は「トイレット博士」連載当時の若かりし頃の物。写真左は晩年のインタビュー時の物)

 

 とりいかずよしさんは1946年11月12日生まれ。愛知県額田郡形埜村(現・岡崎市)出身。

 

 19歳の時に映画会社の国映株式記会社に入社。国映がアニメ制作の事業に乗り出し、同社のテレビ製作部門だった日本放送映画でアニメーターに転身。後にスタジオ・ゼロ(トキワ荘のメンバーが1963年に設立したアニメ制作会社)に移籍。原画スタッフをしていたところを同社役員で同じビルに仕事場を持っていた赤塚不二夫氏にスカウトされる。その時から赤塚不二夫氏に師事することになった。1968年に赤塚氏のフジオ・プロダクションに正式移籍。赤塚氏のアシスタントとなり、長谷邦夫氏、古谷三敏氏と共に「おそ松くん」「元祖天才バカボン」「もーれつア太郎」のネタ出しに携わった。

 

 1968年に「別冊少年サンデー」4月号掲載の読み切り作品『くちなし犬』で正式デビュー。翌1969年「週刊少年ジャンプ」23号からお下劣ギャグ漫画「トイレット博士」の連載を開始(当初は「赤塚ギャグ笑待席」での1週おきに執筆する赤塚氏の穴埋めだった)。同作品はとりい氏の代表作になるのと同時に連載期間7年、単行本の発行部数が1000万部を超える爆発的なヒット作になった。当時は「センスだけが勝負のギャグ漫画は2、3年しか持たない」と言われており、7年という長期連載は当時の少年漫画としても異例であり、単行本全30巻は「こちら葛飾区亀有公園前派出所」(秋本治)に抜かれるまで「少年ジャンプ」史上最長記録だった。

 

 同作品はタイトルにも表記されているトイレット博士は一応、主人公ではあるが殆ど出番は無く、ライバルであるダラビチ博士が実質的な主役で、ダラビチ博士やうんこを食べる美少女うんこちゃんを中心にうんこネタのギャグを繰り広げて人気を博した。『愛蔵版トイレット博士』(大田出版)第1巻あとがき・解説によると同作品の第1部が徹底したうんこネタだったのは恩師・赤塚氏の「お前は顔が汚いからうんこ漫画を描け」という指示を受けてのものだったという。

 

 第2部からはうんこネタだけではアイデアが枯渇して苦しくなってしまい、方向転換で人情ギャグ漫画になった。この方向転換が逆にアンケートの結果を飛躍的に伸ばし、とりい氏自身の執筆も楽になったが、その一方で本来の主人公であるトイレット博士の登場回数がますます無くなってしまった(最終回にも登場していない)。第2部からは当時の担当編集者である角南攻氏がモデルのスナミ先生率いる「メタクソ団」されたのNO.2の一郎太が主人公となり、第3部ではスナミ先生が主人公となった。第2部から結成された「メタクソ団」の合言葉の「マタンキ」や「七年殺し」のギャグが大人気となり、全国各地にメタクソ団支部が結成されるほどの一大ムーブメントとなった。

 

 「トイレット博士」以降は「少年ジャンプ」の専属を離れ、「週刊少年マガジン」で「うわさの天海」、「週刊少年チャンピオン」で「くたばれ!とうちゃん」、「冒険王」(秋田書店)で「花子先生」など各少年誌でギャグ漫画を連載していた。

 

 1981年から「コロコロコミック」で「ロボッ太くん」を連載。「トイレット博士」以降ではこの作品が一番のヒットとなった。私(ブログ主)の世代は「トイレット博士」よりもこちらの方が印象深いかもしれない。前半は主人公・ロボッ太とその家族(ロボパパ・ロボママ・ロボジジ・ロボイヌ)や学校の仲間たち(ホルモン・近の助)と下ネタ中心のドタバタギャグを展開し、後半はロボッ太をリーダーにロボイヌ・ホルモン・近の助の4名で「キンポコ少年団」を結成という「トイレット博士」に近い流れになり、凸凹(でこぼこ)小学校の校長のゲーハー校長率いる「ゲーハー中年団」(後に「ウンポコ隊」に改名)と抗争を展開するドタバタギャグとなった。「トイレット博士」連載時に全国各地に読者がメタクソ団支部が結成されたのと同様に「コロコロコミック」で実際に団員を募集してバッジをプレゼントする企画が行われ、当時の「コロコロコミック」のギャグ漫画では一番の人気だった。

 

 しかし誌面でのヒットとは裏腹にとりいさん自身は苦しかったようで『定本 コロコロ爆伝!! 1977-2009──『コロコロコミック』全史』(飛鳥新社・2009年)で「『トイレット博士』のメタクソ団が主人公のようなマンガを描いてほしいって言われたんです。それで始めたのが『ロボッ太くん』。ただ、その頃って『トイレット』を7年間続けて燃え尽きたあとで、すごく疲弊していたんですね」「自分のギャグの蓄積とキャリアで誤魔化しながら描いていた」「絵は綺麗になったけど、勢いがなくなった」「だから『ロボッ太くん』は正直苦痛でした」と語っている。

 

 そして1987年に創刊された「ビックコミックスペリオール」(小学館)で連載された「トップはオレだ!!日本一のセールス男」以降はハートフルな人情コメディ漫画中心に活動していた。この少年誌向けのギャグ漫画家から青年誌向けの人情コメディ漫画家への転向は「ロボッ太くん」連載時から考えていたようで、それを裏付けるように「別冊コロコロコミック」では「とりいかずよしファミリー劇場」として「かあちゃん」「とうちゃん」「にいちゃん」「ねえちゃん」といったタイトルどおりの家族愛をテーマにした読みきりシリーズを描いていた。

 

 私見ではあるが転換期となった「ロボッ太くん」連載時よりも前から、とりいさんは人情漫画への転向を考えていたのかもしれない。それを裏付けるように とりいかずよしさんの訃報が伝えられた時にはツイッターでは「トイレット博士」において終戦記念日に描かれた反戦の話が上げられていた。

 

『とりいかずよし先生の『トイレット博士』はオゲレツ極まりないストーリーで問題になったが、終戦記念日には反戦の話を描いいた→漫画と戦争について』

 

 

 

「センスだけが勝負のギャグ漫画は2、3年しか持たない」と言われていたギャグ漫画で「トイレット博士」を7年も連載していたとりいさんは他のギャグ漫画家よりも疲労し、とりいさん自身も「いつまでも続けられない」という自覚があったのではないだろうか。また読者を泣かせる感動的な人情ドラマを描く技量がとりいさんにはあった。

 

 赤塚不二夫先生の設立したフジオ・プロダクションからは古谷三敏、高井研一郎、北見けんいち、土田よしこ、河口仁(敬称略)等、多くの漫画家が巣立っていったが一番 赤塚先生のテイストを継いでいたのが とりいかずよしさんだったような気がしてならない。その作風によって作品がアニメ化できなかったことが残念でならない。

 

 小学生時代楽しませてもらった者として心よりご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 追伸、ブログ閲覧者の皆様へ。長らく更新せず申し訳ありませんでした。私生活で色々な事情がありブログの更新がままなりませんでした。ようやく安定しつつあるので少しづつですが更新していきたいと思います。