天国へ届け 「怪物くん」「忍者ハットリくん」「笑ゥせぇるすまん」他多数 藤子不二雄A先生死去 | 20世紀漫画少年記

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 4月7日午前8時40分、漫画家の藤子不二雄A(本名・安孫子素雄)先生がお亡くなりになりました。自宅で1人で倒れていると神奈川県警に通報があり、死亡が確認されました。享年88歳でした。

 

 パートナーだった藤子・F・不二雄(本名・藤本弘)先生は1996年に死去。かつて「藤子不二雄」の共同ペンネームを使っていた2人の巨匠は、ともに鬼籍に入った。

 

 藤子不二雄A先生は、富山県氷見市の光禅寺住職だった父を亡くし、1944年(昭19)に高岡市に引っ越し、高岡市立定塚小学校の5年2組で藤子・F・不二雄先生と出会った。漫画好きで意気投合し、高岡中に進むと漫画誌「少年倶楽部」を参考に漫画を描き始めた。手塚治虫先生の「ロスト・ワールド」に感銘を受けて共に漫画家になると決意。51年に「毎日小学生新聞」に送り、掲載された共作「天使の玉ちゃん」が、事実上のデビュー作となった。

藤子・F・不二雄先生は高岡工芸高を卒業して就職した製菓メーカーを3日で退社したが(えびはら武司氏の「まいっちんぐマンガ道」によると生前本人が「3日ではなく5日」と言っていたとのこと)、高岡高を卒業後、1952年に伯父が専務を務める富山新聞社に入社し、記者として2年勤務(学芸部と社会部で似顔絵やインタビュー記事を担当)。ともに漫画を書き続ける中、1954年に漫画家の寺田ヒロオさんの誘いを受けると、退社して藤子・F・不二雄先生と上京した(本人曰く「誘われたものの安定したサラリーマン生活が送れる新聞社に未練があった」と語っている)。東京・豊島区のトキワ荘に住む手塚さんを訪ねた日から手伝いを始め、後に手塚さんが使っていた14号室に入れ替わりで2人で入居(その後、トキワ荘には石森章太郎先生、赤塚不二夫先生といった後の巨匠が住むことになる)。同年の読み切り作「宇宙鉱脈」から、コンビ名を藤子不二雄とした。

 

 1964年に共作した「オバケのQ太郎」が空前の大ヒット(実質的にはこれが最後の共作だった)。その後も、藤子不二雄A先生が「忍者ハットリくん」「怪物くん」を、藤子・F・不二雄先生が「ドラえもん」「パーマン」をそれぞれ描き、実際には別々に執筆しながらも藤子不二雄共著として児童向けのギャグ路線の大人気コンビとして国民的人気漫画家となった。一方、藤子不二雄A先生は1968年の「笑ゥせぇるすまん」の原型である「黒ィせぇるすまん」などブラックユーモアあふれる、人間の影の部分を深掘りするような大人向けの作品に取り組み始めた。

 

 1987年に藤子・F・不二雄先生とコンビを解消。マスコミには「お互い年をとったのでそれぞれ好きな事を描いていこうと思いコンビ解消を決断した」と発表。当時は大きなニュースとなった。

 

 私(ブログ主)の世代が小学生の頃は藤子不二雄の第2の黄金期だった。

 

 「ドラえもん」は小学館の学習誌と「コロコロコミック」で連載され、テレビ朝日のアニメが高視聴率となり劇場版が作られるようになり国民的アニメとなった。「パーマン」は2度目のアニメ化となり、「オバケのQ太郎」も3度目のアニメ化。

 藤子不二雄A先生の作品も「忍者ハットリくん」がアニメ化(白黒テレビ時代に特撮番組となっていた)、「怪物くん」も再アニメ化、共に「コロコロコミック」で連載され、かつて「少年サンデー」で連載されていた「プロゴルファー猿」も「コロコロコミック」で「新プロゴルファー猿」とリメイクされ連載となりアニメ化もされるなど、テレビや少年誌で藤子不二雄先生の作品を見ない日は無いと言っても過言ではなかった。

 

 それゆえに1987年のコンビ解散は少し悲しかった。絵が違うことから別々に描いていることは想像できたが、やはりコンビ解散となると一抹の寂しさがあった。私の世代にとって「藤子不二雄」は「F」と「A」に別れるものではなく2人で1人の「藤子不二雄」だったからだ。

 

 小学生の頃、「怪物くん」「忍者ハットリくん」の単行本を買い揃え、アニメは毎週楽しみにしていた。「怪物くん」の超合金人形を親に買ってもらい、ファミコンブームの頃は「忍者ハットリくん」のゲームソフトを買いプレイした。

 中学になると「魔太郎がくる!!」をはじめとした藤子不二雄A先生のダークな作品を楽しむようになり、高校生の頃は「ギミアぶれいく」内で放送されたアニメの「笑ゥせぇるすまん」を毎週見ていた。大人になってからも藤子不二雄A先生の過去作品に楽しませてもらった。そしてこれからも楽しませてもらうことだろう。それは私の世代だけでなく、かつて子供だった頃、藤子不二雄先生の漫画を読んでいた人達がそうであると思う。

 

 藤子不二雄A先生の「まんが道」を読んで漫画家を志した人は多いだろう。「ゴリラーマン」「BECK」のハロルド作井氏も『BECK Volume 0 THE GUIDE BOOK』で藤子不二雄A先生との対談で「まんが道」の影響を熱く語っており、「キン肉マン」のゆでたまごの嶋田氏も「週刊プレイボーイ」誌で藤子不二雄A先生への追悼記事で「「まんが道」を読んで中井君と共に漫画家になろうと思った」と語っている。

 

 コンビとしての漫画家は実は藤子不二雄先生が初めてであるが、もし高岡市立定塚小学校の5年2組での2人の出会いがなければ、漫画家・藤子不二雄は誕生しなかったことになる。「怪物くん」も「忍者ハットリくん」も「プロゴルファー猿」も「笑ゥせぇるすまん」も「魔太郎がくる!!」も、そして「オバケのQ太郎」も誕生しなかったであろう。出会わなくても漫画家を志したかもしれないが、だが「藤子不二雄」としてでなければ、それらの作品は生まれなかったことは間違いないだろう。

 

 安孫子素雄と藤本弘の出会い。まさに天の巡り合わせと言うべき運命の出会いだった。

 

 訃報を聞いて以来、藤子不二雄先生の作品の色々な思い出が甦ってきた。

 

 そしてそれはみんな楽しい思い出だった。

 

 子供の頃、私は家庭環境が悪かったので嫌な思い出が大半だったが、それでも藤子不二雄先生の漫画を読んでいる時は本当に楽しかった。藤子不二雄A先生には楽しい思い出を戴き、心から感謝したい。

 

 本当にありがとうございました。

 

 心よりご冥福をお祈りいたします。