天国へ届け 『浮浪雲』『銭ゲバ』『アシュラ』他、 業に挑み続けた男 ジョージ秋山さん逝く② | 20世紀漫画少年記

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(1982年のジョージ秋山氏)

 

 秋山氏は「パットマンX」大ヒットした後、1970年、「週刊少年サンデー」において「銭ゲバ」を連載。 貧しい家に生まれた醜い少年・蒲郡風太郎が銭と暴力(ゲバルト)によって権力の頂点に上り詰めようとする波瀾万丈なピカレスクロマン漫画は主人公の自殺という衝撃的なラストを迎えた。

 

 

 ラストの見開きには当時のジョージ秋山氏の自画像が描かれていた。ラストのメッセージは主人公の言葉であると同時に秋山氏が読者に向けたメッセージだったのかもしれない。

 

 同じく1970年「週刊少年マガジン」において「アシュラ」を連載。 飢饉が広がる地獄絵図のような中世の日本を舞台に主人公のアシュラの姿を通して「生きるとはどういうことか?」を描いた壮絶な作品。 人肉を食べ、我が子(アシュラ)までをも食べようとする女の描写が当時問題となり有害図書指定された。

 生みの親と出会ったことで、自らの凄惨な出生の秘密を知ったアシュラの叫びは漫画史に残る名セリフとして語り継がれている。

 

 

 共に人間の 深い“業 ” を描いた この2つの作品、特に「アシュラ」は社会問題にもなり、各メディアから取材が殺到し秋山氏は「新しいタイプの文化人」として一躍、時の人になった。

 

 まだ騒動が続いていた1971年、「週刊少年サンデー」にて「人を殺した過去がある」と語るネガティブな自伝の「告白」を掲載。 しかし翌週には先週の告白は嘘であると書くという行為を繰り返して虚実ない交ぜの過去をつづった後に当時、数多く持っていた連載を全て終了させ、一時引退を宣言。6月より日本一周の放浪の旅に出る(後に「実際には放浪ではなく、現地でタクシーを雇い九州をひとり旅していた」と語っている)。

 

 その三カ月後に漫画家に復帰し、「少年ジャンプ」で「ばらの坂道」を連載する。心が病んだ母親を抱える少年・土門健が、多額のお金を手に入れ、仲間たちとともに「理想の村」という共同体を築こうとする姿を描いた文学的な作品だった。

 

 こうして復帰してからも問題作を発表していた秋山氏は「ビックコミックオリジナル」にて1973年から自身のライフワークとも言える『浮浪雲』の連載を開始した。同作品は大ヒットし同誌の看板作品となり、第24回小学館漫画賞 青年一般部門を受賞。 2017年まで44年続く大ロングラン連載となった。

 

 だが秋山氏は『浮浪雲』を連載中もまた数多くの問題作を発表していった。

 

 漫画を通して最後まで人間の深い“業 ”に挑み続けた秋山氏。その心境はいったい何だったのか。

 

 それを解くカギがジョージ秋山氏も憧れた“神様 ”手塚治虫がかつて自ら発行していたミニコミ誌「まんが宣言」創刊号にあった。

 

「まんが宣言」は手塚治虫が自分をはじめとしたプロ漫画家の発言の場として発行したミニコミ誌で、創刊号には秋山氏と手塚治虫の対談「【治虫対談】ジョージ秋山『私は小学1年生に戻った』」が掲載された。

 対談と言っても手塚治虫が秋山氏をインタビューするような内容だった。ウィキペディア によると秋山氏は「 手塚治虫については読んだことがないと述べているが テレビアニメ 『戦え!オスパー』 の仕事をともにした漫画家のとりいかずよしによると、実際には漫画を愛しており、手塚治虫についても大尊敬していて、手塚の写真を額に入れて飾っていた」という。その為か、この対談では憧れの人である手塚治虫を前にして正直な心情を吐露している。 

 

 

手塚「・・・・・例えば、あなたの「アシュラ」にしたって、最初の頃にくらべて、マガジンの意向によって、だいぶ振りまわされたって気がしてしょうがないんだけど、そのへんはどうだろう?」

秋山「やはり、教育委員会の発禁指示みたいなものが、マガジンに響いて・・・。僕一人で抵抗しましたけど・・・・。それにサンデーでは「告白」なんていきすぎたものを・・・・。」

手塚「いや、あれは、少しもいきすぎてはいませんでしたね。」

 

 秋山氏は自ら描いた「告白」を「いきすぎた」と語った。だがそれに対し、憧れの人である手塚治虫は「少しもいきすぎてはいませんでしたね」と言ってくれた。その事実が大きかったのか、その後も秋山氏は漫画に対する自らの思いを語り続けている。

 

秋山「一つにね・・・・漫画世代が卒業しはじめたってことです・・・・・。そういう世代と僕も卒業して、ビック・コミックや、他の青年誌に書けば楽なんだけど、僕だけはそうしないで、また一年生(新入学生)を迎えようと思ったんですよ。「パットマンX」ならわかるけど、新入生には「告白」なんてわかりっこないですよ。(中略)漫画家っていうのは、読者といっしょに電車に乗って行ってしまってはだめなんですよ。読者を一つ一つ送り出して自分は戻らなければ・・・・・」

手塚「なるほどねぇ、それで、あなたの二カ月の引退っていうのは、そのためだったんですか」

 

 手塚氏がここまで秋山氏に共感するのは恐らく、描いた作品が糾弾され世間から袋叩きにされた秋山氏の姿がかつての自分に重なったからではないかと思われる。後年は漫画の神様として、その作品も良心的漫画の代表のように言われた手塚氏だったが、1949年に「拳銃天使」で子供向け漫画で初めてキスシーンを描いて抗議を受けたことからはじまり、「やけっぱちのマリア」が有害図書指定された頃まで、その歴史は悪書として糾弾された歴史でもあった。そんな手塚氏にとって秋山氏の「アシュラ」騒動は他人事ではなかったのかもしれない。

 

秋山「たまたま、それが、二カ月だったということですね。僕はね、よく漫画家の中に“ジャリもの ”なんてことをいう人がいるでしょ?あれはひどくいけないと思いますねぇ。少なくとも自分がそれでめしを食ってきておきながら、そんな言い草はないですよ。それは、自分が、少年ものではヒットする力がないって事なんですよ。僕は、斬り死にの覚悟なんですよ。たとえ一人でもそれをやっていかなくちゃならないって・・・・」

手塚「それは、自意識とか、目的みたいなものはあるわけですか?」

秋山「それは、やっていればわかるものでしょ?」

手塚「すると、今、ジャンプでやっているのは(「ばらの坂道」)新入生を迎えるためのものなんですか・・・・?」

秋山「いや、あれは「アシュラ」の抵抗なんですよ。「アシュラ」のように、バーンとやるわけじゃないけど、じわじわと事件も起こさないで、やっていく。そんなものですよ・・・・」

 

「少なくとも自分がそれでめしを食ってきておきながら、そんな言い草はないですよ」

「僕は、斬り死にの覚悟なんですよ。たとえ一人でもそれをやっていかなくちゃならないって・・・・」

 

 この言葉に私は秋山氏の漫画家としての矜持を感じる。

 

秋山「いや、ぼくは、誇りをもって児童漫画家をめざして出発したわけですよ。親にも先生にも、名刺にも、そういってきたよ。あれから六年でしょ?六年で児童漫画を卒業したなんてことはありえないわけですよ。まだ、児童漫画を書きたいですよ。それに、青年ものもやるし・・・・・今は青年でしょ。だから、青年ものをやるのは、楽ですよ。でも、少年のあの純粋なもの、その仕事をしてからにしたいですよね」

 

 少年誌という表現上の制約の厳しい世界であえて問題作を描き続け、超ロングランの大ヒット作を生み出した後も問題作を描き続けたジョージ秋山氏。人間の “業 ”に挑み続けたその漫画家人生は、漫画家としての己の“業 ”に目を背けることなく、最後まで真剣に向かい続けた人間・秋山勇二の真実の姿だった。

 

  碑銘 

 

 少年のころは、打ちとけず、反抗的で、

 

 青年のころは、高慢で、御しにくく、

 

 おとなとなっては、実行にはげみ、

 

 老人となっては、気がるで、気まぐれ

 

 君の墓石にこう記されるだろう。

 

 たしかにそれは人間であったのだ。

 

 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ 『警句的』より

 

  私のような凡人には秋山氏がその長い執筆活動の果てに見たものはなんであったのかは想像はできない。だがそれはきっと秋山氏が残した数多くの作品からわかると思う。

 

 今頃は天国で憧れの人である手塚治虫氏と対談の続きをしているだろう。

 

 謹んでご冥福をお祈りいたします。