「二千七百の夏と冬」 荻原浩 双葉社 ★★★ | 水底の本棚

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本好きの方、ぜひのぞいてみてください。

2011年、夏――ダム建設工事の掘削作業中に、縄文人男性と弥生人女性の人骨が同時に発見された。二体は手を重ね、顔を向け合った姿であった。
3千年近く前、この二人にいったいどんなドラマがあったのか?新聞記者の佐藤香椰は次第にこの謎にのめりこんでいく。
紀元前7世紀、東日本――ピナイの村に住むウルクは15歳。

5年前に父を亡くし、一家を支える働き頭だが、猟ではまだまだ半人前扱い。
いろいろと悔しい目にあうことも多い。近ごろ村は、海渡りたちがもたらしたという神の実〝コーミー〟の話でもちきりだが、同時にそれは「災いをもたらす」と噂されていた。


二千七百の夏と冬(上)



「ずっと縄文時代を書いてみたかった」と作者の荻原浩さんは言う。


「縄文時代を書いてみたかった」という作家さんはそうはいないと思うが、


書いてみたかったと言うだけのことはあって、


縄文時代がとてもリアルに描かれている。



まあ、リアルって言ったって、実際縄文時代の生活がどんな風だったかなんて、誰にもわからないんだけどね。


とは言え、少なくとも読者が「縄文時代ってこんなだったかもなあ」と想像を膨らませることができるくらいに、細部にまでこだわって荻原浩さんがこの作品を作り上げているのは伝わってくる。


「ファンタジーにはしたくなかったので、言葉一つにも縛りを設け、動植物も当時の日本列島に実在したものだけを書く」と仰られている通りだ。


そのせいで、縄文人たちの獲物が、カァーだのイーだのクムゥだの、最初はそれがなんだかわからなくて慣れるまではずいぶんと読みづらいのだけれど。



さて。


物語は2011年の夏からはじまる。


とある地方支局の女性新聞記者が、ダムの建設現場から発見された人骨に興味を持つ。


地元国立大の准教授・松野によれば年齢は16、17歳の少年で、縄文晩期の人骨と推定された。


それ自体はさほど珍しいことではなく、問題は左手に握られたイネ科の珪酸体。

(つまりはコメだよね)


コメが縄文期の人骨と発掘された例は過去になく、松野は水耕稲作の開始=弥生期とする従来の説が覆る可能性も匂わせた。


その後、その少年に寄り添うようにもう一体、少女の人骨も発見される。


少年と少女は互いに手を握り合うような形で発見され、


一見するとまるで愛し合う二人が互いを求め合うように手を伸ばしているところに生き埋めにあったような、そんな絵面にも見える。


少年はなぜ稲の苗を握り、そこで命を落としたのか。


少女と少年の関係は。


なぜ二人は死ななければならなかったのか。


その謎が物語の中で明らかにされていく。



読み終えて思うことは、人間である以上、縄文時代も現代もさほど変わるわけではないなあということ。


実際に縄文時代の人々がこの物語のように思考し、行動していたかはわからない。


わからないけれど、きっとそうだったに違いないと思えるくらい、この物語には説得力がある。



美味しいものをおなかいっぱい食べたいと思うし、


自分より優れた相手がいれば嫉妬もするし、


好きな相手とずっと一緒にいたいと思うし、


できれば楽をして生活の糧を得ることができればいいなと思うし。



彼ら縄文人の行動様式の中で、何一つとして理解できないものはなかった。


その考え方は現代だったらありえないよなあとか、


そんな行動はいくらなんでもとらんよなあとか、


そういうものがまったくなかったと言って良い。



いつの時代も人は人なんだと。そんな風に思った。


物語の中でこんな風に語られるシーンがある。


今や日本人の平均寿命は90歳に迫ろうとしている。仮に人が90歳まで生きると仮定すると、


たった3回生き返りを繰り返すと江戸時代にたどり着き、現代の人間から30代前までさかのぼると、縄文時代までたどり着く。


そう考えると、縄文時代と現代の距離はそう遠いものではないと感じられる。




ありきたりな感想で申し訳ないけれど。


どんな時代も、人が食べて、寝て、笑い、泣き、争い、そして恋をして、歴史をつくってきた。


それはたぶん縄文時代も現代も何も変わらない。


これからもきっと変わらない。



物語のラストシーンで、富士山が描かれる。


縄文時代も現代も変わらぬ姿で日本人の営みを見下ろし続けてきたこの山が描かれることが、


おそらくそれを物語っているのではないかと思った。