「孤宿の人」 宮部みゆき 新潮社 ★★★☆ | 水底の本棚

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本好きの方、ぜひのぞいてみてください。

讃岐国、丸海藩に流されてきた幕府の罪人、加賀守。

紆余曲折を経て、その幽閉屋敷に下女として住み込むことになった少女ほうと、悪霊と恐れられた男の魂の触れ合いを描く時代ミステリ。


孤宿の人〈上〉 (新潮文庫)


※感想の中で物語の結末に触れています。未読の方はご注意を。




この物語の主人公の少女の名は「ほう」と言う。



「ほう」は阿呆の「ほう」だと少女は教えられて育った。



字はようやっとひらがなが書ける程度で、


暦もろくろく読むことができない少女は自分のことを、


頭の働きが鈍くて、半人前の、阿呆だと思ってその名を受け入れている。



江戸からやっかい払いをされるように、讃岐に送り込まれてきたほうだが、


讃岐の藩医である井上家にやっかいになり、


その後、女だてらに引手衆の末席にある宇佐と出会い、


そして最後は加賀の幽閉先の屋敷に住み込むこととなる。



ほうの通ってきた道は決して平坦ではなく、


むしろただの一日だって気楽に笑っていられることなんてなかっただろうけれど、


それでも、彼女の生来の純真さを認めてくれる人たちは多く、


宇佐はもちろんのこと、井上家の琴江や、お役人の渡部など、いつもほうのことを気にかけてくれる大人たちが彼女の傍にいた。



城下で悪霊と恐れられる加賀もまた、その一人だ。



ほうは度々、自分の名を阿呆の「ほう」だと説明する。


だが、ほうは阿呆なんかじゃないということは読者である僕にも、


彼女の周りの大人たちにもはっきりとわかっていた。



むしろ、目の前にあるものをあるべき形で素直に見ることができるほうは、


誰よりも優れた観察眼や、その意味を咀嚼して真実を見極める理解力や想像力も持っていたと僕は思う。



ほうなんかより、よっぽど阿呆な大人たちがこの物語にはたくさん出てくる。



流行病や天災をすべて「加賀守がやって来たせいだ」と考え、


何もかも悪霊だの怨念だのといった言葉で片付けてしまおうとする大人たち。



もちろん、時代のせいもあるだろう。


だけど、そういう大人たちは現代でもしっかりと生き残っている。


自分のしたことや、誰かがもたらしたものをちゃんと見ようとせずに、


すべて人外の力のせいにしてそれで頬っ被りを決め込むような態度は、とてもじゃないが利口とは言えない。


雷や火事ごときにうろたえて、そのいらつきを喧嘩で晴らそうなんていうのは阿呆のすることだ。


加賀の屋敷に近づいたくらいのことで、子供を斬り捨てるのは大馬鹿者のすることだ。


ほうはどんなときでも、自分の目でしっかりと見て、そしてちゃんと物事を考えていた。



牢屋番たちが恐れおののき、近づくことすら避けた加賀に対しても、


ほうはほうなりに考えて、そして自分なりの精一杯で彼に尽くそうとしたのだ。


加賀の事情なんて何も知らない頑是無い少女にできることが、どうして他の大人たちにはできないのか。


悪霊だの祟りだのといった迷信に惑わされる人たちも大概だが、さらに始末が悪いのは、それが迷信だと知っていながら、それを利用して自分の欲を満たそうとする者たちだ。


たとえば、美袮がそうだ。


宇佐のような人間でさえ、一瞬、藩が取り潰しになれば啓一郎と身分の差がなくなるなんていう願望が頭をかすめることがあるくらいなのだから、人間の欲というのは恐ろしいものだ。


そういう欲に負けた者こそ、阿呆と呼ばれるべきで、


ほうの「ほう」は阿呆ではなく、加賀がくれた名のように「方」だし「宝」なのだと思う。



それにしても、加賀にせよ、宇佐にせよ、琴江にせよ、牢屋番の石野にせよ、ほうに優しくしてくれた人たちはどうして皆、死んでしまうのか。


ただ一人でもいい。


ほうの傍に残って、彼女の頭を優しく撫でてやっていてほしかった。


ほうは強く、そして元気に生きている。


今だって十分に賢いほうのことだから、すぐに、誰の手も借りず、自分だけの力で立って歩けるようになるだろう。


そういう明るいラストを迎えられたことは幸せなのかもしれない。


だけど、それでも、最期までほうのことを考えていてくれた宇佐くらいは、


やっぱり生きていて、彼女と一緒に暮らしてほしかったなあ。



「おあんさん、おはようございます」
走りながら呼びかける。ほうは元気で、今日も一日しっかり働きます。