ある善良な家族の上に降りかかった一つの殺人事件。
被害者の遺族、そして加害者の家族がその運命を狂わされていく様を、多感な年頃の少女・真裕子を主人公にして描いた社会派問題作。
※ねたばらし全力です。未読の方はご注意あれ。
ひとりの教師が、自分の教え子の母親と不倫の末、刺殺してしまう。
起こる事件はたったのこれだけだ。
正直言って、現実の新聞の紙面に載っていてもちっともおかしくない事件である。
そのごく当たり前の事件が、上下二冊の厚い本になってしまった。
いわゆる本格推理と呼ばれるような作品では、ひとつひとつの殺人が掘り下げられることはない。
下手をすればたった一行で殺されてしまい、あと、何のフォローもない人だっている。
だが、その彼らにも人生があり、家族があり、友人があり、夢も希望もあるのだ。
忘れていたそのことをまず再認識させられた気がする。
この小説で僕が最も興味深かったのは、
加害者と被害者、それぞれの家族の対比。
加害者・松永の妻である香織、
被害者・高浜則子の夫と二人の娘、千種と真裕子。
同じように事件に翻弄され、
マスコミや野次馬根性たっぷりの周囲の人々に蹂躪され、家庭を崩壊させ、
その人生をめちゃめちゃにされていく。
加害者と被害者は、その周囲の人々すべてを含めて、
それらは対極の関係にあるのではない、表裏一体の関係にあるのだ、そう思った。
同時に、このそっくりな顔をしたカードの表と裏を、
別のものにしているのはただひとつの事実だということにも気づいた。
それは、加害者は生きていて、被害者は死んでいるのだということ。
香織は松永に対して怒りを顕にし、そして平穏な生活を何とか取り戻したいと願う。
彼女の裁判に対する想いはひたすらに強い。
頼むから無罪であってくれ、と夫が提示してきた偽物の証拠にまですがりつく。
対して、真裕子の想いは、死んだ母親に向かう。
裁判の結果などどうでもよい、松永のことも最後まで「松永先生」と呼ぶほどに怒りは薄い。
彼女はただただ、母親に呼びかける。ねえ、早く帰ってきてよ、と。
加害者は生きていて被害者は死んでいる、
その事実が残された家族の事件に対する気持ちをまったく別のものにするということを実感した。
そもそも裁判というものは、加害者の罪に対する罰を与えるものであって、
それで被害者や被害者の家族の救済が癒されるものではない。
被害者はただ単に事件のもとになった人であって、主役はあくまでも加害者なのだ。
なぜなら、被害者は死んでいて、加害者は生きているから。
真裕子の言葉が僕にも突刺さった。
「犯人が誰であろうと、お母さんが生き返るわけじゃない。松永先生が犯人だからって、先生を死刑にしたとしたって、お母さんは返ってこないのよ。憎んだって恨んだって、お母さんは生き返らないじゃない。犯人なんか、関係ない。皆だって、私たちと関係ないところで裁判をしているんだもの、私たちにとってだって、犯人なんか、関係ない!」
「私、裁判って-お母さんの為にやってくれるんだと思っていた。本当に」