「神田紅梅亭寄席物帳 道具屋殺人事件」 愛川晶 東京創元社 ★★★★ | 水底の本棚

水底の本棚

しがない書店員である僕が、
日々読んだ本の紹介や感想を徒然なるままに書いていきます。

書店のオシゴトの様子なんかも時々は。
本好きの方、ぜひのぞいてみてください。

落語でサゲて「事件」も解決。本格落語ミステリの真打登場!
山桜亭馬春と寿福亭福の助の師弟コンビ+一人が寄席を舞台に起こる謎に挑戦する。


道具屋殺人事件 (神田紅梅亭寄席物帳) (創元推理文庫)



小学生の頃から落語は大好きだった。


将来の夢は、サッカー日本代表に入って国立競技場でプレイすることか、噺家になることだった。

どんな子供だ、それは。


それが「落語」というものだとは知らないままに、


偕成社(だったと思う)のジュブナイル版の落語の本を図書館から借りてきては


繰り返し、繰り返し読んでいた。


あんまり僕が熱心なので祖母が実際に落語に連れて行ってくれた。


腹を抱えて大笑いした。


祖父は金馬師匠や志ん生師匠の落語のカセットテープを買ってくれた。


擦り切れるほどに何回も聴いた。


そんな僕だからこそ、楽しめたのだという気はする。




落語に対して知識も関心もなく、


ただ愛川晶のファンだから、ミステリ好きだからという理由で本書を手に取った人でも


僕と同じように楽しめるかは疑問だ。


本書はそれほどマニアックな内容になっている。




たとえば、脳血栓で倒れて病院に担ぎ込まれた馬春が


手術後に「巨人軍の宴会はこりごりだ」と言うエピソードがあるが、


これなど志ん生師匠がジャイアンツの優勝祝賀会で倒れたという現実のエピソードを知らなければ、


面白くも何ともないだろうと思う。


だから、この本の評価は難しい。僕は面白いと思うんだけど…。




※少しだけねたばらし……かな?






「道具屋殺人事件」は実際に殺人事件が起こり、


凶器として仕込み杖ならぬ仕込み扇子が高座で発見される。


抜けちゃいけない(というか抜けるはずのない)木刀が


すっと抜けてしまうあたりが面白さなのだけど…うーん、ミステリとしてはどうなのだろうか。


動機そのものは何もヒントがないのでわからなかったけれど、犯人は一発でわかった。


登場人物が限られいる短編だから選択肢はそう多くはないし。


この短編集はミステリとしての面白さ云々よりも、噺家たちの生態描写にその魅力があると思う。


だから無理に殺人事件なんか起こさなくてもよかったんじゃないかなあ。




「らくだのサゲ」では「らくだ」という古典の名作を、


福の助がサゲを変えて演じなければならないという難題に挑戦する。


そして楽屋の外では、ホスト上がりの噺家・福神漬が、


元恋人を殺害したのではないかという嫌疑をかけられる。


このふたつの難問を同時に解決してみせるという見事な趣向。


なるほど、「冨久」と「らくだ」の合体ねえ。よく考えたものだ。


落語というのはその藝の性質上、キャラクターが被るということはよくある。


たとえば、お人好しでちょっとアタマのネジが外れかかってて、


でも真面目で気のいい若者、なんていうキャラクターを出したければ、


わざわざそれを説明しなくても「与太郎が」の一言で済んでしまう。


僕はある落語のエッセイ本で「真田小僧」や「雛鍔」の金坊は、


「居残り左平次」の主役である左平次の幼き日の姿であるという推理を読んだことがある。


真偽の程はともかく、空想としては楽しい。


そういう楽しみ方ができるのが落語のいいところだ。



「勘定板の亀吉」は本当にもう、お見事!と言うしかない作品だ。


「肥瓶」と「壺算」を見事にスイッチさせた小喜楽師匠にも、


それを解き明かしてみせた福の助もたいしたものである。


落語というのは現代においては本当に難しい藝になってきたと思う。


たとえば、前述の「居残り左平次」のサゲなんか、そのまま演っても絶対に通じない。


僕は本で字面を見ているから意味がわかるけれど、


予備知識無しに初めて聴いたなら、まずたいていの人が首を傾げるだろうと思う。


だから、意味の通じるところでぶった切ったり、オチを自分なりに改変する噺家も多いし、


新作ばかり演る人も増えてくる。


亀吉が言うように噺家は笑わせてナンボの商売だから、


笑いももらえないのに真っ直ぐに古典を演じようというのは間違っているのかもしれない。


だけど、僕はそれはちょっと淋しいよなと思う。


落語は演じ手によっていくらでも形を変える大変に自由度の高い藝である。


「たちきれ線香」のように、サゲを一文字入れかえるだけで内容がガラッと変わる噺もあるくらいだ。


だからこそ、それをいじるのは生半可な気持ちでやって欲しくないという思いが僕にはある。


多くの噺家の方たちが半端な気持ちでそれをやっているわけじゃないことは承知しているが、


時折、疑問に思わざるを得ないような高座を見せられることもある。



噺の本質をいじらないで、現代でも通じるような改変をする。


それは難問だとは思うけれど、噺家の皆さんには頑張ってほしい。